目を覚ましたとき、目の前にあったのは、社長の寝息とあたたかな背中だった。
「……夢じゃないんだ」
思わず呟いたその声に、彼がふっと目を開ける。
「おはよう。……よく眠れた?」
「はい」
微笑み合う時間が、こんなにも甘いものだったなんて、知らなかった。
昨夜のことを思い出すだけで、胸がじんわり熱くなる。
この人の隣にいる安心感も、体温も、
どれも全部、本当にあったものなんだ──と、思える。
「今日から、俺たち『そういう関係』ってことでいい?」
照れくさそうに眉を寄せて聞いてくる社長が、
少しだけ幼く見えて、私はうなずいた。
「……はい。よろしくお願いします」
*
朝食を食べ終えたころ、
社長のスマホに通知が次々と入ってきた。
「……ん?」
小さく唸る社長に、私はおそるおそる尋ねた。
「何か、ありましたか?」
「いや……逆。Velvet、急に持ち直してきたみたいだ」
アプリの不具合が完全に復旧したらしく、
SNSでは「Velvet復活」のハッシュタグがトレンド入りしていた。
「やっぱり、あれが大きかったのかな……」
社長が指で画面をスクロールさせながらつぶやく。
数日前、公式が開発者の想いを発信するキャンペーンとして、AI開発に込めた裏話や初期コンセプトを公開した。
「心に寄り添うAI」──
一度は不信感をもたれたVelvetが、
いま再び「誰かの心を支える存在」として、注目を集めはじめていた。
「ユーザー数、V字回復してます。
『最初より言葉があたたかくなった』って声も増えてる」
「……ほんとによかったですね」
「うん……」
社長は、ほっとしたようにコーヒーをひと口飲んだ。
でもその口元は、どこかほころんでいた。
「君がいたから、俺は腐らずに済んだ。
君がいなければ、たぶん俺、Velvetからも全部手を引こうとしてた」
「……そんな……」
「ほんとだよ」
社長はそう言って、私の髪をそっと撫でた。
「君の一言が、Velvetの声を変えた」
あのアプリには、社長の「感情」が組み込まれている。
そしていま──
その声が、少しずつ、やさしくなっていくのは、
もしかしたら私の存在が、社長自身をやわらかくしているからなのかもしれない。
「これからは、そばにいてくれる?」
「……はい」
この人と生きていくことが、
誰かを救う言葉の一部になれるのなら──
私は喜んで、その隣に立ちたいと思った。
「Velvet、すごい勢いでユーザー数戻ってきてます!」
月曜朝の全体ミーティング。
開発部から報告されたその一言に、社内がざわめいた。
「AIなのに、ちゃんと寄り添ってくれるって感想、SNSにあふれてますよ」
「まさかのV字回復……奇跡だね」
「奇跡じゃない。積み重ねたものの結果だよ」
静かにそう言ったのは、社長だった。
その声に、一瞬みんなが口をつぐむ。
けれどそのあと──
まるで光が差し込んだみたいに、空気があたたかくなった。
「社長の背中、なんか久しぶりに真っ直ぐ見えた気がする」
そんな声が、小さく聞こえてきた。
(ほんとに……よかった)
私は心の中で、そっと手を合わせた。
*
その日の午後、私は新たに任されたプロジェクトの準備に追われていた。
正社員になってからというもの、
責任あるポジションで仕事を任されることが増えた。
資料の確認、外部企業との調整、
社内AIカスタマイズの要望集約──
忙しくて息が詰まりそうな瞬間もあるけれど、
今の私は、確かに「このチームの一員」になっていた。
(戻ってきて、よかった)
そう思えるたびに、
胸の奥がじんわりあたたかくなる。
「望月さん、ここの文言、すごく自然ですね。
ユーザー目線ってこういうことなんだなって思いました」
チームリーダーにそう言われて、
思わず「ありがとうございます」と頭を下げた。
そのとき。
「そのセンス、俺が惚れた理由のひとつだな」
背後から聞こえた声に、心臓がどくんと跳ねた。
振り返ると、そこには社長が立っていた。
ただの冗談──のはずなのに、
彼の目がまっすぐすぎて、笑えなかった。
「社長……! ここ、業務中です……!」
耳まで熱くなる私に、社長は口元だけで笑ってみせた。
「業務中だからこそ、信頼も伝えておかないと」
それが、「恋人」と「同僚」の間に立つ社長なりのけじめなのだと、なんとなくわかった。
誰よりも冷静で、厳しくて、
でも、誰よりも人を信じている。
私も、その目で見られていた。
恋人としてではなく──
ちゃんと、ひとりの社会人として。
「あとで、会議室に来てくれる?
