木村健介はうなずき、その場を去ろうとした。
「待って」三浦雪絵が呼び止めた。彼女はシルクのナイトガウンをまとい、豊かな曲線がほのかに透けて見える。だが、木村健介の心には余裕がなく、それどころではなかった。
「こんな夜中にどこ行くの?晴美は?」
「外で食事中だ。迎えに行く」
しかし、その表情は、とても妻を迎えに行く夫のものには見えなかった。
三浦雪絵はしばらく彼を見つめてから、「行ってらっしゃい」とだけ言った。
木村健介は車をガレージから出し、無表情のままハンドルを握る。
妻が他の男と親しげにグラスを交わしていた光景が、頭から離れない。
胸を締めつけるような疑念——それはほとんど確信へと変わりつつあった。妻が、浮気しているのではないかと。
手に力が入り、指の関節が白くなる。スマホの映像が示す場所は、雲頂ホテル。横浜でも屈指の高級ホテルで、一卓の会計は最低でも百万円は下らない。
煙草に火をつけ、重い足取りでホテルへと入る。フロントで尋ね、真っ直ぐ二階の個室へ向かった。ドアの前に立ったとき、木村晴美の澄んだ声が聞こえてきた。
「会社がここまで来られたのは、皆さんのおかげです!この一杯は、みなさんに感謝を込めて——」
「社長、お疲れさまです!」「社長に乾杯!」「いやいや、黒木リーダーにも乾杯しないと!このお祝い会は彼がいなければ成り立たなかった!」と、賑やかな声が飛び交う。
木村健介は大きく息を吸い、勢いよく扉を押し開けた。
個室は一瞬で静まり返り、全員が驚いたようにこちらを見た。
彼の視線は晴美にまっすぐ向けられていた。晴美は黒のワンピース姿で、白い首筋と華奢な鎖骨が美しく、すらりとした腰のラインが際立っていた。
グラスを掲げたまま、驚いた顔で固まるが、すぐに微笑み、「あなた?迎えに来てくれたの?もう食べた?一緒にどう?」と頬を赤らめながら声をかけてきた。
その場の誰もが、ああ社長のご主人か、と納得した様子だった。
だが、何人かは隣に座る若い男に視線を移し、意味ありげな表情を浮かべていた。
その若い男は整った顔立ちで、木村健介にも引けを取らないほどの男前だった。晴美のすぐ隣にぴったりと座り、彼の笑顔は一瞬ぎこちなくなった。
だがすぐに取り繕い、明るく言う。「健介さんですよね?こっちにどうぞ、僕の隣に座ってください!」
そう言って立ち上がろうとした、そのとき——
晴美は気にも留めず手を振った。「裕介、座ってて。うちの人はどこでもいいから、もうすぐ終わるし、気にしないで」
黒木裕介はすぐに腰を下ろして、「ありがとう、晴美さん!」と答え、そして木村健介に挑むような目を向けた。
木村健介は皮肉な笑みを浮かべ、「じゃあ、座らせてもらうよ」と椅子を引いて腰かけ、箸も取らず、煙草に火をつけて黙って周囲を眺めた。
個室の空気が一気に重くなる。
晴美は不満そうに睨み、「みんな、続けて。たくさん食べて飲んで」と促した。
煙の向こうで、木村健介の瞳は鋭く光っていた。
そのとき、黒木裕介が公用の箸でロブスターを晴美の皿に取り分ける。
「晴美さん、このロブスター、本当に美味しいですよ。もっと食べてください」
晴美は一瞬驚き、「ありがとう、裕介!」と答えて一口食べ、「この間は本当に頑張ってくれて、会社の大きなプロジェクトを二つも取ってきてくれたよね。何かご褒美がほしい?有給休暇でも?」
黒木裕介は首を振り、熱い目で言う。「休暇なんていりません!晴美さんがこれだけよくしてくれるんですから、僕はもっと頑張りますよ、恩返しのために!」
晴美は微笑んだ。「裕介、やっぱりあなたを見込んでよかったわ。欲しいものがあれば何でも言って。全部私に任せて」
黒木裕介の目はさらに真剣になる。「僕は、ずっと晴美さんのそばにいたいだけです。あなたの成功を見届けたいんです——」
パチ、パチ、パチ。突然、拍手の音が響いた。
みんな驚いて木村健介を見つめる。彼は冷静な表情で、晴美と裕介を見ながら口元をわずかに上げて言った。
「いやあ、見事な絆だ。そこまで言うなら、抱き合ったらどうだ?」
晴美の顔色が変わる。「木村健介!何を皮肉ってるの?」
「皮肉?俺が?」木村健介は冷笑し、「みんなに聞いてみるか?さっきのお前らのやりとり、どれだけ気持ち悪かったか」
「私たちが気持ち悪いですって?」
晴美は耳を疑った。いつも穏やかな夫のはずなのに、どうしてこんなに辛辣なことを言うのか。
「もっとひどい言葉を聞きたいか?」木村健介の声は低く、冷たい。
晴美の瞳が細まり、怒りの色が浮かぶ。
——誕生日に一緒にいなかったくらいで…
彼女は深呼吸し、冷たく言った。「いい加減にして、家で話しましょう。迎えに来たくないなら先に帰って。ここにいられると、せっかくのお祝いの席が台無しになるわ」
「台無し?」
木村健介は冷たい笑みを浮かべて立ち上がり、テーブルの端をぐっとつかむ。そして、勢いよく持ち上げた。
「なら、もう誰も食べるな!」