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第17話

「……社長、おつかれさまです」


思いきって声をかけたのは、

資料を提出するために会議室の前で待っていたときだった。


資料を両手に抱えた私に、社長は一瞬だけ足を止めた。


「……ありがとう。ごくろうさま」


それだけ。


目も、声も、冷たくはなかった。

でも、そこに温度はなかった。


会話が終わったあと、

ドアが閉まる音だけが残った。


(……やっぱり、避けられてる)


そう思わずにはいられなかった。


たった二言。

でも、それだけでわかってしまう。


あの日、社内カフェで水野さんと並んでいたあの時間が──

社長の中で、なにかを決定づけてしまったんだと。



(ちがうんです。ほんとうは……)


ちゃんと説明すればよかった。


あのとき、自分から話しかけていれば。


水野さんの気持ちも、

私の心の中も、

まだ何も決まってないって──


あなたが、今も特別で、

あなたを支えたいって思っているのは、変わらないって──



でも、もう言えない。


今の社長は、まるで「無風」のような人だった。


怒りも、戸惑いも見せない。

ただ、業務の中で正確に言葉を交わし、

その背中だけが遠ざかっていく。


あの人の声が、Velvetを通して私を包んでくれていた頃のことなんて、

もうずっと昔の夢みたいだった。



(どうして、こんなに苦しくなるんだろう)


正社員として戻れたこと。

そのために努力して、手に入れた居場所。


それなのに、

肝心な心の居場所だけが、遠くなる。



それでも私は、

どうしても社長に誤解されたままでいたくなかった。


嫌われたくない。

失望されたくない。

遠ざけられたくない。


それだけが、胸の奥でずっと鳴っていた。



──でも。

社長は、いまの私に対して、何も言ってこない。


無関心なのか。

それとも、なにかを感じているからこそ、距離を取っているのか。


それすらわからない。



私は、デスクに戻りながら、心の中で言った。


(お願いだから──もう一度だけ、話をさせて)


このままじゃ、きっと何も変えられない。


だから、もう一歩踏み出さなきゃ。


遠くなった背中に、

もう一度、ちゃんと想いが届くように。



*


(ここだけは、手を抜かない)


資料のまとめ直しを頼まれたとき、

心の中で、そう決めた。


ただ指示されたからじゃない。

「正社員として戻ってきた意味」を、自分自身に証明したかった。


画面の向こうで、次々に開く数値データと格闘しながら、

私は資料の精度を何度も確認した。


喉が渇いていることにも気づかず、

気づけば、外はすっかり夕暮れだった。


「望月さん、まだやってたの?」


通りがかりの野崎さんにそう声をかけられて、

ようやく時計に目をやった。


「すみません……あと少しでまとまりそうで」


「本気だねぇ。ま、無理しすぎないようにね」


そう言って笑いながら、先輩は帰っていった。



私はひとり残って、再びモニターに向き直った。


──そう、その姿を、社長は偶然見ていた。





【葉山律 side】



別フロアの会議を終えた帰り道。

社内を横切る通路から、ふと開けたガラス越しのワークスペースに目を向けたとき。


そこに彼女の姿があった。


薄明かりの下で、ひとりきり。

小さく眉を寄せ、黙々と何かに向かっている。


誰に頼まれたわけでもない。

誰に褒められることも期待せず。

ただ、まっすぐ。


その横顔に、思わず足が止まった。



(……あの頃の君じゃない)


最初に出会った頃の彼女は、いつもどこか自信がなさそうで、必要以上に恐縮していた。


だけど今は、違う。


指先に宿る意思も、視線の先にあるものも、

確かに何かをつかもうとしている。


それが、何より美しかった。



「……支えるって、そういうことか」


小さく、呟いた言葉は誰にも届かない。


でも、心のどこかで確かに響いていた。


誰かに必要とされることだけが、強さじゃない。

誰かの隣に立つために、自分で選んで努力し続ける。


──彼女は、それを実行していた。




(なのに、俺は……)


