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第2話 違和感とほころび

 結婚式と翌日からしばらくは慌ただしかった。子爵夫妻と付き合いがある方々のための各所のパーティーに参加して顔つなぎをする。

 その後もグラディスは子爵夫人から家政を学ぶほか、仕事や社交にいそしみ、夜は週に一度は、ヴィンセントに勉強を教えた。

 学生時代の勉強のおさらいから始めて基礎学力に問題ないことを確認すると、契約書の読み方や商取引特有の単語や数字の読み方を教えた。

 バセットは商家なのだ。ちょっとした差のつもりでも収益が大きく左右される。

 宿題を出し次回までにと約束して回答をチェックして指導する。嫌そうな顔をされるが、契約書にサインをした彼には拒否する選択肢がない。




「グラディスさん、もっとゆっくり起きてきていいのよ~」


 子爵夫人は結婚式の翌日からずっと、たいそう機嫌が良かった。

 はじめは週に一回の予定だった夜の訪れが、一月も経つ頃には週に二、三回になっていたからだろう。この頃には、毎日憂鬱そうな顔ばかりして職場に通っていたヴィンセントも、仕事にも勉強にも少しやる気を出したらしかった。


 子爵夫人はアーロンに受け継がれた華やかな容姿に、たっぷり時間をかけたライトブラウンの巻き髪。声も鳥がさえずるように美しく、自然に派手な動作が人目を惹きつける。それがいっそう顕著になった。

 その性質がアーロンに引き継がれて、見るべきでない夢との距離を近くしてしまったのは皮肉だったが。

 一方で、夫の子爵は全体的に地味な色合いで寡黙でおっとりもしており、ヴィンセントは彼似なのだろうと思われた。


「でも、まあそれはそれでいいわね。あんなに毎日毎日寝坊して、学校に行くのもおぼつかなかったこの子が早起きするようになって――グラディスさんにお任せして正解だったわ!」


 夕食の席で子爵夫人がうきうきと言えば、食事中は終始しかめっ面のヴィンセントの眉間の皺が深くなる。

 妻との仲が良いと周囲に思われないために早起きしているのだと、グラディスは知っている。


「……こほん。ともかくヴィンセント兄さんの雰囲気が最近柔らかくなったのは、喜ばしいことですね」


 末席に座る三男、エディがそつのない笑顔を浮かべる。

 ちょうど、夫妻の良いとこ取りと言った雰囲気の彼はまだ学生だが、バセット家で最も落ち着いているとグラディスは思っていた。

 毎回のように義母に反抗していたヴィンセントがここ一週間黙りがちなのは、自分のせいで疲れているだけ……と思ったけれど、心遣いに感謝する。


「もう、大陸の方で農場を経営したいなんてヴィンセントが言い出したときは驚いたわ。ねえヴィンセント、あんなことは他人に任せておけばいいのよ」

「……はあ」


 ヴィンセントの返答は同意や相槌というよりため息だったが、子爵夫人は構わず話を続ける。


「茶葉の方は現地にいい職人がいるんだから、取引先の開拓と商品開発に集中してくれれば。

 もう少しの辛抱よ。エディがもう数年して立派な法律家になったら、我が家の経営の助言をしてくれるでしょ? 我が国の法律の変化の波と言ったらヴィンセントには荷が重そうだしねえ……」

「……母上」

「まあ過ぎたことだしいいわね。そうそうグラディスさん、そちらのデパートの新しい化粧品がね――」


 果たして以前からこんな人だったか、とグラディスは滔滔と続けられる子爵夫人の話を半分聞き流しながら微笑を浮かべていた。

 長男のアーロンを立派な次期子爵にと、一心に期待をかけて厳しくも彼女なりの愛情を持って教育をしていた人だ。彼を失った寂しさを埋めるためだろうとは理解ができる。

 できるが……一人舞台で、周囲の空気は最悪だ。

 グラディスは早くも、ヴィンセントの向上心のなさの原因はこの人だったのでは、と思い始めていた。態度は悪いし内向的な上に軽率だが、地頭は悪くないから教え甲斐があった。

 食事を終えた子爵がぼそりと、「失礼する」と言って退席し、続いてヴィンセントが無言で席を立つ。続いて母親を諫めつつエディが続いて、グラディスに遠慮がちな声を掛けてきた。


