「よし、山も越えられたな。天使とも冒険者とも戦わずに済んでよかった」
リュウセイとアルテミスは、大きな街の中を歩いていた。
そこは交易都市【グローム】――。
東には青く光る海が広がり、港には貿易船が頻繁に出入りしている。
西には切り立った山々が壁のようにそびえ、都市の背後を守る天然の盾となっていた。
低地の市場は人々でごった返し、坂道の多い西側には富裕層の屋敷や職人街が並ぶ。
「軽く見た限り、冒険者は少なそうだな。騒ぎにもならなさそうだ」
リュウセイが周囲を確認しながら言う。
「この街で休憩して、荒野を越えれば目的地の北の教会だ」
「ああ……あと少しだ」
ここが、目的地前の最後の拠点になるだろう。
・・・・・・・・・・・・
―とある場所―
「は、早い……もうここまで来たのか」
「冒険者もいない……どうなっている?」
「三体目の準備はまだか!?」
「まだ調整に時間がかかっています」
「アルテミスが向かっているのは北の教会……これは偶然なのか?」
「まずい、また暴走するかもしれん」
「仕方ない。『時間稼ぎ』をしよう……なるべく自然な形で」
・・・・・・・・・・・・
―交易都市【グローム】―
リュウセイとアルテミスは都市の北の出口へ向かった――が。
「……通行止め!?」
二人は思わず声をそろえた。
「はい、申し訳ありません」
通行止めの前に立つ住人が深く頭を下げる。
「現在、北の出口方面の路上は土砂崩れがあり修復中です。同様の理由で、安全面から冒険者向けの船もすべて休業中です」
「まいったな……」
リュウセイが眉をひそめる。
「修復はいつ終わる?」
アルテミスが尋ねた。
「はい、明日には通れるようになる予定です」
北の教会へ行くには、この出口しかない。
ならば――。
「ここで待つしかないか」
リュウセイが提案する。
だがアルテミスは首を振った。
「……私は一刻も早く教会に向かいたい。外から回り込むことはできないのか?」
東は海、西は険しい山。遠回りは可能だが、日が暮れてしまうだろう。
「まあ待て。ここのところずっと戦い続きだっただろ?」
リュウセイは穏やかな声で宥める。
「たまには街の中でゆっくりするのも悪くない」
「……わかった」
渋々ながらも、アルテミスは頷いた。
「よし、いい子だ。それに、俺の予想じゃ今は天使は来ない。挑んでくる冒険者も、俺たちに勝てるやつはそうはいないさ。」
「街にいるのはほとんどがNPCだしな」
「NPC?」
「あ、いや……今のは忘れてくれ」
・・・・・・・・・・・
ー洋服屋 エトワールー
「なあ、リュウセイ……これは一体どういうことだ?」
アルテミスは深く溜め息をついた。黒と白のフリルに包まれたその姿は、普段の黒ずくめの戦闘服とは正反対だ。右手の爪をカツンと床に立て、苛立ちを隠しきれない様子で視線を逸らす。
「ああ、それは『メイド服』っていうんだ」
「はい、とってもお似合いですよ」店員も頷く。
「そんなことは聞いていない! なぜこれを着せられているんだ、私は!」
「俺の趣味だ!」リュウセイは胸を張って言い放つ。
「大声で言うな!」アルテミスは呆れたように声を上げた。
「でも、ちゃんと着てくれるんだな」
「そ、それは……理由はわからんが、着なくてはならない気がしてだな」
白いフリルはやけに目立ち、柔らかな布地は肌になじまず、違和感ばかりが残る。アルテミスは落ち着かない様子で裾をつまむ。
「動きづらい……うう……何か嫌なことを思い出しそうだ」
「……!?」
リュウセイの表情が一瞬険しくなる。脳裏に、闇に包まれた邪悪な影がよぎった。
「あ、ああ! すまん! もう着替えていい! 俺の趣味に付き合ってくれてありがとな!」
・・・・・・・・・・・・
洋服屋を出る二人。
「まったく……変な格好をさせて」
「はは、悪かったよ。でも可愛かったぞ」
アルテミスは小さくため息をつくが、ほんのわずかに頬を染めていた。
「じゃあ次はお前の行きたいところでいい」
周囲を見渡したアルテミスが、目を輝かせて指を差す。
「リュウセイ、私はあそこに行きたいぞ!」
指の先には――。
「猫カフェ……」リュウセイの表情が固まる。
「俺には重大な弱点がある。実は動物が苦手でな……」
「よし、入るぞ」
その言葉を最後まで聞かず、アルテミスは扉を押し開けた。
・・・・・・・・・
ー猫カフェ スペースキャットー
木の温もりが漂う店内は、ふわふわの毛並みを持つ猫たちでいっぱいだった。
日差しが床に斑模様を描き、そこに猫がごろりと寝そべる。別の猫は棚の上から尻尾を垂らし、のんびりと瞬きをしている。
アルテミスはそっと右手を伸ばした。黒く変色した指先を猫が怖がるかと思いきや――その一匹はためらいもなく近づき、頭をすり寄せてきた。
