グラディス・シャムロック。
司祭が開く分厚い書物の上に、しばし別れる自分の名を綴り終えると、グラディスはそのすぐ上に書かれた、ぎこちない文字の書き手――新郎に向き直った。
――皆が、私のことを可哀そうな花嫁だと言うけれど。
慎ましやかな教会のベンチに居並ぶ両家の親族と、友人たち。薄いベール越しにでも、幾人からもの憐れみの視線を感じる。
学生時代に婚約してから7年。うち学院を卒業し、挙式の予定が立ってから2年。
結婚式を目前にして、バセット子爵家嫡男の婚約者アーロンは出奔した。
婚約者に捨てられた哀れな令嬢、というのが社交会でのグラディスの評価だ。
口さがない者からは、大人しそうだからとか、ぼんやりしているからとか、面白みがないから生徒会の役員まで務めたアーロンには物足りなかったのだ、などと陰口を言われた。
お飾り妻とかお下がり妻などといった、もっと酷い言葉も耳にしたことがある。
これにもうひとつ加わったのが、不本意な結婚との評判。やや型が時代遅れになりつつあるこの白いウェディングドレスのような、ありあわせの結婚だ。
つまるところシャムロックもバセットも、商売の利を取った政略結婚を続行することにした。
バセットの三兄弟のうち長男でなく、グラディスより一つ年下の次男・ヴィンセント――兄弟で一番出来の悪い――と結婚させて家を継がせることを、次善の策と許容したのだ。
それもアーロンの失踪から、結論を出し結婚式を挙げるまでたった5日でだ。
この5日間、グラディスはヴィンセントと一度も顔を合わせていない。
いや、彷徨う彼の落ち葉色の三白眼は式の間だってずっと、一度も合ったことがない。だから余計に、観客の憐れみは花嫁に向かったのだけれど。
――この人の方がよっぽど可哀そう。
グラディスは一見、大人しそうに見える――らしい。今だって物憂げな黒い睫毛は悲しみに気丈に耐えているように見えるかもしれない。
けれども商家の娘らしくそれなりに図太く育ったし、将来の子爵夫人となるべくそれなりの教育にも、義母からの要求にも耐えていた。
こんなスライド結婚のウェディングドレスだって、少なくとも彼女自身のために、好みを入れて、サイズを合わせて作っていた。
それなのにこの
華があり誰にでもそつなく接することができる、すらりとした貴公子だったアーロン。彼に似合うよう作られたタキシードが、目の前の新郎にそのまま流用されていた。
どちらかといえば地味で陰気そうな顔のヴィンセントには似合っていないし、丈やあちこちを急遽詰めることになって動きづらそうだ。
しかも彼は、以前からグラディスを嫌っていた。
「では、誓いの口付けを」
司祭が素知らぬ顔で穏やかに、向かい合ったまま動かない二人へ促す。
ヴィンセントが一歩、近づいた。手がベールを無造作にめくり、そのままぎこちなく、後頭部を掴むように引き寄せられる。
目が合わないまま腕が口元を隠し――グラディスがちらりと横目で参列者を見れば、義母になるバセット子爵夫人の射抜くような視線が痛い。
「ふりだけでも、上手く」
彼にだけ聞こえるように囁いて視線を合わせようとすると、やっとこちらを見てくれる。苦痛に満ちたものだったけれど。
そして本来頬に落ちるはずの口付けは、ついぞ触れることがなかった。
その晩――結婚初夜のこと。
「グラディス・シャムロック嬢」
書き物机に座っていたグラディスが扉の開く音に顔を上げれば、睨むようにしている夫が立っていた。元々悪い目つきが更に悪くなっている。
彼は式後の風呂上がりだというのにシャツのボタンを一番上まで留めて、その上にローブを羽織っていた。
彼と閉まりゆく扉との隙間に、執事や子爵夫人の侍女たちの姿が見える。分厚い扉を必要以上にゆっくり閉めていた執事の視線が、ヴィンセントの言葉にきつくなったようだ。
それを感じたのか、彼は室内側の取っ手を掴むと、やや乱暴に閉めきって鍵をかけた。
