「……社長、おつかれさまです」
思いきって声をかけたのは、
資料を提出するために会議室の前で待っていたときだった。
資料を両手に抱えた私に、社長は一瞬だけ足を止めた。
「……ありがとう。ごくろうさま」
それだけ。
目も、声も、冷たくはなかった。
でも、そこに温度はなかった。
会話が終わったあと、
ドアが閉まる音だけが残った。
(……やっぱり、避けられてる)
そう思わずにはいられなかった。
たった二言。
でも、それだけでわかってしまう。
あの日、社内カフェで水野さんと並んでいたあの時間が──
社長の中で、なにかを決定づけてしまったんだと。
(ちがうんです。ほんとうは……)
ちゃんと説明すればよかった。
あのとき、自分から話しかけていれば。
水野さんの気持ちも、
私の心の中も、
まだ何も決まってないって──
あなたが、今も特別で、
あなたを支えたいって思っているのは、変わらないって──
でも、もう言えない。
今の社長は、まるで「無風」のような人だった。
怒りも、戸惑いも見せない。
ただ、業務の中で正確に言葉を交わし、
その背中だけが遠ざかっていく。
あの人の声が、Velvetを通して私を包んでくれていた頃のことなんて、
もうずっと昔の夢みたいだった。
(どうして、こんなに苦しくなるんだろう)
正社員として戻れたこと。
そのために努力して、手に入れた居場所。
それなのに、
肝心な心の居場所だけが、遠くなる。
それでも私は、
どうしても社長に誤解されたままでいたくなかった。
嫌われたくない。
失望されたくない。
遠ざけられたくない。
それだけが、胸の奥でずっと鳴っていた。
──でも。
社長は、いまの私に対して、何も言ってこない。
無関心なのか。
それとも、なにかを感じているからこそ、距離を取っているのか。
それすらわからない。
私は、デスクに戻りながら、心の中で言った。
(お願いだから──もう一度だけ、話をさせて)
このままじゃ、きっと何も変えられない。
だから、もう一歩踏み出さなきゃ。
遠くなった背中に、
もう一度、ちゃんと想いが届くように。
*
(ここだけは、手を抜かない)
資料のまとめ直しを頼まれたとき、
心の中で、そう決めた。
ただ指示されたからじゃない。
「正社員として戻ってきた意味」を、自分自身に証明したかった。
画面の向こうで、次々に開く数値データと格闘しながら、
私は資料の精度を何度も確認した。
喉が渇いていることにも気づかず、
気づけば、外はすっかり夕暮れだった。
「望月さん、まだやってたの?」
通りがかりの野崎さんにそう声をかけられて、
ようやく時計に目をやった。
「すみません……あと少しでまとまりそうで」
「本気だねぇ。ま、無理しすぎないようにね」
そう言って笑いながら、先輩は帰っていった。
私はひとり残って、再びモニターに向き直った。
──そう、その姿を、社長は偶然見ていた。
*
【葉山律 side】
別フロアの会議を終えた帰り道。
社内を横切る通路から、ふと開けたガラス越しのワークスペースに目を向けたとき。
そこに彼女の姿があった。
薄明かりの下で、ひとりきり。
小さく眉を寄せ、黙々と何かに向かっている。
誰に頼まれたわけでもない。
誰に褒められることも期待せず。
ただ、まっすぐ。
その横顔に、思わず足が止まった。
(……あの頃の君じゃない)
最初に出会った頃の彼女は、いつもどこか自信がなさそうで、必要以上に恐縮していた。
だけど今は、違う。
指先に宿る意思も、視線の先にあるものも、
確かに何かをつかもうとしている。
それが、何より美しかった。
「……支えるって、そういうことか」
小さく、呟いた言葉は誰にも届かない。
でも、心のどこかで確かに響いていた。
誰かに必要とされることだけが、強さじゃない。
