「――まあヴィンセント、またこんな、こんなところにいて!」
初めて聞くヒステリックと言っていい叫び声に、グラディスは背中をびくりとさせた。ヴィンセントが外したばかりの羊の絵を裏替えしにしてさりげなく壁に立てかける。
「……絵は駄目……絵なんて駄目よヴィンセント!」
「お義母様、どうなさいましたか」
明らかに取り乱した様子の子爵夫人は、夜用のロングドレスに毛皮のコートで着飾っていた。動きに合わせて帽子の羽が踊る。
「母上、会合に行ったはずじゃ……」
「執事があなたが書斎に行ったって言うから来てみたら案の定だわ。やっぱりここは取り壊すべきだったのよ。もう絵を描かないって約束したでしょう」
「描いていません」
「ああ、本邸から取り除くだけじゃ足りなかったんだわ……!」
掴みかからんばかりの勢いで息子に迫る子爵夫人との間に、グラディスは割って入った。
「申し訳ありません、私がたまたまこちらを見付けて、絵の解説をお願いしたのです」
「ああグラディスさん、あなたは分かってくれるわよね? この子は出来が悪いの、絵なんて描いていたらますます父親そっくりになってしまうわ!」
「それは、どういう……」
やめろ、と耳元で優しい声がした。
彼女が顔を見る前にヴィンセントが両手を広げ、さめざめと泣く母親の背中をさするのが見える。
「大丈夫だよ
「……アーロン、戻ってきて……アーロン……」
「領地には行かない。どこにも行かない」
優しくいたわる、聞いたことのない声。今まで母親に向けられるなんて信じられなかったそれが、何故が血を吐くようだとグラディスには思えて――イントネーションが、アーロンそっくりになっていたと気付く。
さするうちに落ち着いていく子爵夫人の喘鳴に喜びが混じり、
「ああ、アーロンは優しいのね」
――今、なんて。
「大丈夫だから、どこにも行かない……絵も……」
グラディスは、固まったままで、自分の目だけが動いたような気がした。深い憎しみと苦痛に塗れた顔が見えた。
社交界のパーティーでは誰一人見せないそれは生々しくて、悲しい。
「絵だって、もう」
白くなった唇の周囲が見えぬ血に塗れているような気がして。
――言わせてはいけない。
衝動のままにグラディスは親子の会話に口を挟んだ。
「……お義母様! この方はヴィンセント様です、きっとお疲れなのです。あちらでお茶にしましょう」
グラディスは床を強く蹴ると、子爵夫人をヴィンセントから引き離して部屋から離れる。
「ああそうね、ヴィンセントだったわね。アーロンはもういないのよ……」
「何かご事情があるのでしょう。お戻りになります」
背中にヴィンセントからの視線を感じる。けれどもし子爵夫人がいなくともきっと、振り返ることはできないだろうと、グラディスは思った。
***
「――これ以上哀れむなよ」
寝室のベッドに身を投げ出したヴィンセントは顔を腕で覆っていた。グラディスはサイドテーブルに温かいお茶を二杯用意し、傍らにチョコレートを置く。着付けにはよくウィスキーが用いられるが、彼が社交が苦手な理由の一つは、お酒に弱いからだ。
「哀れんで……そうですか、分かりましたか」
「兄用の婚礼衣装を着て兄の代わりに結婚式をして、兄用の寝室で待っているのは兄に向けて用意された夜着を着た、兄の花嫁。
確かにうんざりだったが……母に関しては、時間もないから仕方ないと放っておいたら、症状が悪化して……ついに兄さんとの混同をはじめたってだけだ」
「放って、ではなくて、我慢でしょう。契約の外のことは、違法でもないことは、主張しなければ削られていくものです」
「……俺はむしろ、お前の方を哀れんでたんだ。一度も反抗するって考えも思い付かないような」
「哀れな生け贄の子羊?」
「羊は王都の人間が考えるような、大人しい生き物じゃないぞ……」
ヴィンセントが腕をどけると、不満げな顔が見えた。
