王宮での審議において、シルフィーネは自分への一方的な非難を覆し、グラント侯爵家――とりわけライオネルが「婚約破棄の責任をすり替えようとしている」という事実を、かなり鮮明に示すことに成功した。一見すると、これで事態はエルフィンベルク家に有利に進展しそうにも思えた。
しかし、あの審議が終わった直後、アメリアの口から放たれた毒の囁き――「あなたなんかすぐに奈落の底に落としてあげる」という言葉が、シルフィーネの胸中に不穏な影を落としていた。
さらに、ライオネルとアメリアの背後には、国王の弟であるロドリゲス公爵が存在する。王宮内でも権勢をふるい、密かに王位継承へ向けた策謀を巡らせているという噂の絶えない人物だ。公には「審議を公正に取り仕切る」という立場であっても、実のところはライオネルを支持し、エルフィンベルク家を牽制しようとしているのではないか――そんな疑惑が、シルフィーネやその両親、法務顧問ラグナルたちの頭を離れない。
それでも、シルフィーネはくじけなかった。婚約破棄を巡る審議はまだ続く見込みであり、次の判断が下されるまでに、できる限り多くの「証拠」や「証言」を積み重ねておかねばならない。ライオネルたちが今後どんな手段を使ってくるのか分からない以上、防御を固めるだけでなく、相手の弱点を探り当てる必要がある。そう――ローゼリック伯爵家の闇を暴くことも、その一つの糸口になり得るはずだ。
***
1.暗躍する者たち
審議の翌日の朝。エルフィンベルク公爵家の執務室では、当主であるルドルフ公爵と公爵夫人マリア、そしてシルフィーネが顔をそろえていた。ラグナルや彼の助手たちは既に情報収集や関係者との面会に奔走している。
窓から差し込む初夏の日差しが柔らかく、白い大理石の床や壁紙を明るく照らしているが、部屋に漂う空気は重苦しかった。机の上には、前日の審議で交わされた記録や、これまでに集めた証拠の写し、さらにはローゼリック家周辺の情報が書き連ねられたメモが散乱している。
「……どうやら、あの審議だけでライオネルたちを追い詰めるのは難しいわね」
マリア夫人が苦々しく口を開く。実際、王宮の高官たちや評定官の反応を見ても、「ライオネル側の主張には疑問がある」という意識は芽生えたものの、「すぐにライオネルを断罪し、エルフィンベルク家に賠償を支払わせる」とまでは踏み込まなかった。
それだけロドリゲス公爵の存在が大きいのだろうと、ルドルフ公爵は睨んでいる。
「陛下は表立って関与してこないようだが……その代わり、ロドリゲス公爵が裏で動いている以上、こちらも一筋縄ではいかない。エルフィンベルク家とて、王家には刃向かえんからな」
「そうですね……。実際、昨日の審議ではいくつかこちらに有利な証言を得られたとはいえ、決定打には至りませんでした。ライオネル様の“子供は嫌だ”という発言の真意がどうであれ、最終的な判断を下すのは王家側。私たちが強引に押し切ることはできない」
シルフィーネは、そう言いながらも決して諦めた様子を見せない。その瞳は鋭く、昨日までの疲れを感じさせないほどの意志が宿っていた。そもそも、彼女が婚約破棄された立場でありながら、まるで「攻める側」かのように奮闘しているのは、ひとえに“誇り”と“怒り”が根底にあるからだ。
――幼いと侮られ、踏みにじられたまま泣き寝入りするなんて、絶対に嫌。自分の人生だけでなく、公爵家の名誉がかかっているのだから、なおさら放っておけない。
「ラグナル顧問の調査が進み次第、何らかの糸口が得られるかもしれませんわ。アメリアやローゼリック家の不透明な資金源……もし、それが違法な形で得たものであれば、ライオネルも共犯として裁かれる可能性が出てきますもの」
マリア夫人も、娘の言葉にうなずく。ここ数日で集まった断片的な情報によれば、ローゼリック家は闇商人との取引を経て高額の借金を抱えていた時期があるとされる。しかし、最近になって急激に返済が進み、なおかつアメリアが社交界で浪費を繰り返している。その原資を探れば、何らかの不正が浮上するはずだ。
「こちらは全面的にラグナル顧問に任せるとして……シルフィーネ、お前はどうする。今はまだ表立った動きは少ない方がいいんじゃないか?」
ルドルフ公爵が娘の動向を問う。仮にも十六歳の少女を、大人たちの政争や陰謀の最前線に立たせることへ、一抹の不安がないわけではない。
だが、シルフィーネは少し考え込んだあと、毅然として答えた。
「父様、むしろ私だからこそ動ける範囲もあると思うのです。ライオネル様が“私を子供扱い”するように、周囲もまだ私を大人の競争相手とは見なしていないフシがあります。だから、下手に警戒されず、情報を引き出せるかもしれません」
「なるほど……そういう考えもあるか」
「それに、あのアメリア様は私を非常に敵視しているから、何か仕掛けてくる可能性も高い。そういう動きは、いっそ私の方が察知しやすいと思うんです。あるいは逆手に取って、証拠を掴むこともできるかもしれません」
ルドルフ公爵は娘の言葉を聞き、しばし考え込む。するとマリア夫人が、宥(なだ)めるように微笑みながら口を挟んだ。
「公の場に出る時は、私たちも一緒に行くわ。あなた一人を危険な目には遭わせられないもの。ただ、確かにシルフィーネが中心となって情報を引き出せるのであれば、それも悪くない。アメリアはあなたにわざわざ“嫌がらせ”をしようと近づいてくるでしょうし、その中でボロを出す可能性もあるわね」
「はい、母様。もちろん、無謀なことはしないように気をつけます。何かあれば、すぐに父様と母様に相談しますから」
こうして、シルフィーネが積極的に表舞台に立ち、ライオネルやアメリアたちの動向を探ることが決まった。公爵家の名誉とシルフィーネの安全を両立させるためには、周到な準備と周囲の支援が欠かせない。
まだ具体的にどんな手を打てるか分からないが、彼女の決意は固い。どれほど幼い外見と侮られようとも、冷静な頭脳と意志の強さで勝負してやる――そう心に誓いながら、シルフィーネは執務室を後にした。
***
2.再会と微かな亀裂
それから数日後の昼下がり。王都の貴族街にある豪奢な屋敷の一つで、アメリアが主催するお茶会が開かれるという噂が広まった。招待状を受け取った貴族令嬢たちの中には、招かれたところで何をされるか分からないと怖れる者もいたが、社交界に名を連ねる以上、主催者を無視できないという考えの者も少なくない。
実は、その招待状はシルフィーネにも届いていた。しかも、まるで「わざわざ子供を招いてあげるわ」と言わんばかりの、高慢な文面が記されていたという。明らかな挑発である。しかし、公爵家としては、これを無視するかどうか悩ましいところだった。
「どう考えても、わざわざ私を呼んで、何かしようとしているとしか思えませんわ」
シルフィーネは自室で招待状を広げながら、苦笑交じりに言う。そこには金文字で彼女の名が刻まれている。日時は三日後の午後、場所はローゼリック伯爵家の離れだという。
ちなみに、離れというのは庭を挟んだ場所に建てられた小ぶりな洋館で、アメリアの私室もあるらしい。わざわざそこを使うお茶会というだけで、企みの匂いが漂う。
「行かない方がいいのでは……と、個人的には思いますけれど」
傍らに立つフロランス夫人が、心配そうに声をかける。彼女はシルフィーネが幼い頃から世話をしてきた乳母であり、娘同然に慕っている。先日の審議の様子や、アメリアの明らかな敵意を見れば、危険しか感じないというのも無理はない。
しかし、シルフィーネはわずかに困ったような笑みを浮かべた。
「ええ、私もあまり行きたいとは思わないのです。でも、公の場で招待を断れば、あちらに“エルフィンベルク家はやましいことがあるのでは”と吹聴される可能性もあります。何より、あのアメリア様がおとなしく私を招くなんて、きっと裏がある。むしろ好都合かもしれません」
