横浜市、桐雲台。
「晴美、もう仕事終わった?莉央と一緒に家で待ってるよ」
木村健介は、娘の木村莉央が期待に満ちた目で見つめる中、妻に電話をかけた。優しい口調だった。
今日は彼の三十歳の誕生日で、ダイニングテーブルには大きなバースデーケーキが用意されている。
「あなた……」妻の木村晴美の声には迷いがあった。「帰りが遅くなるわ。会社で大きなプロジェクトが終わったから、みんなでお祝いすることになって……」
木村健介の笑顔が一瞬固まったが、それでもなお言葉を継いだ。「晴美、お祝いは明日でもいいだろ?今日は……僕の誕生日なんだ」
電話の向こうで沈黙が落ちる。
木村健介の胸が重くなった。
しばらくして、木村晴美が申し訳なさそうに言った。「お祝いは前から決まってたの。みんなの楽しみを壊したくない。あとで帰ったら一緒にお祝いしよう、ね?」
木村健介の顔から笑みが消え、低い声で呟いた。「……お祝い、あいつのためだろ?」
木村晴美はすぐに弁解した。「そんなことないわよ!プロジェクトは裕介が中心だったけど、みんなのためのお祝いなの!」
「自分に言い訳しても仕方ないだろ」
木村健介が皮肉っぽく笑った。
その言葉に、木村晴美が怒りをあらわにした。「もう、いい加減にして!何度言ったらわかるの?私と裕介の間にやましいことなんてない!たかが誕生日じゃない、帰ってくるって言ってるでしょ!」
「たかが誕生日、か……」
木村健介はこれ以上娘の前で言い争いたくなく、電話を切った。
六歳の莉央がしょんぼりと聞いた。「ママ、帰ってこないの?」
「大丈夫だよ、莉央。ママ、あとで帰ってくるから、先にテレビ見てて」
木村健介は無理に笑顔を作った。
ラフな服装で、すらっとした体格に端正な顔立ち。大学時代に晴美のような女性を射止めたのも納得だった。
もちろん、晴美も圧倒的な美しさで、まさに誰もが振り返るほどの存在。
28歳になり、少女のあどけなさを脱ぎ捨てたその姿は、一層の魅力と色気を放っている。社長という肩書きも相まって、横浜では有名人だ。
妻のことを思い出しながら、木村健介の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。大学卒業前、晴美が予期せぬ妊娠をしたとき、家族の反対を押し切って自分と結婚してくれた。そんな晴美に感謝し、結婚後は彼女を大切にしてきた。晴美が起業し、彼は家で娘の世話をし、夫婦で支え合ってきた、満ち足りた日々だった。
しかし――すべてが変わったのは三か月前からだ。
その頃、晴美の会社にインターンの青年が入ってきた。最初は気にも留めなかったが、晴美がその青年――裕介の話をする回数が次第に増え、不安が募っていった。
そして今日、義理の弟のために祝賀会を開くという理由で、自分の誕生日を後回しにされた。
木村健介は、夫婦の危機を感じていた。小さくため息をつき、「晴美、いったい君は何を考えてるんだ……」と呟いた。
タバコを吸ってリビングに戻っても、晴美からの連絡はなかった。時計を見て、「莉央、ケーキ食べようか」と声をかける。
「うん!」莉央はすぐにソファから飛び降り、テーブルに駆け寄った。
木村健介はケーキのロウソクに火を灯し、あたたかな光が娘の笑顔を照らした。「莉央、一緒にロウソク吹き消して、お願いごとしようか」
「うん!」莉央は力強くうなずき、ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。
「ふーっ」
ロウソクの火が消え、莉央が手を叩く。「パパ、お誕生日おめでとう!」
その瞬間、木村健介の目が熱くなった。娘の手を握り、かすれた声で「パパの願いは、莉央が毎日幸せでいることだよ」と伝えた。
夜の九時。
娘にお風呂を準備し、一人で入らせてからベッドへ運び、寝かしつけてようやく一息ついた。
ソファに座り、スマホで動画を見始める。
何気なくスクロールしていると、ふいに手が止まった。
スマホの画面に映った光景に、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。
手が震え、画面を拡大する。間違いない――映っているのは、長年連れ添った妻その人だった。
画面の中、美しい女性がグラスを掲げ、その腕には男の腕が絡んでいる。
これは……まさに“杯の出来事”。
しかも、女性は木村晴美だった。
動画のタイトルは「晴美社長と裕介主任、末永くお幸せに!」とあった。
全身が凍りつき、心臓が締めつけられる。木村健介は震える手で画面をスクリーンショットし、苦しみと決意の入り混じった目で見つめた。自分は黙って我慢するような人間じゃない。
すぐに立ち上がる。
その目には、痛みの奥に強い決意が宿っていた。
自分の信念に背くことはできないし、見て見ぬふりもできない。
許せない。
こうなった以上、祝賀会の現場へ乗り込むしかない。
木村健介はスマホを手に取り、義姉の三浦雪絵に電話をかけた。
雪絵は同じマンションの一階下に住んでいて、独身。
五分後、晴美にそっくりな女性が不機嫌そうに部屋に入ってきた。「ちょうどお風呂に入ろうと思ったのに、何?」
三浦雪絵はいつも木村健介を良く思っていない。
「雪絵さん、急用で出かけなきゃいけない。莉央をお願いできる?」
木村健介は落ち着いた様子で頼んだ。
雪絵は怪訝そうに眉をひそめたが、姪のことは大好きだった。「わかったわ、莉央と一緒に寝てあげる」