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第九話

「貴女が国民の象徴としての役目を重荷に思うのなら、無理をすることはないのよ」

「象徴……」

 ミュリエルの鋭い視線に、冷たい汗が滲むのを感じた。

「ええ。皇后は国民の母として、皇太子妃は良妻賢母の手本として。そして貴族家は国民の家庭としてあるべき姿を示さなければならない。上位貴族ほどね。貴女にはできる?」

 現皇帝の祖父が進めた内政改革により、それまで膨大な権力を好き放題していた貴族はその権力の多くが取り上げられ、内政の各部門を取り仕切る最高責任者という役割のみが残された。ちなみに、ミューズの生家であるニューヤド伯爵家はサンパング国の文化保全を取り仕切っている。

 そして、二度と権力の暴走がないよう「国民の手本として誠実に振舞うこと」が義務付けられたのである。

 ミュリエルは“心配”とは言っているが、その実“疑い”の方が近いのだろう。『穢れたビスクドール』と呼ばれるミューズが国民の象徴と成せるのか、疑問に思わない方がおかしい。

「私にできる、精一杯を尽くします。国民と、子どもたちのために」

 自信があるわけではないが、ここで弱音を吐いては貴族の名が廃る。ドクドクと、鼓動がうるさい。しかしミュリエルはあっけらかんと笑い、再び紅茶に口を付けた。

「そう!それならいいわ。しっかしまあ、あのノアが結婚ねえ。いつかとは思っていたけど、案外早かったわね」

 ミュリエルは、それまでの姿勢を崩しソファーの背にもたれた。

「そういえば、ハーバー公爵令嬢とリアムの結婚式後の夜会には参加なさるの?私は参加するつもりなのだけど……貴女もいらっしゃいな」

「お言葉ですが、私のような者が参加すれば、ご気分を害される方もいらっしゃるかと思います」

 ミューズは皇帝誕生日のことを思い出した。表立って嘲笑する者は少ないとはいえ、今までまともに社交界に出なかった人間が参加すれば、祝いの場にふさわしくない空気にさせてしまうかもしれない。

 しかしそんな論理は通らない。

「とにかくいらっしゃい。今までパーティーに全然参加なさらなかったじゃない。……ね?」

(国民の象徴として参加しろってことね……)

 夜会では男女の2人がペアになって踊る社交ダンスをする時間がある。時間に合わせて数曲の音楽が奏でられ、既婚者であれば配偶者としか踊ることはできないが、結婚前であれば最初のダンスをパートナーと踊れば、後は他の人と踊っても良い。

 ミューズの気がかりはそこにあった。妊娠しているなどの理由がなければ一曲も踊らないと不自然に映ってしまう。

 16歳の社交界デビューの日ですら、ミューズはどの男性とも踊らなかった。いや、踊れなかった。

「もしかして、踊りがお得意ではないの?」

「そのような所です。教育として一通り習いましたが、ノアや他の方に合わせられるかは自信がありませんわ」

 ミューズの瞼がふと落ちた。ミュリエルはそれに気づかず、小さく笑った。

「ふふ、そう……実はね、ノアは踊りが不得手なのよ。あの子は結構不器用だもの」

「ええっ?」

「ノアのリードは望めないわよ。むしろ、足を踏まれないようにお気をつけあそばせ」

(ノアは踊りが上手いとは思っていなかったけど……そこまで?)

 ミューズは愕然とする中、声を振り絞る。

「……精進いたしますわ」

 “精一杯尽くす”という先ほどの宣言を、ミューズは早くも後悔しかけていた。

「ふふふ。いざとなればノアだけ先に帰して『公爵様が嫉妬してしまいますので誰とも踊れません』と言ってしまえば良くてよ。まあ嫉妬するような子ではないのだけどね」

 ミュリエルはそう言って笑った。その企みを隠した表情は、どこかノアによく似ていた。

(やっぱり、よく似ているのね)