別の言い方をすれば、アメリアが仕掛けてくるからこそ、その場で証拠を掴むチャンスがあるかもしれない、というわけだ。それに、エルフィンベルク家は公的な審議で有利に立ちかけているとはいえ、まだ決着には遠い。むしろ今こそ、敵を観察しに行く機会でもある。
もちろん、無防備に乗り込めば危険がつきまとうが、ルドルフ公爵とマリア夫人も、この誘いを利用すべきだと慎重に検討した結果、「護衛をつけつつ、シルフィーネを参加させる」という方針を決めた。
(アメリア様が、私に何を仕掛けるのか……それとも、ただの嫌がらせかしら。どちらにしても、相手の出方を見極める大切な場になるはず)
シルフィーネは、そう決意を新たにしながら、胸元で招待状をそっと握りしめるのだった。
***
三日後の昼過ぎ。ローゼリック伯爵家の離れで催されるお茶会には、十数名の貴族令嬢が集まると見られていた。最初はシルフィーネを含めて数名しか招かれない予定だったが、アメリアが後になって「もっと多くの方々にも楽しんでいただきたい」と追加で招待を広げたのだという。
しかし、それが果たして“好意”によるものなのか、それとも“より多くの目撃者を呼び集める”意図なのかは、誰にも分からない。
エルフィンベルク公爵家からはシルフィーネと、その護衛として数名の騎士が同行した。ただし、表向きには「公爵令嬢の付き人」という形で、あまり目立たないように手配されている。フロランス夫人も自ら従者として付き添いたいと申し出たが、今回は「大人たちが同行すると、お茶会の雰囲気が壊れてしまう」というアメリア側の(もっともらしい)言い分により断られていた。
それでも、シルフィーネは淡い薄紫色のドレスに身を包み、髪をゆるやかに結い上げて気品を漂わせている。その幼い外見からは想像しにくいほど、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「さあ、お入りくださいませ。アメリアお嬢様がお待ちですわ」
扉を開けてシルフィーネを出迎えたのは、ローゼリック伯爵家の女中頭らしき初老の女性だった。顔には笑みを浮かべているが、目はどこか警戒しているようでもある。
離れの中へ足を踏み入れると、すぐに広いサロンのような部屋が目に入る。天井は高く、壁には淡い花柄のクロスが貼られており、豪奢なシャンデリアが輝いている。中央には丸いテーブルがいくつも並べられ、菓子や果物、紅茶セットが所狭しと並んでいた。既に何人もの貴族令嬢が談笑を始めており、その華やかな姿は一見すると和やかなお茶会の景色そのものだ。
「ごきげんよう、シルフィーネ様。ようこそお越しくださいましたわ」
不意に、艶のある声が聞こえた。サロンの奥で、アメリア・フォン・ローゼリックがシルフィーネを迎えるように立っている。やわらかな若草色のドレスを身にまとい、胸元には大粒の宝石がきらめいている。彼女は微笑みを浮かべながらも、その目は一瞬だけ冷酷な光を帯びた。
「こんにちは、アメリア様。ご招待いただきありがとうございます」
シルフィーネも笑みを返しながら、ごく自然に会釈する。その礼儀正しい振る舞いに、周囲の令嬢たちは「やっぱりエルフィンベルク家のお嬢様はしっかりしているわね」と小声で囁き合う。だが、アメリアにしてみれば、それが余計に面白くないのだろう――微かな苛立ちを隠すように、グラスを手に取りシャンパンを一口含んだ。
「あなたが来てくれたことを嬉しく思いますわ。あの審議で嫌な思いをしたでしょう? 少しでも気分転換になればいいのだけれど……子供にとっては、こういう場も退屈かしら?」
まるで悪意を塗した棘のある言葉。しかし、シルフィーネは軽く微笑んだまま、「いいえ、私はこうした社交の場が大好きです」とさらりと受け流す。
アメリアはその態度にまたも不快げに目を細めたが、すぐに上機嫌を装い、「そう、なら楽しんでちょうだいな」と言い残して他の令嬢たちの輪へと姿を消した。
(やはり……あれほど敵意をむき出しにしていたというのに、こういう場では笑顔を繕うのね。もっとも、貴族社会ではそれが当たり前か)
シルフィーネは心の中でそう呟きつつ、部屋の隅に目を向ける。そこには数名の若い娘たちが集まっており、その中には彼女の友人リヴィアの姿も見える。リヴィアはシルフィーネの来訪に気づくと、そっと手を振って合図してきた。
「シルフィーネ、こっちへどうぞ。あなたが来てくれて嬉しいわ」
「リヴィア、あなたも招かれていたのね。挨拶が遅くなってごめんなさい」
リヴィアは侯爵家の令嬢であり、以前の王宮での審議の際にもシルフィーネを擁護してくれた友人だ。彼女のそばにいるのは、同世代の貴族令嬢たち数名で、皆アメリアとの間に特別な親交があるわけではないらしい。
シルフィーネはテーブルに案内され、香りの良い紅茶を注がれる。周囲からは、お茶やお菓子を楽しむように見えるが、彼女の耳には様々な噂や会話が飛び込んでくる。
「ねえ、あのアメリア様って最近すごく金回りがいいらしいわ。ローゼリック伯爵家って借金まみれだったはずなのに、不思議よね」
「それに、グラント侯爵家のライオネル様との結婚の話もあるでしょう? あれ、本当に正式に決まるのかしら。審議がどうのとか、色々噂が絶えないけど」
「でも、王族の甥であるライオネル様が後ろ盾になれば、ローゼリック家の借金問題なんて朝飯前じゃない? 実際、国王の弟ロドリゲス公爵も絡んでいるって聞くし……」
気配を殺して耳を澄ませば、こうした話題があちこちで交わされている。シルフィーネにとっては、まさに欲しかった情報の一端でもある。まだ具体的な証拠にはならないが、やはり多くの人々がアメリアとライオネルの金銭関係を疑問視していることが分かる。
――貴族社会は疑心暗鬼の温床であり、誰もが誰かを探り合う。だからこそ、ここで確たる証拠を押さえれば、一気に流れを変えられるのだ。
しばらくして、アメリアが中央のテーブルに戻ってきた。グラスを軽く鳴らして周囲の注意を引きつけると、満面の笑みでこう告げる。
「皆様、本日は私のお茶会にお越しいただきありがとうございます。せっかくですから、少し趣向を凝らしたゲームでも楽しみませんこと?」
パチパチと小さな拍手が起こる。アメリアは続けて、テーブルに用意された木製の箱を開くと、中から数枚の紙を取り出した。
「これは“お題カード”と呼ばれるものでして、書かれたトピックについて自由に語り合うゲームです。皆さんでカードを引き合い、それに書かれたお題に沿ってお話をするだけ。とっても簡単でしょう?」
どうやら、カードゲームのようなものらしい。一見すると harmless(無害)だが、社交界の「お題トーク」は、時に当人の秘密を暴き合うきっかけにもなる。アメリアは、それを狙っているのかもしれない。
シルフィーネは、リヴィアと顔を見合わせながら「嫌な予感がするわね……」と目で語り合ったが、周囲の令嬢たちは面白半分に「やってみたい」と盛り上がり始めている。今さら断るのも難しいだろう。
「では早速、皆様が一枚ずつカードを引いてください。それを読んだら、思いつくことを遠慮なく話すの。秘密の暴露でも、愚痴でも、妄想でも大歓迎ですわ。もちろん、守秘義務はありませんから、誰かが面白い話をしてくれたら皆で共有してしまいましょう♪」
最後の一言には、明らかな悪意が滲んでいる。つまり「ここで何かを話したら、すぐに噂として広まるわよ」という警告でもあるのだ。
一人ずつカードを引いていくと、恋愛の話、趣味の話、将来の夢など、無難なお題が出る場合もあれば、「ここだけの秘密を白状して」「嫌いな人を挙げて理由を述べて」など、際どいものも含まれている。
無論、まともな貴族令嬢であれば、あまりに露骨な秘密を晒す真似はしない。うまく話をぼかしてやり過ごすか、あるいは盛り上げる程度に巧みに本音を交えるか――それも一種の社交スキルだ。
ほどなくして、シルフィーネの番が回ってきた。彼女は慎重にカードの束から一枚を引き、「何が書かれているのかしら……」と内心で身構えながら読んでみる。
