1. 湯気と歌声の交差点
午後五時、空は少しだけ茜色を帯びていた。
私はおばあさまと一緒に、古くからある「鐘技銭湯」へ出かけた。
看板には錆びた文字で「湯処 鐘技」とあるが、町の人たちはみんな「カラオケ銭湯」と呼んでいる。
名前の由来は、湯に浸かりながら誰かが必ず鼻歌を歌っているから、だそうだ。
「ほれ、今日は暑かったからな。しっかり日焼け止め塗っときなさいよ」
そう言っておばあさまが自前のUVクリームを私の肩にぬりたくる。
お風呂に入る前に意味あるのかと内心思うが、こういうのは“気持ち”の問題だ。
ヤドカリ事件の件もあり、おばあさまには頭が上がらない。あれでまとまった保険金が入ったらしく、今は暮らしにも余裕がある。
暖簾をくぐり、下駄箱に靴をしまい、のれんの奥へ。
湯気が立ちこめる浴場。
壁の富士山の絵も年季が入り、まるで墨で描かれたようにくすんでいる。
古さを通り越して、どこか懐かしい。
おばあさまはご機嫌な様子で、風呂に浸かると早速なにやら歌い始めた。
「ふふ、こんなとこで歌うなんて、ほんとにカラオケ銭湯だね」
私が思わず笑うと、おばあさまもニコリと微笑んだ。
2. 誰かの歌声
「……じゃあ、あんたにもひとつ怪異を教えとくかね」
湯船に肩まで浸かったまま、おばあさまがぽつりと話し出した。
――あれは、私がまだ小学生の頃。
お父さんに連れられて、同じこの銭湯に来た日のことだった。
浴場は空いていて、私たちのほかには、ぽつんとひとり中年のおじさんがいた。
彼は浴槽の奥の方に腰かけ、風呂に肩まで浸かりながら、ずっと歌を口ずさんでいた。
演歌でもない、ポップスでもない、どこか聞いたことのないメロディー。
妙に耳に残る歌声だった。
「歌、うまいねぇ……」
私は思わずそう呟いた。
父は気にせず身体を洗い、私は風呂の端っこに移動して、こっそりおじさんの様子を眺めていた。
ずっと同じテンポ、同じ音階。
楽しそうに見えるのに、表情はまるで無表情。
しばらくして、父は身体を洗い終え、「サウナに行ってくる」と言って立ち上がった。
私はそのまま、湯にのんびりと浸かっていた――が。
数分後、父がサウナ室から、蒼白な顔で飛び出してきた。
「おい、おまえ!あいつ、あいつがサウナの中にいたんだぞ!」
指差されたその先には、さっきまで湯船で歌っていたおじさんがいた。
え? じゃあ、こっちにいるのは……?
驚いて振り返ると、湯船のほうは、誰もいなかった。
さっきまでそこにいたはずの男の姿が、すっかり消えていたのだ。
「おかしい……たしかにそこに……いたんだよ……」
父はぶつぶつと繰り返していた。
結局、男は見つからず、私たちは足早に銭湯を出た。
その日から、父はこの銭湯に来たがらなくなった。
「だからね……この銭湯では、“歌がうまい奴”がいたら注意しなさいって、そういうことよ」
おばあさまはそう言って、小さく微笑んだ。
まるで冗談のように聞こえるが、その表情の奥には、笑いきれない何かが滲んでいた。
3. 湯上がりと冷たい罠
風呂上がりの脱衣所。
私は自販機でフルーツ牛乳を買い、おばあさまとベンチに座ってゴクゴク飲んだ。
「……やっぱこれが一番だよね」
「ほんとよね。うんまい」
この瞬間だけは、疲れも悩みも吹き飛ぶ。
ついでに、売店でソフトクリームも購入。
それを私が夢中で食べていると、おばあさまがそっと目を逸らした。
「おばあさまも食べます?」
「いや……今日はやめとく」
あれ? 珍しいな。おばあさま、甘いもの好きなのに。
その理由を、私は1時間後に知ることになる。
――帰宅後、トイレに籠もるおばあさまの呻き声が、深夜まで廊下に響いていた。
「……ほらね、冷えすぎたらああなるのよ。覚えておきなさい」
後日、そう言っていたおばあさまの顔は、どこかでまた歌声が聞こえてくるような気配を感じているようだった。
カラオケ銭湯♫ 完