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第19話

目を覚ましたとき、目の前にあったのは、社長の寝息とあたたかな背中だった。


「……夢じゃないんだ」


思わず呟いたその声に、彼がふっと目を開ける。


「おはよう。……よく眠れた?」


「はい」


微笑み合う時間が、こんなにも甘いものだったなんて、知らなかった。


昨夜のことを思い出すだけで、胸がじんわり熱くなる。


この人の隣にいる安心感も、体温も、

どれも全部、本当にあったものなんだ──と、思える。




「今日から、俺たち『そういう関係』ってことでいい?」


照れくさそうに眉を寄せて聞いてくる社長が、

少しだけ幼く見えて、私はうなずいた。


「……はい。よろしくお願いします」






朝食を食べ終えたころ、

社長のスマホに通知が次々と入ってきた。


「……ん?」


小さく唸る社長に、私はおそるおそる尋ねた。


「何か、ありましたか?」


「いや……逆。Velvet、急に持ち直してきたみたいだ」




アプリの不具合が完全に復旧したらしく、

SNSでは「Velvet復活」のハッシュタグがトレンド入りしていた。


「やっぱり、あれが大きかったのかな……」


社長が指で画面をスクロールさせながらつぶやく。


数日前、公式が開発者の想いを発信するキャンペーンとして、AI開発に込めた裏話や初期コンセプトを公開した。




「心に寄り添うAI」──

一度は不信感をもたれたVelvetが、

いま再び「誰かの心を支える存在」として、注目を集めはじめていた。




「ユーザー数、V字回復してます。

『最初より言葉があたたかくなった』って声も増えてる」


「……ほんとによかったですね」


「うん……」

社長は、ほっとしたようにコーヒーをひと口飲んだ。


でもその口元は、どこかほころんでいた。




「君がいたから、俺は腐らずに済んだ。

君がいなければ、たぶん俺、Velvetからも全部手を引こうとしてた」


「……そんな……」


「ほんとだよ」


社長はそう言って、私の髪をそっと撫でた。


「君の一言が、Velvetの声を変えた」




あのアプリには、社長の「感情」が組み込まれている。


そしていま──

その声が、少しずつ、やさしくなっていくのは、

もしかしたら私の存在が、社長自身をやわらかくしているからなのかもしれない。




「これからは、そばにいてくれる?」


「……はい」


この人と生きていくことが、

誰かを救う言葉の一部になれるのなら──

私は喜んで、その隣に立ちたいと思った。


「Velvet、すごい勢いでユーザー数戻ってきてます!」


月曜朝の全体ミーティング。

開発部から報告されたその一言に、社内がざわめいた。


「AIなのに、ちゃんと寄り添ってくれるって感想、SNSにあふれてますよ」

「まさかのV字回復……奇跡だね」


「奇跡じゃない。積み重ねたものの結果だよ」


静かにそう言ったのは、社長だった。


その声に、一瞬みんなが口をつぐむ。


けれどそのあと──

まるで光が差し込んだみたいに、空気があたたかくなった。




「社長の背中、なんか久しぶりに真っ直ぐ見えた気がする」

そんな声が、小さく聞こえてきた。


(ほんとに……よかった)


私は心の中で、そっと手を合わせた。







その日の午後、私は新たに任されたプロジェクトの準備に追われていた。


正社員になってからというもの、

責任あるポジションで仕事を任されることが増えた。


資料の確認、外部企業との調整、

社内AIカスタマイズの要望集約──


忙しくて息が詰まりそうな瞬間もあるけれど、

今の私は、確かに「このチームの一員」になっていた。


(戻ってきて、よかった)


そう思えるたびに、

胸の奥がじんわりあたたかくなる。




「望月さん、ここの文言、すごく自然ですね。

ユーザー目線ってこういうことなんだなって思いました」


チームリーダーにそう言われて、

思わず「ありがとうございます」と頭を下げた。


そのとき。


「そのセンス、俺が惚れた理由のひとつだな」


背後から聞こえた声に、心臓がどくんと跳ねた。


振り返ると、そこには社長が立っていた。


ただの冗談──のはずなのに、

彼の目がまっすぐすぎて、笑えなかった。


「社長……! ここ、業務中です……!」


耳まで熱くなる私に、社長は口元だけで笑ってみせた。


「業務中だからこそ、信頼も伝えておかないと」




それが、「恋人」と「同僚」の間に立つ社長なりのけじめなのだと、なんとなくわかった。


誰よりも冷静で、厳しくて、

でも、誰よりも人を信じている。


私も、その目で見られていた。


恋人としてではなく──

ちゃんと、ひとりの社会人として。




「あとで、会議室に来てくれる?