すると、そこにはこんな一文があった。
――“もし一つだけ嘘をついていいなら、誰に何を隠したい?”――
一見すると抽象的なお題だが、社交界の文脈で考えれば、かなり危険な質問でもある。ここでうっかり大きな秘密を匂わせると、根掘り葉掘り詮索される恐れがある。シルフィーネは冷静に頭を回転させながら、どう答えるべきか思案した。
「あら、面白そうなお題ね。さあ、シルフィーネ様、教えてくださらない? あなたは“誰に何を隠したい”のかしら?」
アメリアがわざとらしく身を乗り出してくる。周囲の視線も、「エルフィンベルク家の令嬢は何を言うのだろう」と好奇心に満ちていた。
シルフィーネは、カードを脇に置き、軽く息を吐いてからゆっくりと口を開く。
「そうですね……もし“一つだけ嘘をついていい”なら――私は“自分が抱えている不安や弱さ”を、好きな人に隠したいかもしれません」
そう言って微笑むシルフィーネの表情は、あえて曖昧に感情を混ぜ合わせたような仕草だ。誰がその“好きな人”なのかを具体的に名指しせず、「あくまで一般論」と受け取れる答え方をしている。
ところが、周囲の一部は「もしかして、それはライオネル様のこと?」と勘繰る者もいれば、「意外とロマンチストなのね」と微笑ましく受け止める者もいる。思惑は様々だが、少なくとも「家の大きな秘密を隠している」とは解釈されにくい。
「なるほどね。シルフィーネ様らしい答えだわ。けれど、本当にそれだけ?」
アメリアはまだ追及の手を緩めない。まるで「本当はもっと大きな嘘、もしくは秘密があるのでは?」と煽るような言い方だ。
シルフィーネは内心で苦笑する。まさか“ローゼリック伯爵家の不正を暴こうとしていること”を、ここで晒すわけにもいかないし、そもそも「私は幼く見える外見を嘘で隠したいの」なんて言う気もない。
だからこそ彼女は、さらに言葉を付け足した。
「人は皆、多かれ少なかれ“不安”や“弱さ”を抱えていると思います。私もまだ若く、至らないところだらけなので……できれば、それを悟られずに過ごしたいのです。嘘をつくことは良いことではありませんが、時には自分を守るための手段になるかもしれませんから」
この言葉に、「確かにそうね」と納得の声を上げる令嬢たちもいれば、「まだ十六歳だもの、仕方ないわね」と微笑ましく見る者もいる。アメリアが狙ったほどの波紋は起きない。むしろ、シルフィーネの飾らない言葉に共感する者も出始めるほどだ。
(この程度の挑発なら、容易く乗り越えられる。アメリア様、もっと直接的な手を使ってくるかしら?)
シルフィーネがそんなふうに構えていると、今度はアメリア自身がカードを引き、「私の番ね」と挑むように宣言した。そこには――
――“今、一番消えてほしいと思う存在は?”――
という、より直球なお題が書かれていた。普通の貴族令嬢なら「こんなの答えられないわ」と困惑するか、「特にいません」とお茶を濁すだろう。だが、アメリアは違った。
彼女は唇を歪めて微笑み、わざと意味深な視線をシルフィーネへ送りながら、小首を傾げる。
「そうねえ……消えてほしい存在、ですって? 私にとっては、やっぱり“子供じみた女の子”かしら。人前では猫を被っているくせに、裏では他人の大切なものを奪おうとする、そんな幼稚な存在は邪魔でしかないわ」
確実にシルフィーネを指していると分かる言い回し。しかし、アメリアはあえて名前を出さない。周囲の令嬢たちも、その場の空気を読んで「これはシルフィーネ様のことを言っているのでは……」と察しながらも、直接には口を挟めない。
静まりかえる空間の中で、アメリアは続ける。
「でも、まあ……私が本気になれば、そんな子供っぽい存在はいつだって排除できるの。だから、あえて“消えてほしい”なんて思わないようにしているわ。だって、面白くないですもの。あっさり消えてもらったら、私が退屈でしょう?」
その言葉には、ゾッとするほどの悪意が満ちていた。まるで「いつでも殺せる獲物を楽しむ捕食者」のような冷酷さ。これまでの「貴族らしい優雅さ」をかなぐり捨て、全員の前で暗にシルフィーネを威嚇しているのだ。
当然、シルフィーネの友人リヴィアなどは「アメリア様、それはいくらなんでも……」と口をはさもうとするが、アメリアは彼女を睨みつけ、「あら、気に障ったかしら?」と嘲笑する。誰もが息を呑み、この場の不穏な空気に呑まれそうになる。
(さすがに、ここまで直接的に敵意を向けられるとは思わなかったわ。でも、だからこそ、チャンスでもあるかもしれない)
シルフィーネは深呼吸をし、ぐっと心を落ち着かせる。そして、可憐な笑みを浮かべたまま、あくまで冷静に応じた。
「そう……確かに、あなたがおっしゃるように、“子供じみた存在”は鬱陶しいかもしれませんね。でも、人は誰しも未熟だった時期があります。大人だと思っていても、心の内側は幼いままかもしれませんし」
「何が言いたいの?」
「私もまだ子供と呼ばれる年齢ですから、未熟な部分は多いでしょう。でも、それを理由に侮るのは得策ではないと思います。誰がいつ、どんな形で成長するか分かりませんから」
これは遠回しな“警告”だ。アメリアにははっきり伝えないが、「子供だと侮っていると痛い目を見るかもしれないわよ」と示唆している。周囲の令嬢たちも、この微妙なやり取りに気づき、「まさか、シルフィーネ様がこんなに毅然と返すなんて……」と驚きを隠せない。
だが、アメリアは「ふん」と鼻を鳴らして、すぐに座を立った。どうやら、あまり長引かせるつもりはないらしい。
「まあ、いいわ。さっきも言ったけれど、退屈しのぎにはなってちょうだい。あなたのその生意気なところ、いつまで続くかしらね」
そう言い残すと、アメリアは取り巻きの侍女を引き連れ、別室へと去っていく。後には微妙な空気が残り、他の令嬢たちが口々に「す、すごい迫力……」「いったいどうなってしまうの……」と怖気づいていた。
シルフィーネは手のひらにじんわりと汗が滲んでいるのを感じる。緊張していないといえば嘘になる。しかし、こうして正面から挑発されても、毅然と受け返せたのは大きな収穫でもあった。
(アメリア様、やっぱりどう考えても私を潰す気だわ。でも、どうやって? もし裏で危ない手段を使っているなら……そこにつけ込む隙があるはず)
そう自問していると、ふと視線の端に「アメリアの侍女の一人」が映った。どこかうろたえた様子で、廊下の奥へ駆けて行くようにも見える。何やら急いでいるのか、キョロキョロと周囲を見回しながら、厳重に扉を閉めて別の部屋に入っていった。
シルフィーネの勘が「何かある」と告げていた。ここで下手に追いかけるのは危険かもしれないが、状況を探るチャンスかもしれない。部屋から出ることが許されるかどうか――お茶会の最中だが、幸い参加者たちは今の一件で重苦しい雰囲気に包まれ、「帰り支度」を始めたり、「一息つこう」と席を立ったりする姿が目立ち始めている。
シルフィーネは友人リヴィアに軽く声をかけ、用事があるフリをして席を外すことにした。
「リヴィア、少し疲れてしまったわ。外の空気でも吸ってくるから、先に帰っていてちょうだい」
「でも、一人で大丈夫? 本当に嫌な予感がするのだけれど……」
「平気よ。すぐ戻るから」
リヴィアは渋々うなずき、ほかの令嬢たちと連れ立って退出していく。残ったシルフィーネは、部屋の隅に控えている自前の護衛――“侍女の姿をした女騎士”――と視線を交わし、最低限の安全を確保できるようにしつつ、さきほどの侍女が消えた廊下へと足を向ける。
ローゼリック伯爵家の離れは、それほど広大というわけではないが、廊下が入り組んでおり、部屋の配置が複雑だ。気を抜けば迷いそうになるほど。
慎重に足を進めると、奥まった場所にある扉の前で、先ほどの侍女らしき人影がうろうろしているのが見えた。鍵を手にしてドアを開けようとしているのか、カチャカチャと音がしている。
(あの部屋に何が……?)