「義姉さん、以前、書斎でお探しの本があると仰っていたでしょう。ご案内しましょうか」

「……ありがとう」

「まあエディ、グラディスさんとはまだお話したいことがあるのに……!」

「ご婦人方はお茶の機会が幾らでもあるでしょう。それにお母様はこれから商会の会合があるのでは」

「あら、そうだったわ。あの人の代わりに出ないと」


 柔らかく母親を制したエディは、廊下に出るとひそやかに苦笑した。グラディスが探している本なんて、本当はなかったのだ。


「申し訳ありません、義姉さん」

「……エディこそ、予定がずいぶん変わってしまって」

「どちらの兄と結婚しても、義姉であることに変わりありませんから。ひがい……大変なのは義姉さんでしょう。困ったことがあればいつでも頼ってください」


 彼が被害者と言いかけたのが分かって、ついグラディスは微妙な表情を浮かべてしまう。

 被害者というならむしろ、ヴィンセントの方だ。あの一方的な契約書の内容は他言無用なのだから。


「……ああ、こちらですよ」


 エディは書斎まで歩くと、最奥に手招いた。そして書棚の陰になっていた、壁と同化するような色の、目立たない扉を開く。


「こんなところに扉があったのね。……ギャラリーかしら」


 促されるまま足を踏み入れれば、狭い部屋一面に飾られた絵。それも表の応接室に飾られているような立派な額に入っているものはなく、簡素な額か、キャンバスそのままに飾られているものばかりだった。

 部屋の中央にはイーゼルと椅子が、隅には画材やスケッチブックの入った棚があり、申し訳程度の机が寄せてある。


「これはどなたが?」


 一目見て上手だ、と思うものの、画家の絵のような巧さではない。題材は自然や農村の人々、家畜や花などの何でもない角度からのもので、もっと素朴で私的な絵だった。


「殆ど父の描いたものです。父に、兄さんに……バセット家の男には代々、大なり小なりそういうところがあるんですよ」

「こんなご趣味があったんですね」


 趣味というのは控えめな言い方だ。数十冊に及ぶスケッチブックの量を見るに、ライフワークかもしれない。無口な子爵は、息子たちを社交界に売り込むよりも領地を回るの方が好きそうに見えたが、絵を描くという理由もあったのだろうか。


「ああ、義姉さんは否定はされない?」

「私には絵心がないから、素敵だと思うわ」

「良かった」


 にこやかに微笑まれる。それでエディも絵を描くのかと尋ねたが、そうではないらしい。


「あら? この羊はタッチが違うわ。それにこちらも」


 グラディスは多種多様な羊の絵を見ながら頷く。羊毛と紡績はバセットの主要産業で、実家の主要な取引先だ。


「ああ、それは――」


 含み笑いに振り向くと、入り口の扉を背にしていたエディの脇をヴィンセントが通って入ってきた。


「――グラディス、早く出ろ」

「兄さん、せっかく来てくださった大事な新妻にそんな言い方はないでしょう。先ほどだって一人置いていくのは……」

「エディ、早く閉めてくれ」


 エディは肩をすくめて苦笑すると、おやすみなさい、と二人に告げて去って行く。しかめっ面のヴィンセントに、グラディスは微笑んでみせた。

 結婚して日が経ち、慣れたせいか、話し合いで適切な距離を保つことができているせいか、以前と違って嫌悪はなかった。


「ほら、早く出ろ」

「……あなたの絵なんですね」

「どうして分かるんだ」

「タッチが違いますし……その手に持っているものは何ですか」


 顔を背けたままだったヴィンセントは、手の中にあるキャンバスに目を落とす。


「これは父の絵で、掛け替えようと思って……」

「では、違うものもあるということですね? 交換して、証拠を隠してしまおうと?」

「だからお前はまた上から目線で――」


 目が合った。怒ったような顔だが、グラディスは怯まない。日々接するうちに、少しずつ表情が読めるようになってきたからだ。本当に怒っていたらきっと、ここから五度ほど目尻が吊り上がっている。

 彼女は椅子を二脚引き出すと、腰掛けるように促した。


「今夜の勉強は、ここですることにしましょうか」

「いいから、さっさと出ていってくれ」

「ここで済ませたら早く眠れますよ?」


 魅力的な提案だったらしい。少し考えるように眉をひそめた後、


「まあ、今夜はそれでもいいか。……うん……ちょっと待て、ここでの抗議は、契約書の『AがBに所定外労働をさせた場合』に当たるんじゃないか?」

「よく気付きましたね、素晴らしい」

「契約によれば、あー……法定時間の20%を越えた場合に……」


 ヴィンセントは思い出すように目を上に動かしつつ、そのまま壁に向かうと、花の絵と掛かっていた黒顔の羊の絵と掛け替える。

 何かを考えているときは他がおろそかになるのが良くないところだ、とグラディスは思いつつ、回答を待った。


 ――つまるところ、あの長い契約書はグラディスの妻としての雇用契約書で、同時にヴィンセントにとっての教科書だった。

 今後子爵家の当主となるなら、軽率にサインすることは勿論、いくら長くても文書の内容はきちんと理解してもらわなければ困る。思い付いたあらゆる契約の文章を必要もないのにて盛り込んだのは、そのためだ。