少しのすれ違いで、勝手に距離を取って。

言葉も投げず、ただ背を向けて。


彼女がずっと、自分を見ていてくれたことにも、気づこうとしなかった。


あの目を、あの声を、ちゃんと受け止めてこなかった。




(君の気持ちに、俺は何ひとつ応えていない)


なのに、嫉妬していた。

笑顔を、手を、会話を──自分のものじゃないと気づいた瞬間、

あんなにも心が揺れたのに。


それなのに、何も伝えなかった。


胸の奥に痛みが灯る。まるで、後悔という名の警鐘だった。


*


今日は、気合いを入れたくて。

クローゼットの奥にしまっていた、

少しヒールの高いパンプスを履いて出社した。


いつもより背筋が伸びて、

足取りもどこか意識してしまう。


(ちゃんと話そう。今日こそ)


逃げないって決めた。

あの人の目を、ちゃんと見て。


今の自分の気持ちを、まっすぐに伝えるんだ。



それだけで、朝から心臓がずっと落ち着かなかった。


メールの文字が頭に入ってこなくて、

何度も読み直す。


社内の足音、キーボードの音、会話の響き──

すべてが遠くで鳴っているように感じた。




社内のグループウェアを開き、スケジュール機能で「葉山律」の予定をこっそり確認する。


会議と面談でびっしり埋まったその予定表の中に、午後1時から15分だけ、空白の時間があった。


その短い隙間に、話しかけられたら──。

タイミングを逃さなければ、きっと……。


画面を閉じて、手をぎゅっと握った。

決めた。今日は、ちゃんと伝える。




そして──昼休み直後。

ちょうど水野さんに書類のことで呼び止められた、そのときだった。


「……あ、気をつけ──!」


慣れないヒールで立ち止まった瞬間、

バランスを崩して足首がぐらりと傾いた。


次の瞬間、腕を引かれて、

ふわっと胸元に引き寄せられる。


水野さんだった。


「大丈夫……ですか?」


顔が近い。


目の前にあるのは、

真剣に私を見つめる瞳と、

支えてくれているあたたかい腕。


(……まるで、抱きしめられてるみたい)


一瞬、時間が止まったような気がした。




──そのときだった。


「望月さん」


背後から聞こえた声。


振り向くと、そこには社長が立っていた。


片手に資料を持ったまま。

その手は、ぎゅっと強く握られていて、

その横顔は、ひどく静かで──でも、どこか鋭かった。


「社長……?」


私が名前を呼ぶ間もなく、

彼はまっすぐ歩いてきて、私の腕を掴んだ。


「来て」


「えっ、ちょ、ちょっと待って──」


抵抗する間もなく、私は引っ張られるようにして歩かされた。


水野さんの声が、背中に遠く響く。


でも、私は振り返ることができなかった。



社内の奥──

鍵のかかる会議室。


社長は勢いよくドアを閉め、私の手を離した。


「……なにしてた」


低く落ち着いた声。

でも、その声の奥に、何かが激しく燃えているのを感じた。


「え、あの、転けそうになって──水野さんが……!」


うまく言葉が出てこない。


心臓の鼓動が速すぎて、息が詰まる。


社長は私をじっと見ていた。

まるで何かを押し殺すように。


「……俺の目の前で、ああやって誰かに触れられるの、もう、見ていられない」


「え……?」


「ずっと我慢してた。

社長として、上司として、言うべきじゃないって」


一歩、距離が縮まる。


「でも、もう限界だ」




私は、何も言えなかった。


目の前にいるのは、

いつものクールで「恋愛上級者」な社長じゃない。


揺れていて、苦しそうで──

それでもまっすぐに、私を見ている。


「好きだよ。……ずっと、見てた」


それは、まぎれもなく

「葉山律」というひとりの人間としての声だった。



何かが崩れる音がした。


私の中にあった壁も、

彼が背負ってきた立場も、

全部、いま──ただの想いに溶けていく。

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