シルフィーネは壁際に身を寄せながら息を潜め、相手の動向を伺った。すると、侍女は周囲に人影がないことを確認すると、素早くドアを開けて室内に滑り込んでいく。
チャンスだ。シルフィーネはそっと近づき、扉が閉まる寸前にわずかな隙間を残して手を添える。扉が完全に閉まるのを阻止し、中を覗ける程度の隙間を作ることに成功した。
そして目に飛び込んできたのは――意外にも広々とした書庫のような部屋。棚が壁一面に設置され、様々な本や書類がぎっしり詰まっている。
侍女は部屋の中央にある机へ歩み寄り、何やら大きな帳簿のようなものを開いている。その表情は真剣そのもので、ひどく焦燥感が漂っていた。どうやら、その帳簿から特定のページを破り取ろうとしているように見える。
(あれは……ローゼリック伯爵家の“財務関係の記録”か何かかしら。もしかして、消したい証拠がある?)
シルフィーネの心臓が高鳴った。まさに、彼女たちが追い求めている証拠を処分しようとしている場面に遭遇した可能性が高い。ここで声をかけて拘束すれば、何かしらの資料を確保できるかもしれない。
だが、いきなり「何をしているの?」と問い詰めるのは危険だ。相手が大声を出して逃げたり、書類を破り捨ててしまうかもしれない。最低限、あの書類に何が書かれているのかを確認する術はないのだろうか……。
(護衛の騎士に突入してもらうべきか、それとも、私が先に近づいて話しかけるか……)
シルフィーネが逡巡している間にも、侍女は一心不乱にページを探し、開いた箇所から何かを破り取ろうとしている。心なしか、その紙には細かな数字や人名らしきものが書かれているようだが、遠目では判読しづらい。
しかし、思案の猶予はほとんどなかった。次の瞬間、侍女が破り取った書類を掴み、懐に押し込もうとしたのだ。
シルフィーネは咄嗟に決断し、廊下に控えていた護衛(女騎士)に目配せを送る。合図を受け取った護衛は、物音を立てないよう素早く扉の陰に回り込み、いつでも制圧に動ける体勢を取った。
そしてシルフィーネ自身は、あえて少し大きめの足音を立てて廊下を歩き始めた。わざと存在をアピールすることで、相手が慌てて書類を落とす可能性に賭けるのだ。
トンッ、トンッ、トンッ――
響く足音に、書庫の中の侍女ははっと顔を上げる。慌てて帳簿を閉じ、破った紙をどうにか隠そうと身構えるが、その拍子に紙がはみ出して床に落ちてしまう。
さらに焦った侍女は、ドアの方へ来ようとして、開きかけの帳簿や他の書類を盛大に床へ散乱させてしまった。カサカサと紙が舞い散り、机の上のインク壺が倒れ、部屋は一気に修羅場と化す。
「わ、わわっ……!」
侍女が悲鳴を上げると同時に、シルフィーネはドアを押し開けて中へと進み、まるで驚いたふうを装いながら声をかける。
「あの、だ、大丈夫ですか!? すごい音がしましたが……」
「な、なにも問題ありません! あなたは何者ですか、勝手に入ってこないで!」
侍女は必死に隠しごとをしようとしているが、その顔は真っ青だ。よほど追い詰められているのだろう。足元には複数の紙が散らばっており、その中には先ほど破り取ったページも含まれている。インクがこぼれ落ちてまだ乾いていないので、紙を拾い上げようにも文字が滲んでしまうかもしれない。
ここだ。シルフィーネは素早く床に視線をやり、破片を探す。すると、ひときわ目立つ紙片が目に入った。何やら金額や日付、そして署名のようなものが書かれている――しかも、“L”で始まる名前が見える。
(“L”……Lionel? まさか、ライオネルの名前が記されているの……?)
