木村健介の動きは手慣れていて、無駄がない。
掃除も拭き掃除も、汚れていた所はあっという間にピカピカに仕上がる。
木村晴美はぼんやりとその様子を見つめていたが、胸の奥が苦しくなってくる。
夫は怒鳴りもしないし、冷たい顔をしているわけでもない。それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう……。気がつけば、指先で服の裾をねじっていた。
彼が片付けを終えるのを待って、晴美は急いで近づいた。
「ねえ、もう遅いし、一緒にお風呂入って寝ようよ!」
その目には、隠しきれない愛情がにじみ出ている。
以前なら、これは〝一緒にお風呂〟の合図で、健介が断ることはなかった。
結婚してからずっと、夫婦仲は良好で、晴美も満足していた。
だが、今回は違った。健介は冷静に言う。
「もう遅いから、僕は別の部屋で寝るよ。明日はお客さんが来るし、寝坊したくないから」
晴美は思わず、
「裕介は他人じゃないでしょ——」
と言ってしまった。
その瞬間、健介の瞳孔がギュッと縮む。
離婚を決めているとはいえ、その一言は胸に突き刺さる。歯を食いしばって、冷たく笑う。
「はいはい、彼は君の大事な弟だもんね。君の宝物だろ?それで満足か?」
晴美はまた口を滑らせたことに気付き、後悔しながら彼の腕を掴む。
「違うの、そんなつもりじゃないんだって……」
「もういいよ!」
健介は晴美の手を振りほどく。
「もう目も開けていられないほど疲れてるんだ。寝るよ」
そう言うと、彼は晴美を振り切って別の部屋へ入ってしまった。
「じゃあ、私も一緒にそっちで寝る!」
晴美は唇を噛みながら追いかけるが、言い終わらないうちにドアをバタンと閉められる。
彼女は数秒間呆然と立ち尽くし、慌てて鍵を探し始めた。
だが、鍵は既に健介が部屋に入るとき持って行っていた。
引き出しをいくら探しても見つからず、晴美は大きなため息をついて、しょんぼりと寝室に戻った。
スマホを開くと、夫からのメッセージはまだ祝賀会の前で止まったまま。
ベッドに倒れ込み、不満でいっぱいになる。
「大の男がなんでこんなに器が小さいの?私はやましいことなんて何もしてないのに、なんでそんなに冷たくするのよ。ひどすぎる!」
イライラが募っていると、突然電話が鳴った。
黒木裕介からだ!
晴美は鼻をすすりながら電話に出る。
「裕介?こんな遅くにどうしたの?」
「晴美ねえさん、」
裕介の声には心配が滲んでいた。
「どうしても寝つけなくて……彼が手をあげたりしてないか心配で。正直に言ってほしいんだけど、彼の怪我って、もしかして喧嘩のせいじゃないよね?もし彼が少しでも君に手を出したなら、俺は絶対許さない!」
そんなに心配してくれる裕介に、晴美の心は温かくなり、思わず微笑んでしまう。
「彼が私に手をあげるわけないじゃない。余計な心配しないで、早く寝なさい」
「うん……」
裕介は小さく頷き、続けて言う。
「でも、やっぱり今夜は全部俺のせいだよ。俺が呼び出したせいで、義兄さんも怒ったんだろうし……明日の朝、直接謝りに行くよ、本当にちゃんと謝らないと——」
「そんな必要ないよ!」
晴美は眉をひそめて遮る。
「あなたのせいじゃないって言ったでしょ。全部彼のやきもちなの。家に来て一緒にご飯食べて、普通に話せばそれでいいから、頭を下げることなんてしなくていいの」
裕介は内心嬉しくなり、さらに優しい声で言う。
「ねえさん、そんなに優しくしてくれて……義兄さん、やきもちやかないかな?」
晴美は苦笑する。
「さあね。私はあなたの姉なんだから、優しくするのは当たり前でしょ。弟にまでやきもちやくなんて、本当に理解できないわ」