「……つまり基本給以内でプレゼントを贈る必要はないというわけだな」

「ご名答です。では次は、学生時代の単位の取得に関する問題を」


 勝ち誇ったようなヴィンセントにゆるく拍手を贈ると、うんざりした顔が返ってきた。


「何で今更、昔の話を持ち出すんだ」

「せっかく持ち直した成績が、わざわざ最終学年の秋に自主休暇を取って落第寸前になったのは、この羊たちが原因でしょうか?」

「何で分かる?」

「ブラックフェース種の羊の毛の長さからおおよそ分かります。それに右上辺りの山の色。領地の山岳地帯でこの角度から陽が差すのは――」


 グラディスが推測を並べ立てると、また、だから嫌なんだ、と呟く声がした。


「何がでしょう」

「お前たちはいつも賢しらぶって、できないやつの気持ちなんて考えやしない。おまけに普段そういう扱いをしながら、最終的には何とかなるだろうって、自分の基準で考えて、人の知能の下限を見誤っている」


 目が合った。そこには少しの憎しみと苦痛と、悲しみが含まれていた――昔から変わらない。

 グラディスはどう答えたものかと逡巡しながら、先ほどの黒い羊の無邪気な顔を指さした。


「……単に知っていたからだけです。推測が正しいなら、それはヴィンセント様がこの絵を正確に描いたからです」

「今更おだてたって無駄だ」

「私も商家の娘です。無駄だと思えば時間や労力を投資したりしません。ヴィンセント様が、やればできると思えばこそしたことで……無駄だと思えば、手を引いたでしょう」


 それは本当だ。疚しいことがないので、グラディスは目を逸らさずにしっかり見返す。見返して、ほんの少しだけれど表情が緩んだのを目敏く見て取った。


 ――やはり、この人は褒めたら伸びるのかもしれない。


 人の能力は環境に左右される、とグラディスは思っている。シャムロックが経営するデパートでも、適度な労働時間と休息、人間関係、給与、適性を考えた人員配置に気を配ることで売り上げが伸びている。


「これはただの質問なのですが。こちらの角を短く巻いた羊は、どんな種類なんですか? 見たことがありません」

「北の小島にしかいない在来種だ。寒い地域で毛は余所より温かいのに、細くてふわふわした毛質で、チクチクしない。俺も実物はあっちで初めて見た」

「それは、若い女性に好まれそうですね」

「また商売か。小さい羊だから、量産できる体制にないと思う……何だ、それは」


 ヴィンセントはグラディスがどこからか取り出した小さなメモと鉛筆に、首を傾げる。


「高級品のラインなら、売り出すこともできるかもしれないと思って」

「そうじゃない、なんでメモを……」

「いつでも記録できるように持ち歩いていますから。こうやってポケットを付けて」


 グラディスはドレスを摘まむと、ドレープの一つを開いて見せた。

 その答えは彼にとって意外だったらしい。……そうだったのか、と呟く。


「忘れても、確認できれば困りません。浮かんだ疑問点は調べて検討します」

「思ったより努力してるんだな……」

「ヴィンセント様だって、何で、と疑問を持たれるのは美点ですよ」


 褒めれば、ヴィンセントの鼻が少し赤らんだ。

 それがふと、可愛いと思える。

 もしかして意外に素直なのかも、とグラディスはもう一押ししてみることにした。


「記録という意味ではこの絵も同様です。先ほどのように、昔の絵から意外な事実が見付かるものですよ。考古学上の発見だってありましたし、描き手のことだって」

「描き手のこと……俺のことが? 俺は画家じゃない」

「画家じゃなくたってですよ。……絵を描くのがお好きなんですか?」

「……まあ。ここでたまに絵を描いている」


 取り外した羊の絵を手にすると、懐かしそうに視線を落とした。


「それに、卒業を前に遠出するほど家がお嫌でしたか?」

「……ああ」

「遠くで農場を経営したいというのは……」

「……兄さんが出ていかなければ、叶うかもしれなかった。披露宴から散々見てきて分かるだろう、俺はこういうのには向いてないんだ。少なくとも母が思うような、兄そっくりの子爵になんてな」

「……それは……」


 グラディスは、その投げやりな声音に胸を衝かれて、返答を言い淀む。

 もし羊に向けるような表情が本来の彼であるなら。学生時代からの接し方で頑なにしてしまった、思うようにしてしまったのは自分にも責任がある。

 ついさっきも言われたばかりだ。「できないやつの気持ちなんて考えやしない」と。


「……別にお前が俺を兄に仕立てようと企んでるとまでは思ってない。契約書を読み直して分かってきたが、あれはお前にも、不利すぎる条件で……」


 彼がそう言ったとき、図書室の方から軽い足音が近づいてきて、振り返ったヴィンセントは彼は顔を強ばらせた。視線を追ったグラディスは見る前に、高い声に相手を知る。


「――まあヴィンセント、またこんな、こんなところにいて!」

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