一気に心臓の鼓動が高まり、シルフィーネは本能的にそれを拾おうと身を屈めた。しかし、侍女もまたそれに気づき、慌てて手を伸ばしてくる。
互いの手が紙片に重なろうとした瞬間――廊下に隠れていた護衛が音もなく部屋に入り、侍女の腕をひしっと掴んだ。
「きゃっ……!?」
驚きの声を上げる侍女に構わず、護衛はその腕をねじ上げるようにして押さえ込む。シルフィーネはすかさず紙片を拾い上げ、軽く見たところ、インクで文字が一部滲んでいるが、まだ判読できそうだ。
「な、なんなのよ! 離して! これは私の仕事です! あなたたちこそ不法侵入よ!」
侍女は必死に抵抗するが、護衛の腕力には叶わない。シルフィーネは紙片を握りしめたまま、一瞬でも内容を確認しようと目を走らせる。
そこには、確かにローゼリック伯爵家とグラント侯爵家の間で金銭の授受があったと読める一文が記されていた。金額は相当なもので、さらに日にちを見ると、ライオネルがエルフィンベルク家との婚約を破棄する前後のタイミングだ。しかも、受領者の署名が途中までしか読めないが、“Lionel G”のように見える部分がインクに滲みつつも残っている。
これは、もし正真正銘の原本であれば、ライオネルとローゼリック家が不正なやり取り――恐らくは資金援助と引き換えに、シルフィーネを貶める計画を進めていた証拠の一端になりうる。
(やった……! これなら、私たちが追い求めていた“不正”に繋がるかもしれない。だけど、これだけでは不十分。もっとはっきりした契約書や領収書が必要ね)
それでも、大きな前進であることに変わりはない。シルフィーネは紙片をしっかりと握り、侍女に向き直る。
「あなたは、この書類をどうして破り取って捨てようとしたの? 普通、財務記録を処分するなんてあり得ません。説明してください」
「し、知りません! 私は命じられただけです。財務記録が乱雑になっていたから整理しろって……!」
侍女は目を泳がせながら言い訳をするが、さすがに通じるわけがない。破り取った紙を懐に隠そうとしたところを見られている。
だが、この場で問い詰めても、末端の使用人では大した情報は出てこないだろう。むしろ、騒ぎになってアメリアが駆けつけてきたら、押収した紙を奪い返される可能性もある。
シルフィーネは、護衛に目配せしてから静かに宣言した。
「分かりました。あなたが何を命じられたのかは追及しません。ですが、この書類は公爵家が預かります。ローゼリック家が後で弁明したいなら、正当な手続きを踏んで取り返せばいいでしょう。今はそれで充分です」
「な、なんですって……!? そんな勝手が許されるわけが――」
「おかしいと思うなら、アメリア様にお伝えくださいな。“財務記録を廃棄しようとした侍女を取り押さえたが、正当な理由があるなら教えてほしい”と」
シルフィーネは毅然と言い放つ。これ以上の長居は無用だ。アメリアに知られれば面倒が増す。侍女をこのまま拘束しておくことはできないが、とりあえず相手に「エルフィンベルク家が証拠を握った」と知らしめる効果はある。
わずかな間に策略を巡らせていたシルフィーネは、護衛が侍女を離したのを確認し、すぐに踵を返す。侍女はなおも怒鳴っているが、このまま騒ぎになれば自分こそが咎められる立場――それが分かっているのか、遠巻きに見送りするしかない。
(何にせよ、あの紙片が手に入ったのは大きい。これを手がかりに、より確かな証拠を見つけ出せるかもしれないわ)
こうして、シルフィーネはローゼリック伯爵家の離れを後にする。お茶会は事実上“強制的に中座”という形になったが、他の令嬢たちもアメリアの豹変に怯えて早々に帰ってしまったため、すでに表向きはお開きの流れになっていた。
屋敷の門を出るとき、ちらりと視界の端にアメリアの姿が見えた。彼女は高い場所からシルフィーネを睨み下ろすように立っている。まるで「何をした」と問うかのように目を細め、得体の知れない笑みを浮かべていた。
(私が紙片を手に入れたこと、どこまで気づいているのかしら……。どのみち、これから先は一層危険が増すでしょうね)
シルフィーネの背筋に寒気が走る。アメリアは本気で、彼女を「奈落の底に落とす」つもりだろう。いや、既に牙を剥き始めている。
――しかし、同時にシルフィーネも新たなカードを手に入れた。ライオネルとローゼリック家の間に不正な取引があった可能性を示す紙片。これだけではまだ弱いが、ラグナル顧問に解析してもらい、繋がる情報を探ることで、間違いなくライオネルを追い詰める武器になるはずだ。
(このまま逃げるわけにはいかない。私がやらなければならないことは一つ――“真実”を暴いて、彼らの横暴を止める。それが公爵令嬢としての責務でもある)
そう心に刻みながら、シルフィーネは護衛とともに馬車へと乗り込む。窓の外にはローゼリック伯爵家の門が見え、その門柱の陰にアメリアの侍女と思しき人影が立ち尽くしているのがうっすら視界に入った。
これから先、さらに荒れ狂うであろう嵐の予感。しかし、その逆境がシルフィーネの闘志をますます燃え上がらせていた。
***
3.揺れる王宮と新たな審議
お茶会から翌日――シルフィーネは確保した紙片をラグナル顧問に渡し、緊急の調査を依頼した。ラグナルや彼の部下たちは紙片を丹念に調べ、インクの特徴や筆跡、押印の痕跡などを確認する。
すると、驚くべきことが判明した。どうやらあの紙片は「正式な契約書」の一部であり、本来はローゼリック伯爵家がグラント侯爵家から多額の資金を受領する際に、双方が署名捺印して作成したものらしい。問題は、その支払い理由だ。
普通であれば、「結婚を前提とした支度金」や「家同士の経済協力」として処理されることが多いが、この紙片では具体的な用途が曖昧で、しかも金額が常識外れに大きい。加えて、署名欄は部分的にかすれているが、“Lionel G――”という書きかけのサインが確かに読み取れる。つまり、ライオネル本人が直接関与しているという確度が高い証拠だ。
「これが本物であると証明できれば、ローゼリック伯爵家とグラント侯爵家の裏取引が明るみに出ます。あとは、残りの書類や証拠を補強すれば……」
ラグナルは興奮した面持ちで書類を並べ替えながら、シルフィーネに語る。
この紙片を根拠に、王家の評定官や有力貴族に働きかければ、「ライオネルがローゼリック家へ不正な資金提供をしている」という疑惑を提起できる。そこから「婚約破棄にまつわる工作が行われたのでは?」という推論へ繋げ、グラント侯爵家を一気に追い詰める算段だ。
「ですが、そう簡単にはいかないでしょう。向こうも必死に隠蔽を図りますし、“王族の甥”という立場を利用して証拠を揉み消そうとするに違いない」
「わかっています。けれど、一度でもこの証拠が評定官たちの目に触れれば、“ロドリゲス公爵の威光”だけでは押し切れないと思うんです。たとえ国王陛下が事なかれ主義でも、これだけ生々しい不正が出てきたら、世論も黙ってはいませんわ」
シルフィーネの言う通り、ライオネルやアメリアが裏で何をしようとも、あまりに露骨な不正が暴かれた場合、王家としても庇いきれない可能性が高い。王国の秩序と公正さを保つことは、国王陛下にとっても譲れない大義名分だからだ。
そのためにも、早急に「第二回の審議」を開催させ、「破棄の責任問題」だけでなく、「ライオネルの資金提供疑惑」も併せて議論する場を作る必要がある――というのがエルフィンベルク公爵家の方針だった。
そこで、ルドルフ公爵とマリア夫人は王宮の有力者たちに書簡を送り、ロムウェル・ヘスティア公爵家や、ほか数名の公正な立場を装う貴族へ協力を要請する。あわせて、王宮に出仕する高官の中からも、ライオネルと対立関係にある者を探り出し、味方につけようと動き始めた。