誰かの隣に立つために、自分で選んで努力し続ける。
──彼女は、それを実行していた。
(なのに、俺は……)
少しのすれ違いで、勝手に距離を取って。
言葉も投げず、ただ背を向けて。
彼女がずっと、自分を見ていてくれたことにも、気づこうとしなかった。
あの目を、あの声を、ちゃんと受け止めてこなかった。
(君の気持ちに、俺は何ひとつ応えていない)
なのに、嫉妬していた。
笑顔を、手を、会話を──自分のものじゃないと気づいた瞬間、
あんなにも心が揺れたのに。
それなのに、何も伝えなかった。
胸の奥に痛みが灯る。まるで、後悔という名の警鐘だった。
*
今日は、気合いを入れたくて。
クローゼットの奥にしまっていた、
少しヒールの高いパンプスを履いて出社した。
いつもより背筋が伸びて、
足取りもどこか意識してしまう。
(ちゃんと話そう。今日こそ)
逃げないって決めた。
あの人の目を、ちゃんと見て。
今の自分の気持ちを、まっすぐに伝えるんだ。
それだけで、朝から心臓がずっと落ち着かなかった。
メールの文字が頭に入ってこなくて、
何度も読み直す。
社内の足音、キーボードの音、会話の響き──
すべてが遠くで鳴っているように感じた。
社内のグループウェアを開き、スケジュール機能で「葉山律」の予定をこっそり確認する。
会議と面談でびっしり埋まったその予定表の中に、午後1時から15分だけ、空白の時間があった。
その短い隙間に、話しかけられたら──。
タイミングを逃さなければ、きっと……。
画面を閉じて、手をぎゅっと握った。
決めた。今日は、ちゃんと伝える。
そして──昼休み直後。
ちょうど水野さんに書類のことで呼び止められた、そのときだった。
「……あ、気をつけ──!」
慣れないヒールで立ち止まった瞬間、
バランスを崩して足首がぐらりと傾いた。
次の瞬間、腕を引かれて、
ふわっと胸元に引き寄せられる。
水野さんだった。
「大丈夫……ですか?」
顔が近い。
目の前にあるのは、
真剣に私を見つめる瞳と、
支えてくれているあたたかい腕。
(……まるで、抱きしめられてるみたい)
一瞬、時間が止まったような気がした。
──そのときだった。
「望月さん」
背後から聞こえた声。
振り向くと、そこには社長が立っていた。
片手に資料を持ったまま。
その手は、ぎゅっと強く握られていて、
その横顔は、ひどく静かで──でも、どこか鋭かった。
「社長……?」
私が名前を呼ぶ間もなく、
彼はまっすぐ歩いてきて、私の腕を掴んだ。
「来て」
「えっ、ちょ、ちょっと待って──」
抵抗する間もなく、私は引っ張られるようにして歩かされた。
水野さんの声が、背中に遠く響く。
でも、私は振り返ることができなかった。
社内の奥──
鍵のかかる会議室。
社長は勢いよくドアを閉め、私の手を離した。
「……なにしてた」
低く落ち着いた声。
でも、その声の奥に、何かが激しく燃えているのを感じた。
「え、あの、転けそうになって──水野さんが……!」
うまく言葉が出てこない。
心臓の鼓動が速すぎて、息が詰まる。
社長は私をじっと見ていた。
まるで何かを押し殺すように。
「……俺の目の前で、ああやって誰かに触れられるの、もう、見ていられない」
「え……?」
「ずっと我慢してた。
社長として、上司として、言うべきじゃないって」
一歩、距離が縮まる。
「でも、もう限界だ」
私は、何も言えなかった。
目の前にいるのは、
いつものクールで「恋愛上級者」な社長じゃない。
揺れていて、苦しそうで──
それでもまっすぐに、私を見ている。
「好きだよ。……ずっと、見てた」
それは、まぎれもなく
「葉山律」というひとりの人間としての声だった。
何かが崩れる音がした。
私の中にあった壁も、
彼が背負ってきた立場も、
全部、いま──ただの想いに溶けていく。