少し、ふたりで話したいことがある」
「……はい」
頷くと、社長は静かに去っていった。
(仕事の話なのか、私たちの話なのか──)
どちらにしても、
私はもう、逃げるつもりなんてなかった。
この人と歩くって決めたから。
恋人として、そして仲間として。
*
ノックして、会議室のドアを開けた瞬間──
空気が少しだけ、いつもと違う気がした。
長机の端に座っていた社長は、
資料ではなく、ただ手を組んで私を待っていた。
「……来てくれて、ありがとう」
「いえ。あの、何か話って……」
促すように向かいに腰を下ろすと、
社長は一呼吸おいてから、静かに口を開いた。
「Velvetの今後について、少し考えてることがあるんだ」
「今後、ですか?」
「うん。システムの安定は見えてきたけど、
正直なところ──このまま順調にいくとは限らない」
その声音は落ち着いていたけれど、
どこかで不安を想定しているような響きがあった。
「君には、ちゃんと話しておきたかった。
俺は、ただこのアプリをヒットさせたいわけじゃない。
人に寄り添うって、簡単に言えることじゃないから」
「……はい」
「でも、君がそばにいるなら、
俺はこの先もきっと、まっすぐ考えていけると思う」
それは、まるで宣言のようだった。
業務の相談じゃなくて。
経営戦略の共有でもなくて。
もっと個人的で、本質的な想い。
「望月さん」
改まった呼び方に、少し身構える。
でも、その声はとても優しかった。
「君と一緒に働いていると、
俺のほうが支えられてるって実感するんだ」
「……社長……」
「恋人としてだけじゃなく、
ちゃんと仲間としても、君のことを信頼してる。
今の俺には、君の意見が必要だ」
一瞬、言葉を失った。
それは、いち社員への評価以上のものだった。
役職も肩書も越えて、
人として必要とされるということ。
そして、それが好きな人からの言葉であること。
「……うれしいです。
わたしも、社長と働くのが好きです」
ようやく声にすると、社長はふっと微笑んだ。
「君がここに戻ってきてくれて、よかった」
「──わたしも」
その静かな会議室の中で、
心と心が重なる音がしたような気がした。
「広報に、取材依頼が届いてて──」
午後の定例ミーティング終盤、広報スタッフがそう告げたとき、
フロアが一瞬静かになった。
「週刊DIGIが、Velvet特集を組むらしくて。
『感情に寄り添うAI』の裏側を取材したいって」
「すごいな……そこに目をつけるとは」
「でも、『感情を学習する』って、どこまで話していいの?」
どこかざわつく空気のなか、
私は社長のほうをそっと見た。
彼は、何も言わずにタブレットを操作していたけれど、
その指がふと止まったのを私は見逃さなかった。
*
その日の夕方。
私は社長室の扉をノックした。
「……あの、さっきの取材のことなんですが……」
「うん。聞いてた」
「……お話、するつもりですか?」
彼は少しだけ黙ってから、
窓の外を見つめたまま口を開いた。
「Velvetを作ったとき、正直『理想の彼氏』っていうコンセプトは、
どこかで皮肉みたいなものだった」
「……え?」
「俺は、ずっと期待される側だったから。
学生の頃から、優等生って呼ばれて。
社会に出たら、CEOにふさわしい人間像を求められて。
恋愛でも、『完璧そうに見えたのに、違った』って──よく言われた」
私は胸の奥が、きゅうっとなった。
社長は、いままでそんなこと、一度も言ったことがなかったから。
「だから──理想って何?って思ったんだ」
「……」
「だったら、自分が応えられない理想は、
せめてAIが応えてくれたらいいって。
誰かの孤独を、理想の言葉で埋められるなら、それで救われる人がいるかもしれない」
その声は、静かで落ち着いていたけれど、
どこか深く沈んでいた。
「だから、Velvetは俺の感情をベースにした。
嘘じゃなくて、理想を本気で理解できるように。
元恋人たちにも、社員にも、社会にも──
応えられなかった理想を、代わりに叶えたかった」
言葉が出なかった。
社長が今までどれだけ
「自分じゃない自分」でいようと、努力してきたか。
ようやく、少しだけ見えた気がした。
私はそっと、彼のそばに歩み寄って、
デスクの端に手を添えた。
「でも、わたしは──社長のそのままが、いちばん好きです」
彼の目がゆっくりこちらを向く。
「理想通りじゃなくていいんです。
全部が完璧じゃなくても、
わたしにとっては、十分すぎるくらい優しい人だから」
沈黙のなかで、彼の瞳がかすかに揺れた。
「……君は、そう言ってくれるんだな」
「はい。何回でも言います」
彼は、小さく息を吐いて、
ようやく穏やかに笑った。
その笑顔はどこか、肩の力が抜けたようで。
はじめて人間らしい温度を帯びていた気がする。
Velvetが理想の彼氏であるなら──
その裏にあるのは、
理想に疲れたひとりの青年の祈りだった。