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第十話

 夜会も終盤になり、続々と招待客が帰っていく。ミューズとアメリアのいるバルコニーからはその様子がよく見えた。

「それで……お話とはなんでしょうか」

「セントル公爵家のテオについてですわ」

(一番反感を持っている子よね……)

 彼は15歳で多感な時期でもある。ミューズとの初対面の際も一番に部屋を出て行ってしまった。それから、彼との壁は未だに高いままだ。

 ただ、ぶっきらぼうな物言いの半面、末っ子の双子にお菓子をあげる優しい一面を持っていることをミューズは知っている。アメリアの間に何かトラブルでもあったのだろうか。ミューズの背筋がぞくりと疼いた。

「ミューズ様から見て、テオはどんな子ですか?」

「……そうですね。素っ気ないけれど、きょうだいには優しいみたいです」

 アメリアは長いスカートの裾を強く握った。その手は、震えている。

「私、彼に……テオに謝りたいんです。たとえ許してくれなくとも」

 アメリアは唇を噛み締めた。


 アメリアが公爵邸に越してから、テオはよく反発していたという。アメリアは引き取った子どもたちに対し、“普通の子”として躾をしようとしていた。礼儀、言葉遣い、読み書き、作法に至るまでを教えた。しかし彼は貧民街で育った時間が長く、身に付いた習慣が抜けきれず次第に拒絶するようになった。

「一度、あの子に手を上げそうになってしまったことがあるんです」

 テオが中等学園へ進んだ頃、学園からの帰りに寄り道をした彼はかつての仲間たちと再会した。それから間もなく夜に密かに公爵邸を抜け出し、彼らと遊び歩くようになった。

前公爵夫妻が不在の中、侍女から報告を受けたアメリアが彼を追いかけると、少年たちの溜まり場があった。

「そこでテオは……ひどく侮辱したことを言っていたんです。それで思わず……」

「ひどく侮辱したこと……?」

「……。私の口からはとても言えないようなことですわ」

 手を上げようとしたアメリアに対し、テオは激高した。それから彼は公爵邸に戻ったものの、アメリアを避け、口をきかなくなってしまった。アメリアもテオに手を上げそうになったことで自分を強く責め、他の子たちとも打ち解けられず心の病になってしまったらしい。

「引っ越す前に、せめて話だけでもしたいのです。公爵様とテオに話を通していただけませんか」

 アメリアは深々と頭を下げる。本日彼女の夫となった皇子リアムは皇家を出て大公となり、旧隣国領ダイハンの領主となる。当然生活の拠点はダイハンに移され、テオと会う機会は限りなく少なくなってしまう。

「ノアは了承してくれると思います。……ただ、テオの方は分かりません」

「……ええ」

(私にできることならなんでもしてあげたいけれど……)

 まずはテオの意思を確認しなくてはいけない。ミューズはアメリアに向き直った。

「追って連絡いたします」

「ありがとうございます、ミューズ様。私……」

 涙を浮かべたアメリアの背中をミューズはさすった。


 ミューズは公爵邸に戻る馬車の中で早速、アメリアからの申し出をノアに相談していた。

 彼は当初の予定が押してしまい、夜会の終了間際になって顔を出した。ほとんど、ミューズを迎えに来たようなものだった。

「どう思う?」

「テオが良いと言うなら尊重するが……難しいかもしれない」

「そうなの?」

 顔を合わせて言葉を交わすのが久しぶりで、ミューズはノアから視線を外した。

「アメリアとテオはその……あまり仲が良くなかったから。悪態をつくテオにアメリアが厳しく注意して、それにテオがまた暴言を吐く、をよく繰り返していたんだ」

 テオは元々城下町の外れにある貧民街で生まれ育った孤児だ。同じような境遇の少年らと盗みをして生きてきたという。5年前、戦争に乗じてサンパング国内に侵入した旧隣国の犯罪者集団に捉えられていたところを保護された。当時、彼はまだ10才だった。

「2人が一緒にいる所は見たことがないし、滅多に本邸に顔を出さないんだ」

 セントル公爵邸では本邸にミューズとノアが住み、別邸に子どもたちが住んでいる。ただ、朝晩の食事だけは皆で本邸の食堂でとるし、子どもたちも自由に本邸に出入りできる。

 実際、末っ子の双子やお菓子の好きな子たちは頻繁に本邸を訪れ、ミューズや使用人たちと共にお茶をしたりしている。

「とりあえず、明日私が話してみるわ」

 ノアはまた明日の早朝から仕事だ。この国の福祉を担当するセントル家の当主は、旧隣国ダイハン領の再興のためとても忙しい。


 翌朝も、テオは朝食の時間になっても食堂に現れなかった。ミューズが公爵邸に来てから、彼は一度も朝食は食べず夕食は別邸の私室でとっている。

 ミューズは学園への馬車に乗り込む子供たちの中から、テオを引き留める。

「テオ」

「あ?なに?」

 癖のある黒髪を搔きむしり、面倒くさそうに顔だけミューズの方へ向けた。

「今日学園から戻ったら、少し話がしたいのだけど」

「……いいけど」

「ありがとう。お気をつけてね」

 テオは何も言わず馬車に乗り込み、足元がふらつく他の子どもたちを中へ引き上げた。子どもたちの乗る馬車を見送ると、傍にいた公爵家付メイドのカレンが遠慮がちに声を掛けた。