 その夜、珍しくノアから電話がかかってきた。

「ノア、踊りが得意ではないというのは本当?」

 開口一番にそう尋ねるとノアは深く溜息を吐いた。

「……姉様に聞いたな?」

「大丈夫よ。私も踊りには自信がないわ」

「何も大丈夫じゃないから。お互い距離を取って逃げ合おうか。見当たらないことにしてしまえば」

 あまりにも子どもじみた作戦に、ミューズは思わず笑ってしまった。不得手なことに関しては、ノアも頭が回らないらしい。

「2人で練習しなければいけないが、夜会は1週間後だからなあ……。そちらに戻る時間がなくて悪いね」

「構わないわ。それとミュリエル様が……」

 ミューズは今日ミュリエルに言われた、“他の男性からの誘いへの断り文句”について話した。

「姉さんがそんなことを……」

「ミュリエル様、愉快と言っていたけれどお優しい方だったわよ」

(その地位に相応しい厳しさもあったけれど)

 ノアは曖昧に笑った。

「……確か、日程的にそちらに戻るのは夜会直前になりそうだ。最初のダンスが終わった後に俺が行けば……」

 ノアはアメリアの結婚式には出席しない。元恋人が結婚式に参列することはマナーとして良くないとされているからだ。夜会からの参加になるノアは、ギリギリまで予定を詰め込んでいた。

 そして、夜会での最初のダンスはパーティーが始まってすぐになされるのが慣例だ。2曲目以降はあの断り文句を言えばいい。問題は思ったより簡単に片付きそうだ。

「ではそのように。道中お気をつけて」

「ああ。おやすみ」

 ミューズが電話機に受話器を戻すと、間髪入れずにセシルが傍にやって来た。心なしか楽しそうだ。

「お嬢様、夜会のドレスについてですが。明日、公爵様よりブティックの商人を呼んであるとのことです。それも最高級ブランドの『マズルカ』ですって!」

 ミューズを着飾ることはセシルの趣味のようなものだ。「いつかミューズがパーティーに出る日のために」と、日々最新のファッションを勉強している。ミューズは嫌々ながらも、時折それに付き合っていた。

「分かったわ。明日ね」

「珍しく潔いのですね」

「行けば良いんでしょ、行けば。行くわよ」

 ミューズは半ば投げやりだった。国民の手本となる公爵夫人になる者として、10人の継母になる者として、しなければならないのなら腹を括るしかない。

(きちんとしたドレスを選んで、堂々としていれば大丈夫よ)


 夜会会場はハーバー公爵家の大広間で行われた。多くの人々が酒と料理を交えて歓談する中で、読みは甘かった、とミューズは嫌でも突きつけられた。

「まあ。ミューズ様ですわよ」

「夜会にいらっしゃるなんて、男遊びを始めたという噂は本当なのね」

 アメリアの結婚式場でも向けられる視線に違和感はあった。夜会ともなれば、露骨に悪口を言う者も出てくるらしい。

 どうやら、グリーン出版に行った日にウィルと書店で会い、そのまま城下町を歩いていたところが見られていたらしい。その事実に尾ひれと背びれと尻びれほかが加わったおかげで、とんでもない噂になっていた。

(飛躍が過ぎるでしょ……)

「ごきげんようミューズ様」

 誰もが遠巻きに見る中で、1人の婦人がミューズの前に立った。長い桃色の髪を左右で細かい三つ編みにした彼女は、にこりと笑った。

「ココ・ラ・アイブラです。この子は私のメイドのミア」

 ココの傍に控える黒髪の女性が静かに礼をする。年齢はミューズたちとそう変わらない。

 ココはアイブラ侯爵家の第一子で、ミューズと同い年だ。そしてリリアナの幼馴染でもある。

「ごきげんよう。ミューズ・ラ・ニューヤドです」

 学友とはいえリリアナ以外と殆ど関わりのないミューズに、なぜ彼女が話しかけてきたのか思案する。少し離れたところで談笑する青年を見て、存外早く合点がいった。

 噂の根源となったもう一人、ウィルだ。

「先日、ウィル卿とお会いしましたよ」

 噂の的となっているウィルの妻が彼女だ。このような歓談の場ではパートナーと2人で常に行動を共にすることが基本だからか、すぐには気づかなかった。

 ミューズとウィルが並んで歩いていた情報は新聞に載りこそしなかったが、貴族の間では誰もが知る噂となっている。だが、ミューズにやましいことは何もないので堂々と事実を話すことにした。

