【1】
ーー「鐘技家の夜会」ーー
「怪覧番って聞いたことある? あの、回覧板を呪いに使ったやつ」
語り手の猿谷慎也がふと語り出す。
周囲の友人たちはまたか、という顔をしながらも、彼の話が進むにつれ真剣になっていった。
「その怪覧番にもう一つ、あるバージョンがある。名を《回乱◉BAN!》――」
そう言った時の、彼の目の奥の静かな震えを、私は今でも忘れられない。
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【2】
ーー「猿谷慎也の自宅」ーー
風のない夜だった。
遠くで飼い犬が遠吠えをしている。
自室のノートパソコンに向かって、僕はホラー小説の原稿を打ち込んでいた。
小説家・猿谷慎也。32歳、独身。視力が悪く、黒縁眼鏡が手放せない。両親は早くに亡くなり、今はこの町外れの一軒家にひとり。
チャイムが鳴った。
夜分に訪れる者などいない。僕は一旦キーボードを止め、玄関へ向かった。
そこには、2枚の回覧板が置かれていた。
一枚は厚みのある紙束で、見覚えのある地域の回覧。
もう一枚は、1枚きりの紙切れ。奇妙に白く、無機質だった。
書かれていた文言はただ一言:
『この回覧を、吉谷氏へ。一週間以内に。』
僕は、悪戯か何かと思った。でも、怪談作家としては無視しづらい。
……念のため、両方とも吉谷さん宅へ届けた。
その夜はコーヒーを淹れて、無理やり眠りについた。
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【3】
「……吉谷さんの家に、警察が来てる?」
翌週。近所のスーパーで立ち話した主婦・柿谷さんと別れた後、騒がしい人だかりを見つけた。
黄色いKEEP OUTのテープ、パトカー、慌ただしい警官たち。
顔見知りの床屋、渡辺さんがいたので声をかけた。
「……殺人事件だってさ」
渡辺さんの口調は重い。
「吉谷さん、頭を撃たれたように破裂しててな。血が、壁や天井にまで……家族も行方不明らしい。警察もまだ詳細は言ってないが……」
ゾッとした。
僕は、あの回覧板を思い出していた。
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【4】
次の日、またチャイムが鳴いた。
玄関の外にいたのは、焦茶のコートを着た中年の男。
白髪交じりで、無表情だった。
「警察の者です。少し、吉谷さんの件についてお話を」
僕は回覧板の話も含め、ありのまま答えた。
刑事は黙って話を聞き、名刺も残さずに去っていった。
だが、その晩。
またあの紙切れが、自宅の玄関先に置かれていた。
『この回覧を、猿谷氏へ。一週間以内に。』
……遠くで、誰かがこちらを見ていた。
それは、あの刑事だった。
視線だけが、凍るように冷たかった。
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【5】
僕は猿谷という名字を探した。
近所にそんな家はなかった。
そう、これは僕を狙った“誰か”による罠だ。
警察に通報すれば、あの刑事に辿り着く。
一週間のうちに、誰かに渡さねば……でも、誰にも渡したくない。
僕はゴミ捨て場へ向かい、周囲を確認してから紙切れを投げ捨てた。
……誰にも見られていない。
きっと、これで終わる。
一週間が過ぎ、僕はほっと胸を撫で下ろした。
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【6】
激しい雷雨の夜だった。
チャイムが鳴く。
玄関を開けると――
「……あなたは!」
犬のマスクをかぶり、拳銃を握った男。
蹴り破られる扉。僕は引き倒され、銃口が僕の額に向けられた。
その瞬間。
銃声が2発。
一発は、マスクの男の肩に。もう一発は壁に逸れた。
「警察だ!動くな!」
現れたのは――本物の刑事だった。
マスクの男は取り押さえられ、素顔が露わになる。
……それは、床屋の渡辺さんだった。
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【7】
渡辺は、近隣で空き巣を繰り返していた。
吉谷宅で見つかり、口封じのために殺害。
そして僕に目をつけ、BANを偽装して“回して”いた。
回覧板は、物理的な呪いではなく、人を「動かす」心理兵器だった。
渡辺と刑事は別人だった。
けれどもあの夜、僕の中で警察という存在への信頼は既に崩れていた。
自宅に戻ると、玄関前に誰かが立っていた。
柿谷さんだった。
彼女は、無言で回覧板を掲げた。
……僕が、捨てたはずの、あの紙切れを。
そのとき、僕の中で何かが「バン」と弾けた。
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【8】
「という怪異談だよ」
語り終えた猿谷に、友人たちは一様に青ざめた顔をしてトイレに駆け込んだ。
鐘技家一同は、慣れた様子でお茶をすする。
猿谷慎也は静かに笑った。
回乱◉BAN! 完