ヴィンセントは三白眼でグラディスの薄手のレースで彩った夜着をちらりと見て、視線を彼女と正反対、ベッドの方に向けた――それから義母の指示で花を撒いてあるそれにうんざりしたように眉を下げてから、仕方なさそうにグラディスの目のやや上に視線を固定する。
「グラディス嬢。いいか、お前はお飾りの花嫁だ。これは政略結婚で、両家の都合に過ぎず……」
披露宴での作り笑いに疲れたのだろう、普段より声に棘がある。次男だからと免除されてきた――むしろ外に出ないように、と義母から言われていたらしい社交のあれこれが一気に襲いかかってきたのだ。
義母によれば「5日間でみっちり詰め込んだ」振る舞いは、次男としては及第点でも次期子爵には心許ない。元より子爵夫人となるべく準備していたグラディスも、義母もなるべくフォローしたが、社交は彼の最も苦手とするところのようだった。
「お飾りでも花嫁というなら、それなりの扱いをしてくださらないと。さすがに未婚の時の呼び名では」
「それは人前での話だろう。二人きりの時に、何か差し障りあるか」
心底、会話すら面倒くさそうな態度と声を隠そうともしない。
それはそれで覚悟ができていたが、扉一枚向こうに使用人たちがまだ控えているかと思えば望ましくなかった。
「ほつれは細部からできるものです。それにご存じのように、こちらの
彼女は声をひそめて答え、部屋を見回し、それから自身の指先に視線を落とした。
アーロンと過ごすための部屋は、以前義母に見せられてから全く変わりない。彼の趣味に“合いそうな”品の良い優美な家具類と好む赤色で整えられていた。そしてグラディスの爪先は先ほどまで過剰なほど磨かれている。
「……家のために形ばかり、結婚だけはしてやったんだ。それ以上望むな」
「こちらも同様です。状況認識に齟齬がなくて幸いです」
グラディスがにこりと微笑むと、ヴィンセントは鼻白む。
「二、三日もすれば婚姻証明書が届くでしょう。書類上、ええもう形ばかりですが、私の名は数年はグラディス・バセットです。まずは、私のことはどうぞ呼び捨てに。難しいなら発音練習でもされます?」
「……昔からその上から目線が気に食わなかったんだ」
「であればなおさら、呼び捨てにしたかったのでは?」
端的に言って、二人は仲が良くない。
学校ではアーロンが人当たりも良く文武両道、評判の良い優等生だったため、学校でのヴィンセントは周囲からずっと兄と比較されていた。平々凡々、取り柄もないから次男で良かった、と。
やがて成績を落とし休みがちになった彼のサポートを、アーロン――グラディスと入れ違いに卒業していた――と義母から頼まれた彼女は、義理の姉としてあれこれ口を挟むようになった。
生活態度から勉強のアドバイスから、上流貴族相手の上手い立ち回り方まで。いらぬ世話だと何度言われたことか。
そのせいだろう。卒業後はヴィンセントに避けられており、特にここ二、三年はバセット子爵夫妻も同席するような、最低限の場での最低限の付き合いしかしていない。
「……グラディス」
睨み付けるように言われても、入学時の幼さの残った顔を思い出せば怖くない。グラディスは微笑み、書き物机の上に積み上げてあった書類を手に取り差し出した。
「これで対等ですね。それでは次に、建設的なお話をいたしましょう」
「なんだこの紙束は」
「もしもアーロン様が戻られれば、子爵、いえお義母様はきっと爵位含め“元通りに”されるでしょう」
「……」
グラディスは想像する。間に合わせでなく、ケチの付いた花嫁でなく、アーロンに相応しい結婚式と花嫁を用意することを。アーロンかその息子に何とかして爵位を継がせ、自分たちはお役御免――あくまで補佐に留められるだろう。
ヴィンセントが受け取ってページをパラパラめくるのを見ながら、言葉を続ける。
「もしも、戻ってこない場合は?」
「期限はアーロン様が戻ってこられるか、ヴィンセント様が爵位を継ぐまで。ご自身が子爵となれば離婚も再婚もご自身の望むままです。
いつか来る離婚の日のため、お互いが日常を取り戻すための条件をこちらに記しました。少々長いのは、お互いが夫婦仲を疑われず、かつ不仲にも思われないための、日常での注意点です」