「ええ、夫から聞いておりましてよ。ミューズ嬢がお元気そうで何よりですわ」

 傍から見れば、夫に近づく女に対して牽制する夫人のようだが、そのような敵対心は感じられない。夫のことを信頼しているのか、それ以上尋ねてこない。

 周囲の貴族たちの窺うような視線を無視することはできないからこそ、一応声を掛けたのだろう。

「なぁんだ。極秘の仲ではなかったのね」

「侯爵令嬢も知っていたみたいですものね」

 視線を送っていた一部の婦人方の視線は散っていく。そんな折に、最初のダンスの音楽が流れ始めた。一斉にパートナーの元へ行く貴族たちの合間を縫い、ミューズは壁際へと移動した。静かに踊る貴族たちを眺めつつノアを探すが、予定通り、彼は来ていないようだ。

(次の夜会までには基本的なステップくらい合わせられるようにならないと……)

 ミューズは給仕から受け取ったスパークリングワインを受け取り、口をつけた。


 絶えず立ち上がるきめ細かい泡を眺めてどれほど経った頃だろうか、幾人かの感嘆の声が、リズミカルな音楽に乗った。

「まあ、微笑ましいですわね」

「お可愛らしいこと」

 観衆たちの視線の先を見ると、ココとメイドのミアが踊っていた。今は3曲目に入ったところである。学園のダンスの授業ではトラブルを避けるために同性と組んで受講するが、パーティーでは中々見かけない光景である。

 ココはもちろん、先ほどは表情ひとつ見せなかったメイドのミアも頬を緩めていた。ミアは貴族ではないものの余程大切にされているのか、艶のある黒髪は1つの三つ編みに纏められ、服も高級な素材を使っていることが一目で分かる。

 優雅に踊る2人は、まるで別世界のように眩しく思えた。

(後で私もリリアナを誘ってみようかしら……)

 3曲目も終盤になった所で、ミューズの前に1人の男が立った。中肉中背の彼は、確か子爵家の男でミューズよりかなり年上だった。おそらく妻帯者だろう。

「これはビスク……いえ、ミューズ嬢ではありませんか。夜会にいらっしゃるなんて珍しい。次の曲、一緒にいかがでしょう」

(白々しい……)

 ココとミアの踊りを鑑賞しながらも、彼を含む数人の男たちがミューズの方を見やり、彼を押し出すところを捉えていた。まるで罰ゲームのように。

「どうするのでしょう」

「さあ……公爵様はまだいらしてないのかしら」

「哀れだな」

 事態に気づいた近くの貴族たちは笑いこそしないものの、動向を窺っていた。

「申し訳ありません、公爵様に嫉妬されてしまいますので……」

(どこのロマンス小説よ)

 これまでであれば強く睨んでいたミューズだが、これからはそうもいかない。

 若い令嬢たちの黄色い悲鳴と囁き合う声を背に、ミューズは大広間を後にした。どこか時間を潰せる場所はないものかと廊下を進んで行く。大広間のざわめきがようやく途絶えた時だった。

「ミューズ嬢、少々折り入ってお話があるのですが」

「!?」

 完全に気を抜いたタイミングだった。壊れたゼンマイ人形のように首だけ声の方を向けると、そこにいたのはアメリアだった。

「お話……ですか?」

「ええ。お時間はございますか?パーティーの終盤で良ければ」

 アメリアは以前対面した時とは打って変わってしおらしく、自信なさげに俯いていた。ミューズは過去、彼女の身にあったことを思い出した。

(抱え込まれるよりは良いわね)

「構いませんよ。あちらのバルコニーで待ち合せましょう」

「ありがとうございます」

 アメリアは大広間へと戻っていく。その背中は本日の主役には似つかわしくないほど小さかった。

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