すると数日後、王宮の評定官から正式な通告がエルフィンベルク公爵家に届けられた。
――「ライオネル・グラント侯爵殿下による追加の申し立てに基づき、再び審議を開く。ついては、エルフィンベルク公爵家にも召喚状を送付する」――
どうやら、向こうも第二回審議の開催を望んだらしい。何が狙いなのか分からないが、こちらにとっても好都合には違いない。
「ライオネルが申し立てをしたということは、あちらも何か新たな材料を用意しているのかもしれんな」
ルドルフ公爵は苦い表情を浮かべつつ、シルフィーネに向けて言う。
前回は婚約破棄の責任の所在が問われたが、今回もおそらく「シルフィーネがいかに不都合を起こしていたか」とか、「公爵家側に落ち度がある」と主張してくるだろう。場合によっては“シルフィーネの身体的欠陥”などという根も葉もない噂を流す可能性もある。
「私の噂がどんな形で広められたとしても、真実がどうかは明らかです。もう取り乱すつもりはありません。むしろ、向こうが仕掛けてくるなら上等ですわ」
シルフィーネの瞳は揺るぎない光を放っている。子供扱いされてきた自分がここまで頑張っているのは、怒りだけが原動力ではない――彼女は心のどこかで、「この国を、そして自分や家族を守りたい」という責務を強く意識しているのだ。
「そうだな。シルフィーネ、お前のその姿勢は誇らしい。だが、くれぐれも無理はするなよ。あのアメリアのことだ、何を仕掛けてくるか分からない」
「はい、父様。ありがとうございます。もちろん気をつけます」
かくして、第二回審議に向け、エルフィンベルク公爵家は準備を進めていく。それは「婚約破棄の決着」をつけるだけでなく、「ローゼリック伯爵家とグラント侯爵家の裏取引疑惑」を一気に追及する機会でもある。
一方でライオネルとアメリアも黙ってはいないはずだ。シルフィーネは、再び激しい嵐の中へ踏み込むことを覚悟しながら、毎日のようにラグナルの下で書類の確認や証言者との打ち合わせを重ねていくのだった。
***
4.不穏なる暗流と落とし穴
こうして時は流れ、第二回審議の期日が目前に迫る。王都の貴族たちも、この一連の騒動に大きな関心を寄せており、「果たしてどちらが勝つのか」「ライオネルが処分されるのか、それともエルフィンベルク家が追い込まれるのか」と噂話が絶えない。
表面的には落ち着いているように見えても、実際には互いの陣営が激しく水面下で動いていた。ライオネルはロドリゲス公爵を通じて評定官に圧力をかけ、シルフィーネを“婚約不適合”という理由で糾弾させようと画策しているという情報もある。
さらには、ローゼリック伯爵家が「自分たちの財務帳簿は紛失しており、証拠の提示は不可能」と主張し始めたという話まで伝わってきた。つまり、先の書類破棄を強行し、証拠隠滅に躍起になっているのだ。
「まったく……抜け目がないわね。あの紙片だけが頼りになりそうだけれど、どうにかそれを“正当な証拠”として認めさせる必要があるわ」
シルフィーネはラグナル顧問と共に、手に入れた紙片を改めて確認する。そこにはインクが滲んで読めない部分も多いが、日付と金額、そしてライオネルの署名らしき筆跡が残っている。
問題は、「この紙片が偽造ではない」と証明する手段だ。公爵家としては、ローゼリック家書庫の証拠物件だということを証明する必要がある。
「王宮で正式に鑑定を依頼すれば、ある程度は真偽が判定できるでしょう。ただし、ライオネル側が“偽造だ”と主張すれば、また揉めることになります」
「それでも、時間をかけてでも鑑定を求めるしかありません。そうすれば、少なくとも向こうが“証拠は捏造だ”とゴネても、真実がどちらにあるかは少しずつ明らかになるはず。……なんとしても、この紙片を正式な場に出しましょう」
シルフィーネの声には力がこもっている。少し前までなら、「子供っぽい」と笑われるような小柄な少女が、これほど気概に満ちた態度を見せるとは、周囲も想像していなかっただろう。
ラグナル顧問も大きく頷き、「私も全面的にサポートします」と請け合う。こうして、エルフィンベルク公爵家は第二回審議に向けた最後の準備を進めていくことになった。
……だが、その矢先――。
シルフィーネは、突如としてアメリアから「緊急の面会」を求められる。使いの者が公爵家を訪れ、「アメリア様がどうしてもシルフィーネ様に謝罪したいのだ」と告げたのだ。
シルフィーネは一瞬耳を疑った。あの高慢で凶暴なアメリアが、“謝罪”などと口にするはずがない。ましてや審議を前に、どんな罠を仕掛けているのか分かったものではない。
「怪しすぎます……。このタイミングでわざわざ謝罪したいなんて、絶対に何か裏があるに違いありません」
「ええ、私もそう思うわ。シルフィーネには行かせたくないけれど、下手に断ると“謝罪の意思を踏みにじった”と騒がれるかもしれない」
マリア夫人の苦悩も尤もだ。アメリアは、あくまで「周囲に取り繕うためのパフォーマンス」として謝罪を申し出ている可能性が高い。断れば、シルフィーネが“歩み寄りを拒んだ”という悪評を立てられるかもしれない。
最終的に、ルドルフ公爵らの判断で「場所は公爵家の客間とし、護衛を含めて万全の態勢を整えた上でアメリアを招く」という方針が取られた。自分たちのホームならば、よほどの無茶はできないだろう――そう考えたのだ。
そして翌日の午後。アメリアは、意外にも一人でエルフィンベルク家を訪れた。もちろん、馬車の御者や侍女は同行しているが、館の中に入ったのは彼女ただ一人。
公爵家の客間へ通されると、アメリアはまずルドルフ公爵夫妻に挨拶をし、それからシルフィーネを前にして深々と頭を下げる。
「……先日は、あのお茶会で失礼な発言をしてしまって申し訳ありませんでした。私、つい感情的になってしまって……あなたに嫌な思いをさせたことを後悔しています」
頭を下げるアメリアの姿は、普段の高圧的な態度とはまるで別人のよう。しかし、その言葉を素直に信じられるほど、シルフィーネも甘くはない。
彼女は慎重に距離を保ちながら、「お気になさらず」と形だけの返事をする。ルドルフ公爵とマリア夫人も同席しているが、アメリアはまるで彼らを無視するかのようにシルフィーネだけを見つめ、さらに言葉を続けた。
「あなたに直接話したいことがあるの。実は、ローゼリック家の財務に関して、私も気になるところがあって……。もしよければ、情報交換をしたいと思ってきたのよ」
思わず「は?」と声を漏らしそうになるシルフィーネ。財務の件をアメリアが気にしている? まさか、彼女が裏取引を暴露して味方になるなどという展開は考えにくいが……。
「……財務に関して、ですか。急にどうして私に?」
「それは……ライオネル様のことで、色々と思うところがあるの。私も、あなたみたいに“被害者”みたいなものかもしれないわ。彼がうちに提供してくれている資金の出どころとか、本当は不安があって……」
アメリアは伏し目がちに言いながら、自嘲気味の笑みを浮かべる。今までの彼女を知る人間からすれば、あり得ないほど弱々しい態度だ。
だが、その言葉の端々には不可解な点が散りばめられている。アメリアが「被害者」などと自称するはずがない。大体、彼女はライオネルを強く支持し、シルフィーネを追い落とそうとしていた張本人である。ここにきて突然「協力したい」と持ちかけるなど、どう考えても怪しい。
(これは明らかに罠。しかし、何を狙っているのかが読めない。私たちが持っている“紙片”を知られたのか、それとも何か別の……?)