「気性が荒い種もいる。田舎の人間だって無知で法律に縛られてるんじゃない。知っていたって狡猾で豊かな都会の人間が決めたことに囲われることもあるし、かと思えば身分なんて、殴られてるときは役に立たない」
「殴られたんですか?」
「……喧嘩はした。あれは俺が悪かった」
「素直ですね」
思えば、あの契約書を奪い取って燃やさずにいた、良い意味でも悪い意味でも、隠しごとはあっても向けられる発言に含みがない。変に勘ぐらなくてもいい――そういえば、アーロン相手の時は常に真意を探っていた。
グラディスは目を瞬かせると、寝転がる彼の側に腰掛けた。
「とにかく最初、俺はお前の方が哀れだと思ってた。政略結婚に振り回されるだけな哀れな女の身の上だと」
「……違いましたか?」
「まず、わざわざ契約書を作って身を守った。次に契約書の中身が不利すぎる――俺に少なくない時間を割き勉強を教えて、お前にどんな得がある?」
「あなたから幾らかのお金をいただくときに、払ってもらうものがなくては困りますから」
「それにすぐに兄が戻ってくるならともかく、何年もここにいて子もできなかったら、悪評が立つ。いくら兄だって……再婚の見込みはないんじゃないか」
「再婚できなかったらそれはそれで、家業を手伝えばいいと思っています。私がバセットとの繋がりを強固なものにして、無視できないくらいのものにして」
「兄が戻ってくると信じているか」
「さあ、どうでしょう? 自分だけ助かればいい、と考える人ではないと思いますが……」
グラディスはメモを取り出すと、さらさらと劇団名と演目を描いた。
「例の劇団の公演が終わるのは今月下旬だそうです。その後何らかの接触があるのではと思っていますが」
「そうか……ぶはっ、なんだこれ、踏まれたパンか?」
ヴィンセントは劇団名「セーラス」の演目『嘘つきな羊飼いと三匹の狼』を描いた絵を見て、吹き出した。棒を持ったほぼ棒人間の下を指さしている。
犬のつもりで描いたが、潰れたパンのように見えなくも……ない。
「羊飼いの犬です。……そんなにおかしいですか……もう少し上手く描ければ、仕事でも図面を描いたり、意思疎通が簡単なのにとよく思います」
「……いや、うん。……笑ったのは悪かった」
そう言いながらもまだ口元が笑っている。それが素なのだろうか、無防備でどきりとした。
「お前にも欠点があったんだな」
「私だって人間ですよ。アーロン様にだってありました。誰にも相談せずに決めてしまうところとか――」
「……グラディス、兄が申し訳ないことをした」
笑いを収めたヴィンセントは起き上がると、目を伏せる。
「ヴィンセント様のせいではありません」
グラディスは即座に否定する。
「私とアーロン様の婚約はちゃんと書類になって……契約書は責任の所在をはっきりさせるためのもので、アーロン様の瑕疵が100%。そこにヴィンセント様の名前はありません」
「……ありがとう。……せっかく淹れてくれたんだ、茶でも飲むか」
「淹れ直しますか」
「実は猫舌なんだ」
嘘を言っている風でもなく彼が椅子に移ったので、グラディスもまた向かいに座る。
いつの間にか彼がいつもまとっている、緊張した空気が緩んだようだった。チョコレートを摘まむ様子を眺めながらバセット家に平穏をもたらすための計画を急いで思案し、提案した。
シャムロックは王都の中心部で老舗のデパートを経営している。貴族が商売なんてと蔑まれがちだが、古くからの
グラディスは支店裏手にある小さな倉庫の鍵を開けると、ここはしばらく空ですから、とヴィンセントを案内する。
倉庫スペースの奥に事務作業用の机もある。窓が少ないおかげで日当たりは良くないが、屋敷のギャラリーに似た雰囲気があった。
「この部屋をシャムロック……いえ、私から、ヴィンセント様個人が借りませんか。水道電気も通っていますし、ここに絵を移しませんか」