「……ふふ、こいつ、意外と大胆だな」
頬がわずかに緩む。撫でると、小さく喉を鳴らし、さらに身体を押しつけてくる。
「……まあ、悪くないな」
すると、他の猫たちも集まってきた。
一匹、また一匹……いつの間にかアルテミスの周りは猫だらけになり、彼女の口元には優しい笑みが浮かんでいた。
「ふふ……お前たち、意外と可愛いじゃないか」
いつもの鋭い目つきは消え、指先は柔らかな毛並みを何度も撫で続ける。
一方のリュウセイは――。
「おわっ!?」背後から黒猫が飛びつき、腕をガジガジとかじってきた。
「やめろって!」慌てて外そうとした瞬間、別の猫が足元にしがみつく。さらにもう一匹がシャツによじ登り、尻尾で顔をバシバシ叩いてきた。
「なんで俺にだけ敵意むき出しなんだよ!」
「よっぽど嫌われてるみたいだな」膝の上の猫を撫でながら、アルテミスがくすりと笑う。
・・・・・・・・・
帰り際、物販コーナーで足を止めたアルテミスの視線は、白の毛並みのぬいぐるみに釘付けだった。
「……」
「どうした?」
リュウセイが首を傾げる。
アルテミスは答えず、手に取ったぬいぐるみの感触を確かめる。
「ああ、それは当店のマスコット『ねこねこ』です。プレゼントにも人気ですよ」
店員が説明した。
「じゃあ、これのLサイズを」
「リュ、リュウセイ……いいのか?」
「ああ」
「……ありがとう」
そう言ってぬいぐるみを抱きしめたアルテミスは、当然のようにそれをリュウセイに渡した。
「……って、おい! 俺が持つのか!」
「そうだ。私が影に隠れる時は持ち込めないからな。しっかり、ねこねこも守るんだぞ」
・・・・・・
「リュウセイ、次は展望台だ」
「なんだよ、またお前の行きたいところか……」
「リュウセイ、次は……」
「リュウセイ……」
賑わう街並みを歩きながら、アルテミスは子供のように次の目的地を口にする。
リュウセイは、そんな声に重なる別の声を思い出していた。
(お兄ちゃん……お兄ちゃん……!)
胸の奥に、遠い記憶が疼く。
(あいつがもし生きていたら……こんな未来もあったのかもしれない)
隣を歩くアルテミスは、初めて出会った頃の冷たさが嘘のように、表情も言葉も豊かになっていた。
――これが、彼女本来の姿なのか。
……いや。
・・・・・・・・・・・
『お前たち! 絶対に許さない!! 全て……破壊してやる!! こんな世界!』
・・・・・・・・・・・
「……イ」
「……セイ」
「リュウセイ!!」
「ん? どうした?」
「どうしたじゃない! 早くメニューを決めろ!」
「あ、ああ……じゃあペペロンチーノで」
「かしこまりました」
二人が入ったのは、街中の小さな飲食店。
気づけば空は淡いオレンジと紫に染まり、西の端では夕日が沈みかけていた。街の影は長く伸び、店内にも柔らかな光が差し込んでいる。
料理を待つ間、アルテミスの視線が一点に留まっていた。
「ん? また何か気になるものがあるのか?」
彼女が見ていたのは、壁に貼られた大きなポスター――冒険者ランキング。
十人の名と写真が並び、その中には以前遭遇した『アース』と仲間たち、そして先日叩きのめした『ギンガ』の姿もあった。
「なあリュウセイ。お前、以前“追っているやつがいる”って言ってたよな? そいつは私を狙ってるとも……この中にいるのか?」
リュウセイの表情がわずかに険しくなる。
「……ああ。いる。ランキングNo.2『オリオン』……!」
巨大な体に無数の傷跡。民族衣装を思わせる服装に、背中には象徴的な巨大な剣――。
「なんで追ってるんだ?」
「俺の大切なものを奪った。……そしてこれからも奪い続ける。俺だけじゃない、世界中の人間からもだ」
「強いのか?」
「……大丈夫だ。俺の方が強い」
「じゃあランキングNo.1の『ナガレ』とリュウセイ、どっちが強い?」
「さあな……」
リュウセイは小さく笑う。
「『ナガレ』はもう引退したから」
ランキングNo.1――『ナガレ』。
流浪人のような出で立ち。細身ながら鋭い顔つきで、手にした刀を天に掲げている。
「……ん? この『ナガレ』ってやつの刀、リュウセイと同じじゃないか?」
リュウセイの愛刀、大業物【天叢雲】。
その同じ刀を、『ナガレ』も手にしていた。
「そうだな……」
「『ナガレ』は私を狙ったりしないか?」
「大丈夫だ。ナガレはお前を傷つけない。……それどころか、守ってくれるかもしれない」
「?」
首を傾げるアルテミス。
「あ、『ナガレ』さんのことですか?」
ポスターの前に立っていた女性が声をかけてきた。
「『ナガレ』さんは刀を使う冒険者で、素早く、攻撃を当てることが不可能と呼ばれた見切りの天才です。雷鳴轟く嵐の中、すべての雷を避けたという逸話はいまでも語り継がれています。そして――戦いを一瞬で終わらせることから、“流星の悪魔”とも呼ばれていました」
