その日は、朝から空がざわついていた。湿った空気が肌にまとわりつき、蝉の声さえ遠のいて聞こえる。縁側に腰を下ろし、庭の一角を見つめていた。
百合の鉢──ふたりで植えた白百合。昨日まで蕾だった花が、いまはひらききって、風に揺れている。その風はいつもより強く、鉢の足元がぐらりと揺れた。
──このままじゃ倒れる。
両腕で抱え込む。思ったより重く、足がよろけた。土の湿り気と葉の冷たさが腕を伝い、力を込めても動かせない。
「……っ、ハナ!」
振り返るより早く、琴さまが駆けてきた。薄い朝着のまま、足元まで濡らしながら膝をつく。
「わたしが持つ。手、離して」
言われるまま指をゆるめると、琴さまの手が重なり、ふたりで鉢を支えた。
やがて、音もなく雨が落ちはじめる。最初は葉を撫でるようにやさしく、すぐに大粒となり、夏の終わりを急ぐかのように降りだした。水は花びらの縁を伝い、白をなぞるように地面へと流れ落ちる。
百合は細くしなりながらも倒れず、わたしたちは鉢の前で身を屈め、傘もなく、髪も肌も濡れ、着物の裾まで重くなった。それでも「中に戻ろう」とは言わなかった。琴さまの手が、わたしの指に重なる。冷たいはずなのに、温かかった。
──花を守るふりをしながら、沈黙を守っていた。ひとことでも口にすれば壊れてしまいそうで、この雨音がなければ、胸の音まで聞こえてしまいそうだった。
空が暗くなるにつれ、雨脚はさらに強まった。それでも動かなかったのは、鉢が重いからではない。重なった手を離したくなかったからだ。琴さまの指は細く、確かな力を宿している。髪が頬にはりついても、誰も払わない。雨粒の合間に、横顔を盗み見た。真っ直ぐ前だけを見ていたその顔が、ふいにこちらへ向く。
目が合った。
その瞬間、雨音が遠のく。琴さまの瞳がまっすぐわたしを射抜いていた。光というには静かすぎて、けれど熱を孕んだ沈黙の色をしていた。あのときのお琴さまは、“わたし”を見ていたのだと思う。誰でもない、役目でもない、ただのわたしを。
怖かった。けれど、うれしかった。胸の奥に、知らない火が灯る。触れたら火傷するとわかっていても引き返せず、どこかでずっと待っていた火だった。鉢の縁で重なった手は、もう偶然ではなかった。──この沈黙の中で、わたしたちは同じ場所に立っていた。
*
夜になって、熱が出た。最初は軽い寒気だけだったのに、息は熱を帯び、体はふわふわと浮くようだった。布団に横になっても眠れず、目を閉じれば、あの瞳が浮かぶ。雨の中で、何も言わずに見つめ合った一瞬が、まだ皮膚の裏に残っていた。
廊下をわたる足音。ぬるい光の中、襖がそっと開く。迷いながらも静かに近づく気配があり、畳がわずかにきしむ。
そして──額にふれられる。冷たくて、やさしくて、かすかに震える手。その指が、髪を撫でた。
「……お琴、さま……?」
口が勝手に動いた。熱のせいだろう。
少しの間を置いて、
「……あなたに、呼ばれた気がしたから」
その声は風のようで、やさしく、確かで、それでいてどこか怯えていた。目を開けると、浴衣の袖は濡れ、髪の先にまだ雨の匂いが残っていた。
おでこがそっと触れ合う。冷たいはずなのに微熱を孕み、触れた瞬間、全身がほどけていく。息がふたつ、音もなく近づき、境目を失って溶けた。言葉ではなく、呼吸だけがそこにあった。
袖を握る。それが自分のか、彼女のかもわからない。琴さまは迷わず握り返した。やわらかく、それでいて確かに──何かを約束するように。
静かだった。外はもう乾きはじめていたのかもしれない。けれど、わたしの中では、まだ雨が降っていた。あの瞳の深さと、あの言葉の温度が、百合の花粉のように胸の奥へ静かに降り積もっていく。もう、どこへも戻れない場所へ連れていくように。
*
朝になり、熱は少し下がった。障子の向こうに淡い光が滲む。夢は思い出せないが、額に残る感触だけは消えていなかった。
着替えて庭へ出る。草の間から、昨夜の雨が少しずつ乾いていく。空気はまだ湿っているが、風はやわらかい。
あの鉢が気になり、足が向く。百合はそこにあった。葉は雨に濡れ、重たげに下を向き、花びらの端は少し傷んでいたが、真っ白なまま咲いている。
ふと横に気配を感じる。琴さまがいた。座っていたのか、立ち上がったばかりなのかはわからない。鉢のそばには、添え木を結んだ跡が残っている。
ふたりとも何も言わなかった。それでよかった。陽が差し、鉢の影がにじむ。その横に、わたしと琴さまの影が並ぶ。少し離れていたはずなのに、影はそっと触れるほどに近づいていた。
昨日の夜のことを、わたしは言葉にしなかった。琴さまも、きっとそうだ。けれど、わたしたちは知っている。あの夜、雨の中で守ったもの。額に触れたぬくもり。指先の感触と、短い囁き。すべてが、ここに残っている。
鉢を見ながら、そっと目を伏せた。この静けさが永遠であればいい。けれど、百合は必ず咲ききる。白い花弁がひらくそのとき、ふたりの何かもまた、形を変えてしまうのだろう。それでも──目を逸らすことはできなかった。
(つづく)
◆あとがき
雨の中で守ったのは、花か、それとも沈黙か──。
ふたりの距離は、言葉ではなく、触れた指や額の温度で縮まっていきました。
百合が咲ききるとき、何が変わり、何が残るのか。
それはまだ、物語の先で語られることになります。
今回の章は、ふたりの関係にとって「静かで決定的な一夜」を描きました。
お読みいただいたみなさまが、この沈黙の重みや雨の匂いを、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。
―青羽イオ