味噌蔵の裏庭に、ことしも白百合が咲いた。
誰が植えたわけでもない。けれど毎年、春の終わりになると、同じ場所に、まるで忘れずに戻ってくるかのように。
しんとした土の匂いのなかで、その花だけがやけに白く、きれいに見えた。
琴はその前に立ち、声を出していた。
ゆるやかな節。
何の歌かはわからない。けれど、庭を渡る風がひとすじ止まり、音の輪郭だけが、白い花びらに触れていた。
物陰に立ったまま、ハナは息を殺していた。
琴が歌う姿を見るのは、きっとこれが初めてだった。
いつもは凛として、口数も少なく、誰にも心を見せないあの人が──そのときだけは、まるで誰かをそっと呼ぶように、ひとつひとつの音をやわらかく、胸のうちからこぼしていた。
陽の光が、そっと琴の肩に降りていた。
淡くにじむ陽射しのなか、白い襟元がふわりと浮かび、長い睫毛の影が頬に揺れている。
その姿はどこか現実離れしていて、夢のなかに迷いこんだような気がして、ハナは胸の前に置いた手を動かすことができなかった。
──綺麗だ、と思った。
こんなふうに綺麗だと思ったのは──たぶん、初めてだった。
琴は、いつだって飾り棚の奥にある、割れ物みたいに扱われてきた。誰も傷つけないけれど、誰も指先ひとつ触れようとはしない。
十四のハナにとって、十六の琴は、仕えるべき人で、憧れに近い何かで、けれどずっと、手の届かないひとだった。
六つのときから、この家に仕えている。
掃除、洗濯、茶の支度、縫い物──女中仕事のほとんどは教えられたけれど、琴の身の回りだけは特別だった。
誰よりも先に布団を上げ、誰よりも丁寧に髪を梳く。
爪のかけらまで見逃さぬように、と何度も言われて育った。
けれどそんな決まりごとよりも、もっとずっと奥のほうで、最近になって、ハナは琴のそばにいたいと思うようになっていた。
何か特別な理由があるわけじゃない。けれど、ふとした瞬間に目が離せなくなったり、声が少しだけ遅れて胸に残ったりする。
気づけばいつも気になっていて、そうなってからは、なぜか──離れていくことがこわくなった。
それまで平気だった距離が、急に心細く感じられるようになって、琴がいつか、手の届かない場所へ行ってしまうような気がした。
どうしてそんなふうに思ってしまうのか、自分でもわからない。ただ、それが、言葉にできないほどにこわかった。
庭に出ていた時間は、きっと五分にも満たなかったのだろう。
けれどハナには、それがとても長く感じられた。
やがて琴がゆっくりと振り返り、こちらへ視線を向けた。
一度だけまばたきをして、それから何も言わずに、またそっと顔をそらす。
ハナは戸口からそっと近づいて、控えめに頭を下げた。
「……百合が、ことしも咲きました」
それだけを言って、足元に視線を落とす。
応える声はない。けれど、否定されなかっただけで、十分だった。
ふたりのあいだには、いつも沈黙があった。話さなくても通じ合える、なんて都合のいいものじゃない。ただ、必要なこと以外は口にされず、それでもその沈黙は、距離であり、秩序であり──そして、名のつかないやさしさのようなものだった。
琴が先に屋内へ戻り、ハナはその後ろ姿を目で追った。
薄紅の裾がふわりと揺れて、廊下の角で見えなくなったとき、胸のあたりが少しだけきゅっと締まった。
……このまま、時間が止まればいいのに。
そんなことを考えてしまうのは、悪いことだろうか。
その夜。琴の爪に小さな欠けを見つけた。
紙を折るときにでも引っかけたのだろう。
ハナは爪切りと薬草油を持ち、いつものように手を取った。
指先を包むと、ふと、琴の肩がわずかに揺れた。
拒まれたわけではない。でも、いつもより、力が入っている気がした。
「少し、沁みるかもしれません……」
そう言って、掌を添えたまま、爪の先をゆっくりと撫でる。
ハナの指は小さく震えていた。
まるで自分のほうが、手当てをされているような気さえした。
この手は、箏を奏でるための指だった。
朝の静けさの中で、弦をそっと撫でるように滑る、その繊細な動き。
音が生まれる一瞬前の沈黙も、余韻の残る空気も──すべてが、あの人の手の中にあった。私は何度も、この指を包んできた。けれどそのたびに、息が止まりそうになる。こんなに近くにいて、まだ慣れないのが、くやしくて、うれしかった。
指の根元に、薄く油が残る。
それを拭うとき、ふたりの目がふと重なった。
一瞬だけ、何かが通った気がしたけれど、琴はすぐに視線をそらし、袖でそっと口元を隠す。
その仕草まで、どうしようもなく綺麗だった。
そう感じたとき、言葉にならないものが、胸でも頭でもないどこかで、静かにふくらんでいった。
その夜は、なかなか寝つけなかった。
灯を落とした寝間の天井を見つめながら、手のひらに触れたあの感触を、何度も思い出していた。
琴の指は思っていたよりも細く、そしてかすかに冷たかった。
薬油を塗ると、ふるえるように小さく力が入って、その震えがハナと琴、どちらのものだったのか、ハナにはもうわからなかった。
まぶたを閉じれば、白百合の前に立つ姿が浮かんでくる。
歌う唇、陽の光に透けた襟元、目が合ったときの、あの沈黙。
見つめ返してくれたわけじゃない。でも、何も言わずにそらされた視線は、どこかでまだ自分に触れていたような気がしていた。
このまま目を閉じれば、朝が来るとわかっている。
けれどその朝は、昨日までと少しちがうもののような気がして、眠るのがためらわれた。
明日も、きっと同じように目を覚まして、同じように仕えて、同じように手を取る。──そう思っているのに、心のどこかで、そうならない気がしていた。
なぜかはわからない。ふたりのあいだに、少しずつ、言葉にならない隙間のようなものができはじめている気がして──ハナはその気配に、うまく呼吸ができなかった。
良いことなのか、悪いことなのか、そんなふうに決められるものでもなくて。
ハナはまぶたを閉じるたび、どこにもたどり着かない思いのなかで、何度もまばたきを繰り返していた。
翌朝、琴はいつもよりすこし早く座敷に降りていた。
髪を解く手つきが、どこかゆっくりだったのは気のせいかもしれない。
呼ばれたわけでもないのに、ハナはすぐそばへ座り、手櫛でそっと流れを整える。
指が髪に触れたとき、琴はほんのわずかに顔をこちらへ向けた。
目が合う。
そのまま、ふたりとも何も言わない。
朝の静けさのなか、窓の外では、まだ名も知らぬ鳥が鳴いていた。
「……お加減は、いかがですか」
ようやくの思いつきで、ハナが声を落とすと、琴は目を伏せて、小さくうなずいた。
それだけ。言葉はそれきりだった。
それが、本当に伝わったのかどうか、ハナにはわからなかった。
けれど、いつもより少し長く目が合った気がして、それだけでうれしくなってしまった。
今日は少しだけ、何かが違っている。
それが何かは、はっきりとはわからない。
でもたしかに、空気のなかに、新しい音のようなものがまじっていた。
――もしかしたら、この春は、何かが変わってしまうのかもしれない。
そう思った瞬間、ハナは、櫛を持つ手に力が入っていることに気づいた。
あわてて緩めた指が、琴の髪をほんの少しだけ引っぱってしまったけれど、琴は何も言わなかった。