空は、どこまでも高く、風はただ沈黙のままに雲を梳いていた。その静謐な風景の中で、あまりにも異質なものが一つ、大地に突き刺さるように建っていた。まるで、この世界の摂理そのものが存在を拒絶し、空間が悲鳴を上げているかのような冒涜的な違和感。それこそが、今日という日に人類史の新たな扉を開く——あるいは、パンドラの箱を開けてしまうのかもしれない——ディメンジョン・ゲートだった。
銀と蒼の合金が複雑に絡み合い、天を裂く剣のように鋭く、そして巨大な構造体。その中心では、我々の知る物理法則が意味をなさず、ねじれ、歪み、揺らめく光が幾重にも渦を巻いていた。既知の宇宙に穿たれた、未知へと通じる傷口。その深淵を覗き込むかのような“門”が、今、全世界数十億の視線を集めていた。
「……カメラ、生きているか」
天城 創(あまぎ そう)は、じっとりと汗の滲む掌でヘッドセットの冷たいプラスチックを強く押さえながら、努めて冷静な声を絞り出した。それは、自分自身に言い聞かせるための平静さだった。
『生きてるわよ。カウント、あと10秒』
ヘッドセットから響く白崎凛の声は、いつも通り鋭利な刃物のようだった。だがその一言に込められた絶対的な信頼が、創の背筋をわずかに伸ばさせた。ディレクターとしての彼女は、常に戦場の指揮官だった。そして今、ここは間違いなく歴史の最前線という名の戦場だった。
創は一度だけ深く、肺の底まで空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。震えそうになる指先を隠すように、強く拳を握り込む。
目の前には、世界そのものが凝縮されたかのような光景が広がっていた。各国の指導者たちが並ぶ貴賓席、豪奢なローブを纏った魔法国家の大使たち、そして肌の色も纏う衣服も異なる異世界の部族長たち。その周囲を埋め尽くす、熱気と期待と、そして隠しようもない不安を瞳に宿した無数の観衆。人種も、文化も、信じる神さえも違う者たちが、ただ一点、巨大なゲートを見つめている。この混沌の中心で、真実を切り取り、世界に届ける。それがリポーターとしての彼の責務だった。
その雑踏の中、ひときわ彼の視線を捉えて離さない影があった。
白銀の滑らかなマントを身に纏い、まるで一本の光のように、凛として立つエルフの女性。周囲の喧騒が、彼女の周りだけ嘘のように凪いでいる。その背筋は、迷いというものを知らないかのように、ただ真っ直ぐにゲートへと向けられていた。
彼女の名は、ルナ・エルフェリア。クロス・ワールド・チャンネル(CWC)に加わった、異世界からのリポーター。今日が、彼女にとっての初陣となる。
その唇が、微かに動いた。声にはならなかったが、創の心には、まるで風に乗る羽のようにその言葉が届いた気がした。
——これが、私たちが選んだ未来……。
それは祈りのようでもあり、覚悟を問う呟きのようでもあった。その声なき声は、世界の命運を告げる荘厳な前触れのように、創の胸の内に深く染み渡っていった。
スタジオからのカウントを告げる赤いランプが、無慈悲に点滅を始める。
——3、2、1。
光が消え、モニターに映し出されていたCWCのロゴが静かに闇に溶けていく。
生中継が、始まった。
「こちら、クロス・ワールド・チャンネル。リポーターの天城創です。私は今、人類史上初となる、ディメンジョン・ゲート開通式典の会場に来ています」
創はプロフェッショナルとしての仮面を完璧に被り、カメラのレンズの向こうに広がる数十億の視聴者に向けて語りかけた。その視線は、ゲートと、それを取り巻く群衆とを捉えている。
「本日、私たちの世界は、“隣にある宇宙”と、正式にその手を結ぼうとしています。今、この瞬間、歴史という名の巨大な歯車が、確かに音を立てて動き出しました」
自身の声が、広場に設置された巨大スピーカーから反響し、空気を震わせる。その響きはどこか他人事のように聞こえ、創は喉の奥がカラカラに乾いていることに気づいた。語っている自分自身でさえ、心の底で警鐘のように鳴り響く、不安のざわめきから逃れることはできなかった。
(俺たちは本当に、この扉を開けてしまっていいのだろうか? この一線を越えた先にある未来を、本当に受け止める覚悟ができているのか?)
過去の記憶が、網膜の裏で不意に明滅した。砲弾の飛び交う紛争地帯、砂埃にまみれ、カメラのレンズ越しに静かに涙を流していた幼い少年兵の顔。——世界を記録するということは、誰かの人生を、未来を、不可逆的に変えてしまうことだ。その重さを、彼は知っていた。
だが、そんな内面の動揺を微塵も悟らせるわけにはいかない。創が視線を送ると、ルナが静かにカメラの前へと歩み出た。
彼女はまず、この世界への敬意を示すかのように深く一礼した。そして顔を上げ、真っ直ぐにレンズを見つめた。その瞳は、深い森の湖のように澄み渡り、底知れない静けさを湛えている。
「異世界より参りました、ルナ・エルフェリアと申します。この歴史的な日を、皆様と共に迎えられたことを、心から誇りに思います。今ここに、二つの世界を隔てていた壁が取り払われ、新たな“繋がり”が生まれようとしています。私たちは、真実から目を逸らさない。そのために、ここにいるのです。共に、見つめていきましょう」
その言葉は短く、余計な装飾は一切なかった。だが、そこには揺るぎない誠実さと、自らの使命に対する清冽な覚悟が満ちていた。
(……ルナ。あの瞳には、一片の迷いもない)
創は、自分の中に渦巻く葛藤が、彼女の純粋な光によって洗い流されていくような不思議な感覚に陥った。そうだ、迷っている暇はない。俺たちの仕事は、ただ記録し、伝えることだ。
その時だった。
グォン……と、世界の骨格そのものが軋むような、低く、重い共鳴音がゲートから響き渡った。
創が言葉を失った一瞬、ゲートの中心で渦巻いていた光が、閃光となって爆ぜた。空間が引き裂かれるような甲高い悲鳴を上げ、既知の物理法則が完全に崩壊する。そして、門の向こう側に、信じがたい光景が広がった。
重力から解き放たれたかのように空中に浮かぶ、緑豊かな島々。地上では決して見ることのない、蒼白い光を放つ植物。そして、大気そのものに溶け込み、きらきらと舞い踊る無数の光の粒子——魔素。我々の宇宙とは全く異なる理で構成された、新たな世界が、息を呑むような美しさと共にそこにあった。
「————開いた」
誰かが、呆然と呟いた。
その言葉を合図にしたかのように、ルナが、一歩、前へ踏み出した。古い世界と新しい世界を隔てる、目には見えない境界線を、彼女は躊躇なく越えていく。その白銀のマントを纏った小さな背中を、創は瞬きさえ忘れて、ただじっと見つめていた。
その一歩は、あまりにも静かで、しかし歴史上、いかなる王の戴冠や、いかなる革命の第一声よりも、重い一歩だった。
次の瞬間、この光景を見守っていた数十億の人々の息が、同時に止まった。時間は引き伸ばされ、永遠のようにも感じられた。
世界は、もう昨日の世界ではありえなかった。
クロス・ワールド・チャンネルは、二つの宇宙が初めて交わったその瞬間を、世界でただ一人、目撃し、そして報道した。歴史は、確かに前進した。その先に待つものが、楽園か、あるいは地獄かも知らぬままに。