「……リュウセイ、悪魔。私たちみたいだな」
「ははは……」
「2位以下ですか? すみません、私、1位しか興味がないんです」
そう言って女性は再びポスターの前に戻っていった。
「それより、俺からも聞かせてくれ。お前のことを」
「私か?」
「まずは、お前の能力についてだ」
「能力【影間移動】のことか」
「基本や能力の解放は分かっているが……一つ気になることがある」
「気になること?」
「ああ。【夜】になるとどうなる? 暗闇全部が能力範囲になるのか、それとも光があっての影でないと発動できないのか?」
「……分からない」
「え?」
思わぬ答えに、リュウセイは目を瞬かせる。
「【夜】を経験したことがないんだ。日没と同時に、どうにも抗えない眠気が襲ってくる」
「【アルテミス】って名前なのにか?」
「名前は関係ないだろう」
「そういえば……ツィンクルの村でも日没と同時に眠ってたな」
リュウセイは腕を組み、眉を寄せる。
(じゃあこの疑問は解けず、か……いや、それより“なぜ夜になると眠るのか”の方が問題だ)
「次は、その右目の呪いについてだ。誰が、なぜそんな呪いをかけた?」
アルテミスはわずかに視線を落とした。
「……それも分からない。気づいた時にはもう、視界が真っ暗で何も見えなくなっていた。ただ――非常に強力な呪いだとだけ、聞いた」
「誰から?」
「お前と会った街、『ステラ』の住人だ。一部は……私を恐れずに接してくれた」
(恐れられる存在の彼女に普通に接する……それはおそらく……)
「じゃあ次は、その右手だ」
アルテミスの右腕は肘から下が黒く禍々しい形をしており、時に形を変える。
「私の意思である程度変形できる。爪を鋭くしたり、身体ほどの大きさにしたり。硬度も高いから、攻撃を防ぐこともできる」
「……『以前』はそんなのなかったよな?」
「『以前?』」
「あ、いや……忘れてくれ」
その時――。
「お待たせしました。ペペロンチーノと、チョコレートパンケーキです」
会話を断ち切るように、香ばしい匂いとともに料理が運ばれてきた。
「お前、夕食でもそんな甘いものを食べるのか。俺のペペロンチーノ、少し食べるか?」
リュウセイは呆れたように眉を上げる。
「いやだ。私は辛いものが苦手だ」
アルテミスは迷いなくフォークを取り、パンケーキを口へ運ぶ。
ふわふわの生地に甘みとほろ苦さが溶け合い、舌の上で広がっていく。
その瞬間――。
「♪」
満面の笑み。
その表情を見て、リュウセイの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「お前も……こんな顔をするんだな。戦いを除けば、普通の女の子だ」
――少し前まで、鋭く悲しげな目をしていたのに。
「当然だ。だって私は感情を持ったエーア……」
言葉の途中で、アルテミスの目つきが変わる。
先ほどまでの柔らかさが消え、まるで別人のような冷たさが宿った。
「アルテミス……どうした?」
「……そうだ。何か……大事なことを忘れている……私の正体は……!」
声が震え、表情は険しさを増していく。
フォークが手から滑り、皿の上で乾いた音を立てた。
「おい!?」
身を乗り出した瞬間、アルテミスの体がぐったりと力を失い、テーブルに崩れ落ちる。
「アルテミス! おい、アルテミス!!」
「……すぅ、すぅ……」
リュウセイは呆然と息を呑んだ。
窓の外を見ると、すでに日は沈み、夜の帳が街を包んでいた。
「……やっぱり、お前は」
⸻
(今日は楽しかった)
(こんなに笑ったのは、いつぶりだろう)
(……以前も、誰かと一緒に笑っていた気がする)
―アルテミス、絶対に忘れるな! 自分の罪を!―
「!?」
アルテミスは布団の上で飛び起きた。
額から背中まで、汗がびっしょりと流れている。
「はぁ……はぁ……今のは……? ここは……」
辺りを見渡すと、そこは宿屋の一室らしい。
「アルテミス! 大丈夫か!?」
外からリュウセイの声がする。
「あ、ああ……大丈夫だ。少し待ってくれ」
⸻
やがて二人は支度を整え、宿を後にした。
「大変ご迷惑をおかけしました。道の修復が終わり、通れるようになりましたよ」
街の住人が道を開ける。
⸻
荒野を進む二人。
北の教会まで、あと少し――。
無言のまま進んだ先で、影が立ちはだかった。
褐色の肌、肩まで伸びた金の長髪。
大人びた顔立ちと大きな体躯。
左手には、湾曲した巨大な鎌。
そして、冷たい光を宿す無機質な瞳と、背に広がる翼。
「リュウセイ……」
「ああ、分かってる。天使だ。それも、とびきりヤバいやつだ」
唇の端をわずかに上げ、男は名乗った。
「やあ――私の名はガブリエル。君たちの旅の終焉を告げる者だ」