シルフィーネはとっさに判断しかねて、「ではもう少し詳しくお話をうかがっても?」と提案する。すると、アメリアは「もちろん」と頷き、そっと切なげな瞳を向けてきた。
「でも、ここには公爵様と夫人がいらっしゃるでしょう? できれば二人きりでお話をしたいわ。これは私の恥に関わる話でもあるの。どうか、少しだけ二人きりにしてくださらない?」
見るからに怪しい――そう思いつつも、ルドルフ公爵とマリア夫人は顔を見合わせる。娘を一人にするなどあり得ないが、ここで「ダメだ」と拒否すれば、またもや「彼女は歩み寄ろうとしているのに、シルフィーネが拒絶した」と言いふらされかねない。
結果、ルドルフ公爵は非常に渋い顔で「すぐ近くに控えている」と念押ししつつ、客間から退席した。マリア夫人も、万が一の際にはすぐ戻れるようドアの外で待機している。
部屋に残ったのは、シルフィーネとアメリアだけ……と言っても、実は壁の裏には隠し部屋があり、そこに護衛が控えて様子を監視している。絶対に危険な状況にならないよう、最善の策を取っているのだ。
「さて、二人きりになれたわね……。あなたも随分と用心深いけれど、仕方ないわ。私のこと、まったく信用していないんでしょう?」
「……正直に言うと、そうですね。信じられるような要素がありませんから」
「ふふ、言うわね。でも、こうして私に会ってくれただけでも感謝するわ」
アメリアはまたも偽りの笑みを浮かべ、その顔をシルフィーネに近づける。尋常ではない間合いの詰め方だが、シルフィーネも怯まずに背筋を伸ばした。
沈黙が数秒続き、アメリアは妙に艶っぽい声で囁く。
「ねえ、シルフィーネ……あなた、私が本当にライオネル様を心から愛していると思う?」
「それは……私には分かりません。アメリア様ご自身の問題ですし」
4.不穏なる暗流と落とし穴
こうして時は流れ、第二回審議の期日が目前に迫る。王都の貴族たちも、この一連の騒動に大きな関心を寄せており、「果たしてどちらが勝つのか」「ライオネルが処分されるのか、それともエルフィンベルク家が追い込まれるのか」と噂話が絶えない。
表面的には落ち着いているように見えても、実際には互いの陣営が激しく水面下で動いていた。ライオネルはロドリゲス公爵を通じて評定官に圧力をかけ、シルフィーネを“婚約不適合”という理由で糾弾させようと画策しているという情報もある。
さらには、ローゼリック伯爵家が「自分たちの財務帳簿は紛失しており、証拠の提示は不可能」と主張し始めたという話まで伝わってきた。つまり、先の書類破棄を強行し、証拠隠滅に躍起になっているのだ。
「まったく……抜け目がないわね。あの紙片だけが頼りになりそうだけれど、どうにかそれを“正当な証拠”として認めさせる必要があるわ」
シルフィーネはラグナル顧問と共に、手に入れた紙片を改めて確認する。そこにはインクが滲んで読めない部分も多いが、日付と金額、そしてライオネルの署名らしき筆跡が残っている。
問題は、「この紙片が偽造ではない」と証明する手段だ。公爵家としては、ローゼリック家書庫の証拠物件だということを証明する必要がある。
「王宮で正式に鑑定を依頼すれば、ある程度は真偽が判定できるでしょう。ただし、ライオネル側が“偽造だ”と主張すれば、また揉めることになります」
「それでも、時間をかけてでも鑑定を求めるしかありません。そうすれば、少なくとも向こうが“証拠は捏造だ”とゴネても、真実がどちらにあるかは少しずつ明らかになるはず。……なんとしても、この紙片を正式な場に出しましょう」
シルフィーネの声には力がこもっている。少し前までなら、「子供っぽい」と笑われるような小柄な少女が、これほど気概に満ちた態度を見せるとは、周囲も想像していなかっただろう。
ラグナル顧問も大きく頷き、「私も全面的にサポートします」と請け合う。こうして、エルフィンベルク公爵家は第二回審議に向けた最後の準備を進めていくことになった。
……だが、その矢先――。
シルフィーネは、突如としてアメリアから「緊急の面会」を求められる。使いの者が公爵家を訪れ、「アメリア様がどうしてもシルフィーネ様に謝罪したいのだ」と告げたのだ。
シルフィーネは一瞬耳を疑った。あの高慢で凶暴なアメリアが、“謝罪”などと口にするはずがない。ましてや審議を前に、どんな罠を仕掛けているのか分かったものではない。
「怪しすぎます……。このタイミングでわざわざ謝罪したいなんて、絶対に何か裏があるに違いありません」
「ええ、私もそう思うわ。シルフィーネには行かせたくないけれど、下手に断ると“謝罪の意思を踏みにじった”と騒がれるかもしれない」
マリア夫人の苦悩も尤もだ。アメリアは、あくまで「周囲に取り繕うためのパフォーマンス」として謝罪を申し出ている可能性が高い。断れば、シルフィーネが“歩み寄りを拒んだ”という悪評を立てられるかもしれない。
最終的に、ルドルフ公爵らの判断で「場所は公爵家の客間とし、護衛を含めて万全の態勢を整えた上でアメリアを招く」という方針が取られた。自分たちのホームならば、よほどの無茶はできないだろう――そう考えたのだ。
そして翌日の午後。アメリアは、意外にも一人でエルフィンベルク家を訪れた。もちろん、馬車の御者や侍女は同行しているが、館の中に入ったのは彼女ただ一人。
公爵家の客間へ通されると、アメリアはまずルドルフ公爵夫妻に挨拶をし、それからシルフィーネを前にして深々と頭を下げる。
「……先日は、あのお茶会で失礼な発言をしてしまって申し訳ありませんでした。私、つい感情的になってしまって……あなたに嫌な思いをさせたことを後悔しています」
頭を下げるアメリアの姿は、普段の高圧的な態度とはまるで別人のよう。しかし、その言葉を素直に信じられるほど、シルフィーネも甘くはない。
彼女は慎重に距離を保ちながら、「お気になさらず」と形だけの返事をする。ルドルフ公爵とマリア夫人も同席しているが、アメリアはまるで彼らを無視するかのようにシルフィーネだけを見つめ、さらに言葉を続けた。
「あなたに直接話したいことがあるの。実は、ローゼリック家の財務に関して、私も気になるところがあって……。もしよければ、情報交換をしたいと思ってきたのよ」
思わず「は?」と声を漏らしそうになるシルフィーネ。財務の件をアメリアが気にしている? まさか、彼女が裏取引を暴露して味方になるなどという展開は考えにくいが……。
「……財務に関して、ですか。急にどうして私に?」
「それは……ライオネル様のことで、色々と思うところがあるの。私も、あなたみたいに“被害者”みたいなものかもしれないわ。彼がうちに提供してくれている資金の出どころとか、本当は不安があって……」
アメリアは伏し目がちに言いながら、自嘲気味の笑みを浮かべる。今までの彼女を知る人間からすれば、あり得ないほど弱々しい態度だ。
だが、その言葉の端々には不可解な点が散りばめられている。アメリアが「被害者」などと自称するはずがない。大体、彼女はライオネルを強く支持し、シルフィーネを追い落とそうとしていた張本人である。ここにきて突然「協力したい」と持ちかけるなど、どう考えても怪しい。
(これは明らかに罠。しかし、何を狙っているのかが読めない。私たちが持っている“紙片”を知られたのか、それとも何か別の……?)