裕介はため息をつく。
「それだけ、ねえさんのことを大事に思ってるんだよ。大切なおもちゃを子供が誰にも触らせたくない、そんな感じなんだろうね」
「そうなの?」
晴美は眉をひそめ、不満げだ。
よく考えれば、最近の夫は本当に独占欲が強くて、普通の付き合いさえ裕介と断つように言ってくる。
そう思うと、ますます憂鬱になる。
裕介は慌てて取り繕う。
「いや、俺の勝手な想像だから!気にしないで!」
数秒の沈黙の後、晴美は小さな声で「わかった」と呟いた。
その後、二人は深夜までメッセージをやり取りした——
翌朝。
木村健介は重たい目をこすりながら起き上がった。
一晩中、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、これまで晴美と過ごした日々が次々と浮かんでくる。心が痛まないわけがない。
でも、今さら未練を感じても仕方がない。これまで全力で愛してきたが、今や“弟”の登場で、妻はその存在しか目に入らなくなってしまった。もう、手放す時だと感じていた。
ドアを開けると、リビングで晴美がクマを作った目でじっとこちらを見ていた。
健介は無視して、そのまま娘の部屋へ。
ベッドの中でスマホをいじっている莉奈を見つけると、
「正直に言いなさい。どれくらい遊んでた?」
と声をかける。
莉奈は顔を真っ赤にして、気まずそうに答える。
「お、お父さん…ちょっとだけだよ…ほんの二十分くらい…」
健介は眉をひそめる。
「もう一度言って?」
「い…一時間くらい…」
莉奈は小さな声で呟く。
健介はさっとスマホを取り上げた。
「木村莉奈!何度言ったらわかる?一日三十分までってルールだろ。今日は倍もオーバーしてる。今週末はスマホ禁止だ!」
莉奈の顔はみるみるうちにしょんぼりして、唇を尖らせる。
健介は表情を崩さず、
「さあ、早く起きなさい」
と言い放つ。
「うん…」
莉奈はしぶしぶ着替えを始めた。
父娘がリビングに出た瞬間、チャイムが「ピンポーン」と鳴る。
晴美の目がぱっと輝く。
「きっと裕介だわ!私が出るね!」
そう言って、玄関まで小走りで向かった。
健介は表情を変えず、心の中で冷ややかに思う。
(ほら見ろ、この張り切りよう……)
ドアを開けると、黒木裕介が立っていた。
「晴美さん、おはようございます!」
手には小さな紙袋を持っている。莉奈を見ると、にっこり笑って
「莉奈ちゃんだよね?おじさんがプレゼント持ってきたんだ。気に入ってくれるかな?」
と声をかける。
莉奈は戸惑い、父の足にしがみついて離れない。父から“知らない人から物をもらってはいけない”と言われていたからだ。
晴美は眉をひそめて促す。
「莉奈、何してるの?ちゃんとおじさんにお礼言いなさい!」
ようやく莉奈は袋を受け取り、小さな声で
「ありがとう、おじさん」
と言った。
健介は娘の頭を軽く撫でて、
「歯を磨いてきなさい」
と言い、袋をさっと下駄箱の上に置いた。
裕介はバツの悪そうな顔をする。
「義兄さん、ただの普通の人形なんですけど……」
「どうでもいい」と健介は顔も上げずに言う。「用があるなら早く言え」
晴美は近寄って健介の腕を小突く。
「もうちょっと態度よくしてよ。裕介は朝早くから来てくれてるのに……」
そして裕介に笑顔を向ける。
「裕介、座ってて!何か食べたいものある?うちの夫が朝ごはん作ってくれるから!彼の料理すごく美味しいのよ!」
健介の中で怒りが爆発しそうになる。
(ふざけるな!なんで俺がこいつのために朝飯作らなきゃいけないんだ。晴美、お前は本当にどうかしてる!)