貴族は数多の人々に仕えられるかわりに、私室にも寝室にも、掃除が入る。どこにでも人の目があり、口は止められない。
グラディスも侍女が手伝う身支度や毎日の手洗いの様子への注視が、日毎に強まっていると感じていた。頻繁に寝室を共にしているくせに、子を授かる気配がないのだ。
義母はますます不安定になるだろう。医師にかかるようさりげなく勧め、ヴィンセントもエディも同意してくれたが、本人には拒否されていた。子爵は相変らず黙ったままだ。
「俺にはそんなことをしてもらう理由がない」
「ただの賃貸契約です。理由があるとすれば……今ヴィンセント様に倒れられては困ります」
眉をひそめていぶかしそうにしていた彼は、机の上に目を留めた。
「……ちょっと待て、提案してるくせに、もう画材があるんだが」
「ヴィンセント様が馬車で買い物に寄れば、お義母様に誰かが告げるでしょう。シャムロックには私と親しい侍女や使用人がいますから……今のところ手紙までは監視されてません」
「理由になってないぞ。まあ、いいか」
机の上に置かれた真新しい絵の具の表面をなぞっていたヴィンセントは、鉛筆を取ると側にあった小刀で器用に削っていった。
新しいスケッチブックを開き、何事かさらさらと描いていく。あっという間に完成させ見せられれば、絵の具箱の外装だった。
「……すごい、そっくり」
「いい紙だな」
一枚めくり、二枚目に着手する。楽しげに動く鉛筆と、紙とグラディスを行ったり来たりする目線に、
「どうぞ離婚後も、シャムロックをごひいきに」
と微笑めば顔が紙から上がり、初めて微笑が返ってきた。
「お前も相当誤解されやすい性格だな。あの面倒くさい兄さんが惚れるのも分かる気がする」
「……それはないですが」
「契約が終わっても、兄さんが帰って来るまではちゃんと守ってやる。もし兄さんをぶん殴りたいなら、それも味方してやる」
「そこまでお世話になるわけには」
「家族は、怒りたいときは怒れる関係の方がいい」
ヴィンセントの穏やかな声とは裏腹に、その目は何かを見据えていた。
きっと自身では知らない経緯がバセット家の中にはあるのだろう――そうグラディスは想像しつつも、鉛筆を握るペンだこのできた指が、昨日より頼もしく思えた。
***
「――グラディスさん、またお茶会なの?」
あれからしばらくは、表面上は平穏な日々が過ぎた。
バセット家では、朝食は各自の寝室で取っている。しかし昼間は男性陣は不在で、特に用がなければ、夫人と、執事や家政婦と共に来客の対応や細々とした作業をすることになっていた。
「……ヴィンセント様が手がけられたカーペットと、シャムロックで仕入れた、転写磁器の新柄の売り込みを兼ねていまして」
「ええ、もう。それはよく分かってるわ。あんなに不出来だったヴィンセントも契約を取ってこれるようになったのよ。それもあなたのおかげだわ。
でも夜遅かったら夕食に間に合わないでしょう。今日はほら、あなたの好きな子羊のシチューだし。きちんと食べないとほら体力が付かないでしょう?」
最近の小食は、屋敷では食欲が湧かないせいだ。長く食卓を共にしたくない。
最近天気が悪いからでしょうかと、曖昧な笑顔で頷く。
子爵夫人の書斎の机上には、王都の屋敷と、領地から上がってくる報告書が山積みだ。給与に備品に消耗品、食料の収支を確認するだけでも一仕事。
子爵夫人は夫がすべき分――壊れた橋の修繕費用捻出、病が流行れば医者手配など――もテキパキとこなしている。
結婚前から仕事面では尊敬していたが、この有能さがおしゃべりの余裕を生んでいると思うと複雑だった。それに最近では、あえて仕事を夫から奪っている節があった。
「いえねえ、責めているんじゃないのよ。夫は以前から王都の喧噪が嫌いで……領地に帰りたいって聞かないものだから。私も帰らないわけにいかないでしょう? そうなったら二人を置いていくのも心配だから」