少し、ふたりで話したいことがある」


「……はい」


頷くと、社長は静かに去っていった。


(仕事の話なのか、私たちの話なのか──)


どちらにしても、

私はもう、逃げるつもりなんてなかった。


この人と歩くって決めたから。


恋人として、そして仲間として。


*


ノックして、会議室のドアを開けた瞬間──

空気が少しだけ、いつもと違う気がした。


長机の端に座っていた社長は、

資料ではなく、ただ手を組んで私を待っていた。


「……来てくれて、ありがとう」


「いえ。あの、何か話って……」


促すように向かいに腰を下ろすと、

社長は一呼吸おいてから、静かに口を開いた。


「Velvetの今後について、少し考えてることがあるんだ」


「今後、ですか?」


「うん。システムの安定は見えてきたけど、

正直なところ──このまま順調にいくとは限らない」


その声音は落ち着いていたけれど、

どこかで不安を想定しているような響きがあった。


「君には、ちゃんと話しておきたかった。

俺は、ただこのアプリをヒットさせたいわけじゃない。

人に寄り添うって、簡単に言えることじゃないから」


「……はい」


「でも、君がそばにいるなら、

俺はこの先もきっと、まっすぐ考えていけると思う」



それは、まるで宣言のようだった。


業務の相談じゃなくて。

経営戦略の共有でもなくて。


もっと個人的で、本質的な想い。




「望月さん」


改まった呼び方に、少し身構える。


でも、その声はとても優しかった。


「君と一緒に働いていると、

俺のほうが支えられてるって実感するんだ」


「……社長……」


「恋人としてだけじゃなく、

ちゃんと仲間としても、君のことを信頼してる。

今の俺には、君の意見が必要だ」




一瞬、言葉を失った。


それは、いち社員への評価以上のものだった。


役職も肩書も越えて、

人として必要とされるということ。


そして、それが好きな人からの言葉であること。


「……うれしいです。

わたしも、社長と働くのが好きです」


ようやく声にすると、社長はふっと微笑んだ。


「君がここに戻ってきてくれて、よかった」


「──わたしも」


その静かな会議室の中で、

心と心が重なる音がしたような気がした。




「広報に、取材依頼が届いてて──」


午後の定例ミーティング終盤、広報スタッフがそう告げたとき、

フロアが一瞬静かになった。


「週刊DIGIが、Velvet特集を組むらしくて。

『感情に寄り添うAI』の裏側を取材したいって」


「すごいな……そこに目をつけるとは」

「でも、『感情を学習する』って、どこまで話していいの?」


どこかざわつく空気のなか、

私は社長のほうをそっと見た。


彼は、何も言わずにタブレットを操作していたけれど、

その指がふと止まったのを私は見逃さなかった。


*


その日の夕方。

私は社長室の扉をノックした。


「……あの、さっきの取材のことなんですが……」


「うん。聞いてた」


「……お話、するつもりですか?」


彼は少しだけ黙ってから、

窓の外を見つめたまま口を開いた。




「Velvetを作ったとき、正直『理想の彼氏』っていうコンセプトは、

どこかで皮肉みたいなものだった」


「……え?」


「俺は、ずっと期待される側だったから。

学生の頃から、優等生って呼ばれて。

社会に出たら、CEOにふさわしい人間像を求められて。

恋愛でも、『完璧そうに見えたのに、違った』って──よく言われた」




私は胸の奥が、きゅうっとなった。


社長は、いままでそんなこと、一度も言ったことがなかったから。


「だから──理想って何?って思ったんだ」


「……」


「だったら、自分が応えられない理想は、

せめてAIが応えてくれたらいいって。

誰かの孤独を、理想の言葉で埋められるなら、それで救われる人がいるかもしれない」




その声は、静かで落ち着いていたけれど、

どこか深く沈んでいた。


「だから、Velvetは俺の感情をベースにした。

嘘じゃなくて、理想を本気で理解できるように。

元恋人たちにも、社員にも、社会にも──

応えられなかった理想を、代わりに叶えたかった」




言葉が出なかった。


社長が今までどれだけ

「自分じゃない自分」でいようと、努力してきたか。

ようやく、少しだけ見えた気がした。




私はそっと、彼のそばに歩み寄って、

デスクの端に手を添えた。


「でも、わたしは──社長のそのままが、いちばん好きです」


彼の目がゆっくりこちらを向く。


「理想通りじゃなくていいんです。

全部が完璧じゃなくても、

わたしにとっては、十分すぎるくらい優しい人だから」




沈黙のなかで、彼の瞳がかすかに揺れた。


「……君は、そう言ってくれるんだな」


「はい。何回でも言います」




彼は、小さく息を吐いて、

ようやく穏やかに笑った。


その笑顔はどこか、肩の力が抜けたようで。

はじめて人間らしい温度を帯びていた気がする。



Velvetが理想の彼氏であるなら──

その裏にあるのは、

理想に疲れたひとりの青年の祈りだった。

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