「ニューヤド伯爵令嬢。1つお尋ねしたいのですが」

「なんでしょう?」

「その……子供たちの言葉遣いを指導しなくてよろしいのでしょうか」

 教育係のジュディによって、マナーや礼儀の教育の一環として丁寧な言葉使いを教えている。しかし日常の中で子どもたちは砕けた話し方をしており、それに対してミューズが指導することもなかった。

「みんなの言葉遣いはそれぞれが生きてきた環境によって作られたものよ。外でしかるべき時に、それに見合った言葉が使えれば良いと思うわ。この家では家族だもの。公爵家に嫁入りするアリーナは別として、わざわざ矯正するものではないと思って」

(矯正、というのも変な言い方だけれど)

 それに、時によっては刺々しい言葉遣いが自分を守る武器になることもある。ミューズは昔のことを思い出していた。

「……出過ぎたことを言いました」

 カレンは静かに頭を下げた。カレンもまた下級とはいえ貴族の娘である。幼い頃から丁寧な言葉遣いに教育されていた彼女から見れば、初めは理解できなくて当然のことだ。

「良いのよ。それじゃ、テオの好きなお菓子を用意してちょうだい」

「承知いたしました」

 カレンは一礼して去って行った。


 学園から帰ってすぐ、制服のままテオはやって来た。

「話ってなんだよ。早く終わらせてくれ」

 チョコレート風味のマドレーヌを頬張りながらテオが尋ねた。昼食が少なかったのだろうか、面倒そうな物言いをしつつもマドレーヌはよく食べる。

「単刀直入に言うわ。アメリア様が貴方に会いたいと仰っていたの」

 テオの目が見開かれ、動きが止まる。そのまま瞳だけが動いてミューズを凝視した。

「それで、もし貴方が良ければお会いしてみない?もちろん貴方に断る権利はあるわ」

 テオは口一杯のマドレーヌを紅茶で飲み干し、静かにカップをソーサーに置いた。そのまま静かに席を立ちミューズの方を見ずに口を開く。

「……少し考えさせてくれ」

 彼の顔からはなんの感情も見えない。嫌悪感はなさそうだが、好意的でもまたないようだった。

 空になったカップと菓子皿だけが残った。食欲があれば健康上の心配はないが、ここからどうやって彼を知れば良いのか、ミューズは見当もつかなかった。


(どうしたものかしら……)

 その夜半、寝付けないミューズは公爵邸本邸の1階を歩きながら思案していた。いつもであれば就寝前にノアと話をしてから眠るが、今日はとても疲れているらしく、そうはいかなかった。

「ここは……」

 1階の隅に重厚な扉があった。これまで生活するうえで一度も使ったことない部屋だ。他よりも圧倒的に重い扉を開けると、大きなグランドピアノが目に飛び込んできた。窓から差し込む月と星の光が、そのままピアノに映っている。

 部屋の中には他にも楽器のケースが置かれ、大きな書棚には楽譜らしき書類が並べていることから、ここは音楽室らしい。1階の隅にあるのも、重い扉も防音のためだろう。

 1冊だけ、ピアノの譜面台に楽譜が置いてあった。普段から使われていない部屋とはいえ、3日に1回は清掃が入るため、1冊だけ譜面が置かれているのは不自然だ。誰かがこの音楽室に入っているのだろうか。だが、子どもたちもノアもピアノを得意とする人はいなかったはずだ。

 中身を捲ると、タイトルであろう『水彩の世界へ』と記されていた。楽譜は転調が多く、指の移動範囲も広い。かなりの上級者向けだ。

(聞いたことない曲名ね……)

 ミューズは楽譜の記号を確認して音を奏でていく。左手で一定のリズムを刻み、右手は主旋律らしい。そのメロディは儚く消えてしまいそうで、芯には筆舌に尽くしがたい想いが込められているようだった。

(こんなに優しい曲は、聴いたことがない……)

 所々詰まりながら弾いていると、音楽室の窓から人影が侵入してきた。ミューズが視線を向けると、特徴的な癖のある黒髪と目があった。

 テオだ。

「テオ?何しているの?」

「その曲、弾けるのか?」

 テオは質問に答えず譜面台に置いてある楽譜を指差した。そのままズンズンとミューズに近づいてくる。

「ええ……まあ。貴族の子はみんな幼い時に習うもの。でも、この曲は難易度が高いわね」

 ミューズの指は早くも悲鳴をあげかけていた。そんなミューズなどお構いなしに、テオは譜面台の楽譜を手に取った。

「……あいつ、ピアノだけは良かったんだ」

「アメリア様?」

(仲が悪いんじゃなかったの?)

 しばらくミューズが黙っていると、テオはピアノの傍にあるソファーに腰掛け、深く頷いた。

「この曲、あいつが夜によく弾いてたんだ。俺は、外でバレないように聴いてた」

 テオの指差す先は、先ほど彼が入ってきた窓であり、その先には本邸と別邸の間にある庭園が見えた。あの場所なら本邸に入らずとも音楽を聴きに行くことができる。

(ノアが知らないわけね……)

「俺、会うよ」

「え?」

「だから、会うっつてんだろ」

 懐かしむような表情から、いつものぶっきらぼうな表情になってそう言った。そこには、苛立ちが見える。それは少し、アメリアと似ていた。

(いや、焦り?それか、後悔……?)

「無理しなくても良いのよ」

「良いんだよ。俺も会いたかったし、いつ?俺は別にいつでもいいんだけど」

「分かったわ」

 アメリアと同じように、テオも何かしら伝えたいことがあるようだった。彼は楽譜を譜面台に戻し、音楽室の窓から出て行った。

 譜面の裏表紙をめくると、アメリアのサインが書かれていた。

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