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第16話 朝食


木村健介の動きは手慣れていて、無駄がない。

掃除も拭き掃除も、汚れていた所はあっという間にピカピカに仕上がる。

木村晴美はぼんやりとその様子を見つめていたが、胸の奥が苦しくなってくる。

夫は怒鳴りもしないし、冷たい顔をしているわけでもない。それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう……。気がつけば、指先で服の裾をねじっていた。


彼が片付けを終えるのを待って、晴美は急いで近づいた。

「ねえ、もう遅いし、一緒にお風呂入って寝ようよ!」

その目には、隠しきれない愛情がにじみ出ている。


以前なら、これは〝一緒にお風呂〟の合図で、健介が断ることはなかった。

結婚してからずっと、夫婦仲は良好で、晴美も満足していた。


だが、今回は違った。健介は冷静に言う。

「もう遅いから、僕は別の部屋で寝るよ。明日はお客さんが来るし、寝坊したくないから」


晴美は思わず、

「裕介は他人じゃないでしょ——」

と言ってしまった。


その瞬間、健介の瞳孔がギュッと縮む。

離婚を決めているとはいえ、その一言は胸に突き刺さる。歯を食いしばって、冷たく笑う。

「はいはい、彼は君の大事な弟だもんね。君の宝物だろ?それで満足か?」


晴美はまた口を滑らせたことに気付き、後悔しながら彼の腕を掴む。

「違うの、そんなつもりじゃないんだって……」


「もういいよ!」

健介は晴美の手を振りほどく。

「もう目も開けていられないほど疲れてるんだ。寝るよ」


そう言うと、彼は晴美を振り切って別の部屋へ入ってしまった。


「じゃあ、私も一緒にそっちで寝る!」

晴美は唇を噛みながら追いかけるが、言い終わらないうちにドアをバタンと閉められる。


彼女は数秒間呆然と立ち尽くし、慌てて鍵を探し始めた。

だが、鍵は既に健介が部屋に入るとき持って行っていた。


引き出しをいくら探しても見つからず、晴美は大きなため息をついて、しょんぼりと寝室に戻った。


スマホを開くと、夫からのメッセージはまだ祝賀会の前で止まったまま。

ベッドに倒れ込み、不満でいっぱいになる。


「大の男がなんでこんなに器が小さいの?私はやましいことなんて何もしてないのに、なんでそんなに冷たくするのよ。ひどすぎる!」


イライラが募っていると、突然電話が鳴った。

黒木裕介からだ!


晴美は鼻をすすりながら電話に出る。

「裕介?こんな遅くにどうしたの?」


「晴美ねえさん、」

裕介の声には心配が滲んでいた。

「どうしても寝つけなくて……彼が手をあげたりしてないか心配で。正直に言ってほしいんだけど、彼の怪我って、もしかして喧嘩のせいじゃないよね?もし彼が少しでも君に手を出したなら、俺は絶対許さない!」