「この、お前の一日の予定とやらは何の役に立つ」
「お互いを理解し、適切な距離について話し合う材料です。今後私は子爵家の家政を学ぶだけでなく、バセット商会の仕事、加えてシャムロック商会の仕事との調整をしなければならないので――」
聞いているのかいないのか、素早く紙をめくっていたヴィンセントは、書類の最後の空欄に目を留めた。教会での誓いとは反対に、グラディスのサインが先にある。
彼女は黒檀のような目を細めると、机上のペンを指した。
「こちらの契約書にサインをどうぞ、旦那様」
ヴィンセントが促されるままペンを手に取りサインを書き終えると、グラディスは受け取りながら笑みを深めた。
……いや、むしろ苦労が深まることは確定したのだけれど、それでもこの「出来の悪い」夫を前に、計画通りにいく、と確信したのだった。
「では、今サインされた通り、一年ほどは、週に一度、夫婦の寝室に通っていただきます」
「……は?」
「契約書に書いてありましたよね」
「貸せ」
慌てて再度書類をめくり始める夫に、グラディスは3ページにあります、と教えた後で平然と続けた。
「どうしても世継ぎが欲しいお義母様の忍耐の限度は、週に一度だと推測しました。過去の離婚裁判の例を調べましたが、これがお互いに損がない頻度です。ああ、ベッドはもう一台入れる予定ですが」
「……下調べをしたのか?」
「ええ。もう、たっぷりと。今回の結婚で私の意思を差し挟む余地がなかったので」
結婚までのたったの5日間、仲が悪いからこそ、グラディスは可能な限り快適で円満に離婚できる契約書の作成だけに注力したのだ。
「問題は、今夜はどうにかしてお義母様の目を欺かなければならないことです。残念ながら私、閨ごとにはさっぱりで」
「は? ……あー……兄とは」
「あの方、私にはこれっぽっちも興味がありませんでしたから」
初心なのかもしれない。遠慮がちな質問に、これも平然と答える。
「まさか、あんな恭しく手を取って、頻繁に劇場のボックス席を予約していたのに……?」
「あれは演技です。アーロン様は演劇をお好みで、子爵になることよりも、劇団員として舞台に立つことを夢見ておられました。一方的な解説を除けば、私との会話なんて一言も。
おそらく、出奔されたのもそれが原因でしょう。憧れていた劇団が、隣国で公演されるそうだったので」
そう、アーロンはずっと夢と現実の板挟みになっていたのだ。
子爵家の長兄として義母のプレッシャーをずいぶん受けていたことをグラディスは知っている。優等生なのも、義母が好きな赤が好きなふりをしていたのもそのせいだ。……失踪するほど、とは思っていなかったが。
しかし今は詮無きことだ。それよりも、ボックス席でいかがわしいことをしていたと思われるのは、不本意だった。それ以上に、次期子爵になる彼にそんな俗っぽくて短絡的な発想に至られるのは困る。
疑いの目に、もう少し説明した方がいいだろうか、とグラディスが思ったとき、ヴィンセントがペーパーナイフを手に取るのが見えた。
よからぬことをするのではないかと咄嗟にグラディスが手を出す前に彼は刃を立てると、ぷつりと自身の指先を指した。
「あ、思ったより痛……」
「それは痛いでしょう! 何をなさって――」
血の球が滲むのを慌てて何か拭くものを、と探そうとすると、その前にヴィンセントはシーツの上に血を擦りつけた。
「……念のためだ」
「……念のため?」
「は……初めての時はそうだって……だ、だから……後で不都合があったら、俺が怪我したって言えばいい。嘘じゃない」
ヴィンセントは目を相変らず合わせないまま、ふいと首を向こうに向けてしまう。
「ヴィンセント様……」
「俺だって、母上の前で演技くらいできる」
「……いえ。その上で寝るんですか?」
「あ」
間の抜けた顔。
――どうせなら明日の朝にすれば良かったのに。
グラディスは口から出かかったその言葉を飲み込んで、彼に薄紙を渡した。