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第八話

「これはすみません、ご婦人。驚かせてしまいましたね……って、ニューヤド伯爵令嬢ではありませんか。ご無沙汰しております」

 瞑っていた目を恐る恐る開けてみると、いたのはミューズと年の変わらない短髪の青年だった。その顔にミューズは覚えがあった。

「ウィル卿……?ごきげんよう」

 ウィル・ラ・アイブラ。リリアナの友人、現アイブラ侯爵家の一人娘ココの夫で、サンパング国軍の騎士をしている。

 そして、ミューズやリリアナ達とかつて同じ学園に通っていた学友だ。子爵家出身で身体能力が抜群に高く、学園卒業と同時に騎士爵を叙爵した。そして軍の統率をするアイブラ侯爵家のココとは在学中に意気投合し、去年結婚したばかりである。

「ミューズ嬢もこのシリーズがお好きなのですか?」

「はい、偶然ですね。今月注文するのを忘れてしまって」

 ミューズは平積みにされた最新刊を一冊手に取った。ウィルもそれに続き、2人並んでレジカウンターへ向かう。

「……こちらはお1人で?」

「ええ」

 そう言うと、ウィルの顔が少し曇った。

 会計を済ませ書店を出ると、外は心なしか先ほどより曇っていた。

「危ないですから、邸宅までお送りしますよ」

「大丈夫ですよ。今はセントル公爵領に住んでいますから、こんな所、周りになんと見られるか」

「ではせめて公爵領の入口まで。ミューズ嬢がこの辺りを一人で出歩いている方が心配の目を向けられますよ」

 セニョーダ領の城下町からセントル領の領門までは徒歩で15分程度だ。ウィルに説得され、ミューズはウィルと共に公爵領の手前まで歩き、領門で待機していた馬車で公爵邸まで帰った。


「えぇっ!あの記事を書いた人がいたのですか!?」

 公爵邸の私室で、セシルの声が響いた。今日、彼女は午後からの出勤である。

「驚いたわ。それに書店に行ったらウィル卿にも会ったの。公爵領まで送っていただいてしまったわ」

 困惑するセシルを横目に、ミューズは公募に合格した作品の原稿を眺め、どこに恋愛の要素を入れるか思案していた。なにせ、ミューズの書いたその物語には、恋愛の要素を入れる隙間がなかった。

「そもそも、あの書店の方へ行ったのですか?一人で?あの辺りは……」

 先の戦争が始まる前から、城下町の、あの大型書店のある辺りは閑散としていて治安の悪い場所だった。

「そんなに怖い顔をしないで。何もなかったわ」

「それは……。とにかく、あの辺りに行くのであれば誰かを付けてください。今回は、御者は何も知らなかったので致し方ないですが」

 セシルはいつの間にか窓を拭く手を止めて真っ直ぐにミューズを見た。ミューズは視線を逸らす。その瞳には影が宿る。

(セシルは過保護ね……なんて、とても本人には言えないけど)

 ミューズがセシルに何と声を掛ければ良いのか考えていると、私室の扉が数回ノックされた。

「ニューヤド伯爵令嬢。手紙が届いております」

「どうぞ」

 執事長のハドソンが入室し、ミューズに手渡した。

(ハドソンが直接渡しに来るってことは重要な手紙かしら?)

「ありがとう」

 ミューズの予想は的中した。硬く上質な紙を使用した手紙の差出人はノアの姉、つまりこの国の皇太子妃だった。

 上質な紙の封筒をペーパーナイフで切り、恐る恐る便箋を取り出すと、短い文が丁寧な字で書かれていた。

『ミューズ・ラ・ニューヤド伯爵令嬢。ご機嫌いかがでしょうか。義理の姉妹となる前に、一度二人でお茶でもいかがでしょう。詳細は追って。ミュリエル・セニョーダ・サンパング』


 その夜。ミューズはノアに電話を掛けた。電話越しに聞くノアの声には薄っすらと疲労が混じっていた。ミューズは手短にミュリエルからの手紙が届いたことを話した。

「嫌なら断っても良いんだぞ」

「そういう訳にはいかないでしょう。妃殿下はどのような方なの?」

 ミューズが尋ねると、ノアは黙りこんでしまった。数秒後、ノアは声を振り絞った。

「あー……愉快?」

「愉快?」

 ミューズは想定外の単語に困惑し、思わず聞き返した。皇太子妃ミュリエルは賢妃とも呼ばれ、美しく聡明で女神のようだと社交界では名高い。社交界に疎いミューズでも知っているほどに。

「そう……愉快で、なんか……変……」

ノアの声は段々と小さく細切れになっていき、ついに聞こえなくなった。

(眠ってしまった?)