「安心して任せていただけるよう、努力いたします」
夫人はどちらかと言えば、領地が嫌いなはずだ。
声に不穏なものが混じらないか注意しつつ続きを待つと、ひどくにこやかな笑顔が向けられた。
「じゃあ期待していいのね? ……やっぱり女の子がいいわね」
「……はい……あの?」
「女の子がいいわ、女の子は裏切らないもの」
美しくにこやかな笑顔は不自然なほどで、グラディスの背筋を冷たいものが滑り落ちる。
「グラディスさんが、捨ててくれたんでしょう?」
「何をでしょうか」
「あのギャラリーに残ってた、ヴィンセントのスケッチブックが幾つかね。昨夜のうちにあそこにあった絵は、全部捨てさせたのよ」
「……子爵は」
「あの人は私のすることに興味がないの。女性にとって政略結婚は、相手が誰でも辛いものよ。特に妻子がいるという体面のために、お金で買われた結婚はね。簡単に約束を破るのに、こちらには破らせないの」
にこやかに、朗らかに。その声にぞくりと怖気が走ると同時に手を取られてひんやりと冷たい感触に驚く。
それでもグラディスは脳裏にあの商売には不向きな、馬鹿正直な仮初めの夫の姿を思い出し、名誉のために反論をする。
無視というなら、義母は長い間、彼を傷付けてきたのではないか。アーロンと比較して、グラディスに指導させ、彼に慰められながら兄の名を呼び……。
「あの、私は……ヴィンセント様は……良くしてくださいます」
「アーロンはあなたを置いていったでしょう」
「……はい。ですが、アーロン様とヴィンセント様は違う人間です。あの方は私を……無言では、置いていかないでしょう」
途端に場の空気が――執事と家政婦の表情が硬くなったのを察するが、言ってしまって正直すっきりしていた。
それなのに。
「……じゃあやっぱり、子供ができなかったのは神の思し召しね。あなただって、帰って来るならアーロンがいいわよね。あなたは我が家の次期当主の嫁として迎えたんだから」
「……お義母様?」
戸惑って周囲を伺うと、執事が口を開いた。
「アーロン様をお見かけしたという者がいます。王都に戻っていらっしゃったのかと。現在、屋敷の使用人が捜索に当たっております」
「そうなのよ。アーロンが帰ってきたらお祝いをしましょう。それから爵位の手続きをして夫を子爵から解放してあげるの。新婚旅行はどこがいい?」
……自身は解放されるだろう、と思っていたグラディスはこみ上げる何かに震える腕を押さえた。
ぐちゃぐちゃの論理展開に彼女は気付いていない――というより、彼女の中では筋が通っているのだろう。けれど、何より嫌だったのは。
「ヴィンセント様のお気持ちはどうなりますか?」
「今まで通りに戻るだけよ」
何故今まで気づけなかったのだろう――グラディスは子爵夫人の美しい睫毛に彩られた目に映るものが、彼女の空想であると知った。
そして同時に、ヴィンセントではなく、自分の気持ちも。
アーロンにどんな事情があろうが、裏切ったことを、全てを押しつけて消えたことを――状況を受け入れたとして、怒っていいのだ。
帰って来ることを、お祝いする気にはなれない。
そして今はもう、アーロンの前にあの夜着で立つことはできない。エスコートされた時の細くしなやかな指にときめきは感じない。
「元には戻りません」
「グラディスさん?」
「元には戻りません――人の気持ちも、苦しんだ記憶も」
見据えて言えば、ふと、子爵夫人は正気に戻ったように目を伏せる。
「……そうよ。でも直視して生きられる強い人間ばかりではないの」
子爵夫人は弱い方なのですか。
そう尋ねようとしたときに、けたたましく扉がノックされたかと思うと
「アーロン様からお手紙が届きました」
「アーロンが!」
トレイに飛びついた子爵夫人は手紙を開き、素早く目を通した。
「――今夜、アーロンが帰ってくるわ!」