そんなに心配してくれる裕介に、晴美の心は温かくなり、思わず微笑んでしまう。

「彼が私に手をあげるわけないじゃない。余計な心配しないで、早く寝なさい」


「うん……」

裕介は小さく頷き、続けて言う。

「でも、やっぱり今夜は全部俺のせいだよ。俺が呼び出したせいで、義兄さんも怒ったんだろうし……明日の朝、直接謝りに行くよ、本当にちゃんと謝らないと——」


「そんな必要ないよ!」

晴美は眉をひそめて遮る。

「あなたのせいじゃないって言ったでしょ。全部彼のやきもちなの。家に来て一緒にご飯食べて、普通に話せばそれでいいから、頭を下げることなんてしなくていいの」


裕介は内心嬉しくなり、さらに優しい声で言う。

「ねえさん、そんなに優しくしてくれて……義兄さん、やきもちやかないかな?」


晴美は苦笑する。

「さあね。私はあなたの姉なんだから、優しくするのは当たり前でしょ。弟にまでやきもちやくなんて、本当に理解できないわ」


裕介はため息をつく。

「それだけ、ねえさんのことを大事に思ってるんだよ。大切なおもちゃを子供が誰にも触らせたくない、そんな感じなんだろうね」


「そうなの?」

晴美は眉をひそめ、不満げだ。

よく考えれば、最近の夫は本当に独占欲が強くて、普通の付き合いさえ裕介と断つように言ってくる。

そう思うと、ますます憂鬱になる。


裕介は慌てて取り繕う。

「いや、俺の勝手な想像だから!気にしないで!」


数秒の沈黙の後、晴美は小さな声で「わかった」と呟いた。


その後、二人は深夜までメッセージをやり取りした——


翌朝。

木村健介は重たい目をこすりながら起き上がった。

一晩中、ほとんど眠れなかった。

目を閉じれば、これまで晴美と過ごした日々が次々と浮かんでくる。心が痛まないわけがない。

でも、今さら未練を感じても仕方がない。これまで全力で愛してきたが、今や“弟”の登場で、妻はその存在しか目に入らなくなってしまった。もう、手放す時だと感じていた。


ドアを開けると、リビングで晴美がクマを作った目でじっとこちらを見ていた。

健介は無視して、そのまま娘の部屋へ。

ベッドの中でスマホをいじっている莉奈を見つけると、

「正直に言いなさい。どれくらい遊んでた?」

と声をかける。


莉奈は顔を真っ赤にして、気まずそうに答える。

「お、お父さん…ちょっとだけだよ…ほんの二十分くらい…」


健介は眉をひそめる。

「もう一度言って?」


「い…一時間くらい…」

莉奈は小さな声で呟く。


健介はさっとスマホを取り上げた。

「木村莉奈!何度言ったらわかる?一日三十分までってルールだろ。今日は倍もオーバーしてる。今週末はスマホ禁止だ!」


莉奈の顔はみるみるうちにしょんぼりして、唇を尖らせる。


健介は表情を崩さず、

「さあ、早く起きなさい」

と言い放つ。


「うん…」

莉奈はしぶしぶ着替えを始めた。


父娘がリビングに出た瞬間、チャイムが「ピンポーン」と鳴る。

晴美の目がぱっと輝く。

「きっと裕介だわ!私が出るね!」


そう言って、玄関まで小走りで向かった。


健介は表情を変えず、心の中で冷ややかに思う。

(ほら見ろ、この張り切りよう……)


ドアを開けると、黒木裕介が立っていた。


「晴美さん、おはようございます!」

手には小さな紙袋を持っている。莉奈を見ると、にっこり笑って

「莉奈ちゃんだよね?おじさんがプレゼント持ってきたんだ。気に入ってくれるかな?」

と声をかける。


莉奈は戸惑い、父の足にしがみついて離れない。父から“知らない人から物をもらってはいけない”と言われていたからだ。


晴美は眉をひそめて促す。

「莉奈、何してるの?ちゃんとおじさんにお礼言いなさい!」


ようやく莉奈は袋を受け取り、小さな声で

「ありがとう、おじさん」

と言った。


健介は娘の頭を軽く撫でて、

「歯を磨いてきなさい」

と言い、袋をさっと下駄箱の上に置いた。


裕介はバツの悪そうな顔をする。

「義兄さん、ただの普通の人形なんですけど……」


「どうでもいい」と健介は顔も上げずに言う。「用があるなら早く言え」


晴美は近寄って健介の腕を小突く。

「もうちょっと態度よくしてよ。裕介は朝早くから来てくれてるのに……」

そして裕介に笑顔を向ける。

「裕介、座ってて!何か食べたいものある?うちの夫が朝ごはん作ってくれるから!彼の料理すごく美味しいのよ!」


健介の中で怒りが爆発しそうになる。

(ふざけるな!なんで俺がこいつのために朝飯作らなきゃいけないんだ。晴美、お前は本当にどうかしてる!)


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