シルフィーネはとっさに判断しかねて、「ではもう少し詳しくお話をうかがっても?」と提案する。すると、アメリアは「もちろん」と頷き、そっと切なげな瞳を向けてきた。
「でも、ここには公爵様と夫人がいらっしゃるでしょう? できれば二人きりでお話をしたいわ。これは私の恥に関わる話でもあるの。どうか、少しだけ二人きりにしてくださらない?」
見るからに怪しい――そう思いつつも、ルドルフ公爵とマリア夫人は顔を見合わせる。娘を一人にするなどあり得ないが、ここで「ダメだ」と拒否すれば、またもや「彼女は歩み寄ろうとしているのに、シルフィーネが拒絶した」と言いふらされかねない。
結果、ルドルフ公爵は非常に渋い顔で「すぐ近くに控えている」と念押ししつつ、客間から退席した。マリア夫人も、万が一の際にはすぐ戻れるようドアの外で待機している。
部屋に残ったのは、シルフィーネとアメリアだけ……と言っても、実は壁の裏には隠し部屋があり、そこに護衛が控えて様子を監視している。絶対に危険な状況にならないよう、最善の策を取っているのだ。
「さて、二人きりになれたわね……。あなたも随分と用心深いけれど、仕方ないわ。私のこと、まったく信用していないんでしょう?」
「……正直に言うと、そうですね。信じられるような要素がありませんから」
「ふふ、言うわね。でも、こうして私に会ってくれただけでも感謝するわ」
アメリアはまたも偽りの笑みを浮かべ、その顔をシルフィーネに近づける。尋常ではない間合いの詰め方だが、シルフィーネも怯まずに背筋を伸ばした。
沈黙が数秒続き、アメリアは妙に艶っぽい声で囁く。
「ねえ、シルフィーネ……あなた、私が本当にライオネル様を心から愛していると思う?」
「それは……私には分かりません。アメリア様ご自身の問題ですし」
「答えてちょうだい。正直な気持ちで」
まるでその言葉を強要するような圧力に、シルフィーネは言葉を濁しながらも、「私が見たところ、アメリア様は自分の幸せのためにライオネル様を利用しているように見えます」と小さく答える。
すると、アメリアはカッと目を剥き、次の瞬間には哄笑(こうしょう)のような声を上げてしまった。
「……やっぱり、そう見えるわよね。そう、私はライオネル様を利用してるの。でも、彼だって私を利用してるのよ。つまり、おあいこじゃない?」
「だったら、なぜ私に“謝罪”とか“協力”なんて話を持ちかけるのでしょうか」
「簡単よ。あなたが“あの証拠”を握ってるから。ローゼリック家の帳簿の一部を持ち出したんでしょう? 侍女の話を聞いて、すぐにピンときたわ。あれが表に出たら、私もライオネル様も困ったことになる」
やはり気づいていたのか――シルフィーネは心の中で驚嘆する。だが、表情は崩さない。
「あなたたちにとっては困るかもしれませんが、私たちにとっては真実を示す大切な証拠です。手放すつもりはありませんよ」
「知ってるわ。だから、直接あなたに会いにきたの。ライオネル様が知らないうちに、その証拠を“どうにかして”破棄してもらえないかと思って」
あまりにも露骨な要求に、シルフィーネは呆れを隠せない。破棄するわけがない。それは分かりきっているのに、なぜこんな大胆なことを口にするのか――。
しかし、アメリアはニヤリと笑って、さらに驚くべきことを言い放つ。
「もしあなたが破棄に応じてくれたら、あなたに協力してあげるわ。ライオネル様と、彼を操っているロドリゲス公爵の“もっと大きな秘密”を教えてあげる。どう? 悪い話じゃないでしょ?」
「……!」
シルフィーネは言葉を失う。ライオネルとロドリゲス公爵の裏には、もっと重大な秘密があるというのか。確かに、それが何であれ真相を暴ければ、グラント侯爵家を完全に崩壊させるほどの打撃を与えられるかもしれない。
だが、あの紙片を破棄してしまえば、既に手に入れている決定的な証拠を自ら手放すことになる。それに、アメリアが本当に情報を渡す保証は何もない。下手をすれば二重の罠に陥る可能性だってある。
「そんな取引に応じる必要はありません。私は証拠を破棄するつもりなど、毛頭ございませんし、あなたの“協力”とやらも信用できない」
「まあ、そう言うと思ってた。あなたは頑固で、正義感の強いお嬢様だものね。でも、私がこうやって提案している時点で、ライオネル様とロドリゲス公爵が何か企んでいるのは確実だと分かるでしょう? このままじゃ、あなたたちエルフィンベルク家もただじゃ済まないわよ」
最後の言葉は脅迫めいていた。シルフィーネが拳を握りしめるのを見て、アメリアはさらに追い打ちをかける。
「そう、彼らはもう動き出してるの。あなたや公爵家の身にどんな危険が及ぶか、考えるだけでゾクゾクするわ。……あなたには選択肢がある。私と組んで、より深い秘密を暴くか。あるいは、正攻法で紙片を武器に突き進んで、“危険”に晒されるか。どちらを選ぶかは自由よ」
この言葉を聞き、シルフィーネはアメリアが「ライオネルと微妙に利害が対立している」ことに薄々感づく。おそらく、アメリアにはアメリアの野心があり、ライオネルとの共倒れを避けるために何とか裏取引で生き残りを図っているのだろう。
とはいえ、だからといって「紙片を破棄してまで組む」道理はない。シルフィーネは静かに息を整え、アメリアに向き直った。
「あなたの言い分は分かりました。ですが、私はあなたを信用できないし、あなたから提示された条件に魅力を感じません。なので、その話には応じられません」
きっぱりと言い切るシルフィーネ。アメリアは眉をひそめ、舌打ちすら聞こえそうな様子だ。しばしの沈黙の後、彼女はすっと立ち上がり、儚げな笑顔を作ってみせる。
「……そう。じゃあ仕方ないわね。せっかくのオファーを断るなら、あなたにはそれ相応の覚悟をしてもらうことになるわ。今度の審議、楽しみにしているわよ」
その冷たい言葉を最後に、アメリアは客間を出て行く。ルドルフ公爵たちがどう声をかけても、「用は済みました」と素っ気なく言って馬車へ乗り込み、エルフィンベルク家を後にした。
残されたシルフィーネは、一気に力が抜けたようにソファへ身体を預ける。あの数分間のやり取りは、激しい神経戦のようだった。
「大丈夫か? シルフィーネ」
すぐに戻ってきたルドルフ公爵とマリア夫人が、娘の様子を案じて駆け寄る。シルフィーネは苦笑しながら、「ええ、なんとか」と答える。
護衛が控えていた隠し部屋からもラグナルが現れ、「会話の内容は一部始終聞いていました。あれは明らかに脅迫、いや、取引の強要と言っていい」と苦々しく言う。
それでも、シルフィーネは気丈な声で付け加えた。
「でも、アメリア様が言う通り、ライオネル様とロドリゲス公爵が“何か仕掛けている”のは事実でしょう。私たちも油断できません。より警戒を強める必要があります」
「そうだな……。やつらが具体的に何をするのかは分からないが、審議までの間に私たちを攻め落とそうとするのは確かだろう。気をつけなければ」
こうして、エルフィンベルク公爵家はさらに防備を固め、審議当日まで残り僅かの時間を緊張感の中で過ごすことになる。
シルフィーネも自室にこもり、ラグナルや手勢が集めてくれた書類を総ざらいする作業を進めながら、心の奥底に潜む恐怖と闘っていた。アメリアの言葉を思い返せば返すほど、嫌な予感が増すばかり。
――それでも、引き下がるわけにはいかない。必ずやライオネルとアメリア、そしてロドリゲス公爵の不正を暴き、堂々と逆転してみせる。
そう誓うシルフィーネの中で、焦燥と決意が綯(な)い交ぜになって煮え立つように沸騰していた。
***
5.運命の足音
王都には既に、第二回審議の日程が周知され始めている。多くの貴族たちは好奇の目を向け、誰もが結果を楽しみにしているようだった。どちらに転んでも大事件だ。ライオネルが失脚すれば、王家の派閥に大きな変動が起きる。一方、エルフィンベルク公爵家が負ければ、かつてない規模のスキャンダルとなる。
そんな中で、アメリアは以前にも増して不穏な動きを見せているという噂が絶えない。舞踏会や夜会などに顔を出さず、屋敷に引きこもっていると伝えられる一方で、“闇の集団”に接触しているという黒い噂も囁かれている。
シルフィーネにとっては気の休まらない日々が続くが、彼女は自らを奮い立たせるかのように、書類を整理しながら独り言のように呟いた。
「どんな危険が来ても、私は逃げない。あの婚約破棄をきっかけに、私は強くなるって決めたから……」
その言葉は、まるで自分を鼓舞する呪文のようでもあった。
まだ幼いと思われている自分が、こうして大人の策謀に立ち向かう。恐れはある。だが、それ以上に「真実を貫きたい」という願いが彼女を突き動かしている。
――そして、この思いが次なる章で波乱を巻き起こし、「ざまぁ」と呼ばれる痛快な結末への道を切り開くことになるのだ。
だが、その前に、もうひとつ大きな悲劇が待ち受けていることを、シルフィーネはまだ知らない。
「答えてちょうだい。正直な気持ちで」