「おやすみなさい、ノア」

ミューズは静かに受話器を戻した。


 それからしばらくして、正式な招集状が届いた。

 招集状に記載された日、ミューズはセシルと共に公爵家の馬車で皇城へと向かった。

 現皇太子妃で、ノアの実の姉にあたるミュリエル・セニョーダ・サンパング。ミューズは彼女のことを殆ど知らなかった。皇太子妃とは年が4つ離れており、学園で見かけることもなかったからだ。

 慈悲深い女神、聖女、希望の天使、等々彼女を称する言葉は多くある。しかしそのどれもがノアの言った「愉快な人」という人物評とは合致しない。馬車に掛けられたカーテンを少し開けて外を眺める。

 城下で忙しなく生活する市民たちが、動きを止めて大通りを進む馬車の行方を追っている。先の戦争が始まる少し前から、城下町から人通りは消えていた。子どもの声一つしない荒廃した町。それが今では過去最高と言えるくらいの賑わいを見せている。

 数日前に訪れた出版社の前を通り、馬車は書店街へ差し掛かった。

「お嬢様、もうすぐ着きますわ」

セシルはカーテンをサッと閉める。ミューズはその様子を静かに見つめた。


 セントル公爵家の馬車は皇城の城門前に到着した。

「ニューヤド伯爵令嬢でございます。皇太子妃殿下より、招待を受けております」

 城門に控える衛兵とやり取りをするセシルを見ていると、謁見が現実味を帯びてきたのか鼓動が早まる。

(いけない、冷静に……)

 ミューズは心臓に手を当て、目を瞑って軽く唇を噛んだ。緊張した時や不安を感じた時、心が乱された時などにするルーティーンだ。

「お嬢様。参りましょう」

「ええ」

 衛兵が馬車を開け、2人は外へ出る。いくら公爵家の馬車であっても、皇城の敷地内に入ることはできない。衛兵の先導のまま庭園を抜け、皇城内の応接室へ通される。

 応接室で待っていると、皇太子妃の侍従が迎えにやってきた。

「皇太子宮へは伯爵令嬢のみお越しください」

 侍従は深々と礼をした。セシルを応接室に残し、ミューズは侍従の後に続いて皇太子宮へ移動した。皇城には皇帝一家の住む本宮と、皇太子一家の住む皇太子宮、皇帝誕生日などの皇家主催の行事が行われる宮殿などがある。

 皇太子宮は本宮と比べ作りが新しく、精巧なステンドグラスが華やかに輝いていた。伝聞によれば妃の趣味らしい。

「こちらでございます」

 ミューズは皇太子妃専用らしい書斎の扉の前で軽く深呼吸をすると、侍従が扉をノックした。

「皇太子妃殿下、ニューヤド伯爵令嬢のご到着でございます」

「通しなさい」

 重厚な扉が開けられるのと同時にミューズはスカートの裾を持ちカーツィをする。

「ミューズ・ラ・ニューヤドにございます。ミュリエル皇太子妃殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」

「ごきげんよう。お入りになって」

 顔を上げると、長い銀髪に装飾の少ないティアラを載せた女性が出迎える。侍女に促されるまま書斎の中央にあるソファーに腰掛けた。皇太子妃は人払いをしてミューズに笑顔を見せた。

「義理とはいえ姉妹になるのだから、気軽にファーストネームで呼んで。私もミューズと呼んで良いかしら」

 太陽の光が書斎に差し込み、ミュリエルの銀髪を輝かせる。国内で珍しいその髪色は、女神と称される所以だ。

「勿論でございます。ミュリエル様」

「嬉しいわミューズ。貴女があのノアと結婚していただけるなんて。でも……」

ミュリエルは片方の眉を下げた。

「ミューズは、本当にあの子でよろしいの?ノアはなんというか……退屈してしまうのではなくって?」

 ミューズは巷では酔狂人、奇人、風変わりな者だと言われている。それも全ては結婚せず恋人の気配もない上にいつも表情を変えないからだが。そんなミューズと、クセのないノアという組み合わせは釈然としないのかもしれない。

(確かに、小説の中心人物にはならないタイプだわ。でも……)

「堅実な方だと思っております。恥ずかしながら私はつい奔放になってしまう所がありますから、良き夫婦になれる、と僭越ながら考えておりますわ」

 これはミューズが真に思っていることだった。どんなに子どもたちとの対話が難しい日も、驚くようなことがあった日も、1日の終わりにノアと話すことで、どこか頭の中が整理されるような気がしていた。

「まあ!ノアにそんなことを言ってくださる方がいるなんて……ノアは幸せ者ね」

「恐れ入ります。皇太子ご夫妻には到底及びませんが……」

「あら、私たちが?」

 ミュリエルは首をかしげる。パチパチと長い睫毛が大きく瞬いた。その長い睫毛が、どことなくノアに似ているな、とミューズは思った。

「お二人は国民の間で理想の夫婦だと言われていらっしゃいますよ」

 そう言うと、彼女は嬉しそうに菓子を頬張り、紅茶に口をつけた。

「ミューズは確か21歳よね?私たちが結婚した時と同じね、なんだか嬉しいわ」

 21歳で結婚していなければ、この国の風潮として「行き遅れ」と評される。しかし、皇太子夫妻が結婚した当時は誰もそのようなことを言わなかった。

 現皇太子夫妻の結婚は、当初より1年遅れた。二人の婚約式は7年前、二人が18歳の時に盛大に行われていたものの、その1か月後に旧隣国との戦争が始まったからだ。

 予定では2人が20歳になる2年後に結婚するはずが戦争は長引いてしまった。戦時中の結婚は許されず、それから1年経った終戦に合わせて結婚となった。そんな経緯もあり、皇太子夫妻は「平和の象徴」とされている。

 ミューズはただ結婚から逃げてこの歳になってしまったというのに、ミュリエルは「嬉しい」と喜んでくれた。罪悪感のあったミューズは、その傷が癒えたような温かさを抱いた。

「そう言っていただけるなんて、光栄に思います」

「本当のことよ。……それでも心配だわ」

 ミュリエルは声色を変え、カップをソーサーに置いた。

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