「早乙女専務、ご要望の品はこちらです。」
探偵事務所から渡されたUSBメモリを受け取った早乙女綾斗の胸に、冷たいものが広がった。動画には、早乙女織奈が端正な男と肩を寄せ合い、楽しげにホテルの部屋へと入っていく姿が映っている。
時雨龍介――織奈の浮気相手だ。
これが初めてではない、と探偵は言った。織奈はまるで飢えた狼のように、毎回長時間を時雨龍介と部屋で過ごし、時には彼女のSUVの中ですら逢瀬を重ねていた。
夜更け、半開きの窓から車の後部座席で交わされる声が漏れ、貪欲で奔放な空気が漂う。
その映像は綾斗の脳裏に焼き付き、吐き気がこみ上げるのを必死に抑えた。長年ビジネスの世界で修羅場をくぐってきた彼の理性は、「今は倒れてはいけない」と告げていた。しかし、胸に走る痛みだけはどうしようもなかった。
若い頃の恋や誠実な誓いなど、結局はお嬢様の気まぐれな言葉に過ぎなかったのだろう。飽きたら捨てる、それだけのことか。
引き出しから分厚い書類の束を取り出し、綾斗は社長室へと足を運ぶ。部屋には赤ワインの匂いが立ち込め、ややむせるほどだった――また織奈が酒に溺れている。
床に散乱した衣服の先、織奈はソファに斜めにもたれ、半分眠っているような様子だ。綾斗は書類を彼女の手元に差し出す。
「織奈、最新の入札書だ。サインを頼む。」
織奈は半ば目を開け、綾斗の顔を見ると、どこか艶やかで疲れた笑みを浮かべた。きっと昨夜も時雨龍介と激しく過ごしたのだろう。
「こういうのはアシスタントにやらせればいいのに、わざわざ自分で来なくても。」
そう言いながらペンを取り、サインを書き始める。綾斗は手早くページをめくる。「まだいくつかサインが必要だ。」
織奈は流れるようにサインを続けた。書類を閉じようとした瞬間、彼女は綾斗の手首を掴み、甘えた声で問いかける。
「綾斗、今日が何の日か知ってる?」
薔薇の香りと酒の匂いが混じり合い、綾斗の心を刺す。彼は織奈の鎖骨に残る赤い痕を見つめ、先日監査役から届いた報告書を思い出す――早乙女グループが時雨グループに三ポイントの利益を譲っていた。
その時、携帯が震えて義母・早乙女月代からメッセージが届いた。「三千万円。これ以上は無理。条件は、織奈の浮気の証拠を消して、二人の結婚がなかったことにすること。」
綾斗は織奈の指を静かにほどき、淡々と告げた。
「酔ってるだろう。二日酔いのスープを作らせる。」
休憩室の前を通ると、半開きのドア越しに鮮やかなイタリア製の青いジャケットが目に入る――半月前、クローゼットで見つけたものと同じだ。
綾斗は完全に心が冷え切り、足早に自分のデスクへ戻った。書類の山から離婚届を取り出し、織奈のサイン部分だけを撮影して月代へ送信する。
外は突然の豪雨。
織奈は二日酔いのスープを飲み干すと、すぐに眠りに落ちた。アシスタントたちは困り果て、重要な会議のために綾斗を呼びに行くしかなかった。
眠る織奈を見下ろしながら、綾斗の顔には何の表情もなかった。浮かんでは消える過去の記憶、残るのは皮肉と虚しさだけ。
ソファで寝返りを打った織奈が、無意識に甘ったるい声を漏らす。「龍介、もう少し優しくして……」
秘書が慌てて場を取り繕おうとしたが、綾斗は静かに毛布を彼女にかけ、そのまま背を向けて部屋を出ていった。
その後すぐ、綾斗は田中社長との会食へ向かった。
「早乙女専務、最近城東区の土地を狙ってるとか?」田中がウイスキーグラスを揺らす。「でも今年は映像事業が本命だろ?」
氷の当たる音に紛れ、隣の個室から笑い声が聞こえてきた。男女の話し声に綾斗は耳をそばだてる。
「ねえ、最近は織奈と遊びに行くとき、もう綾斗は呼ばれないんだって。」その声は織奈の友人、遊び人たちだ。
綾斗は織奈に「彼らと付き合うのは控えて」と言ったことがあったが、彼女は表では従順に見せかけて、翌日にはまた彼らと遊びに出かけていた。
「だって、時雨龍介は若くてイケメンだし、家柄も釣り合ってる。わざわざ綾斗なんて連れてこないよ。」
「そうそう、どんなに綾斗がイケメンでも、七年も一緒にいたら飽きるでしょ。」
「けどさ、綾斗って会社のためにずっと頑張ってたって聞くよ。まあ、結局は無駄だったけど。あの顔、私もほしかったな。織奈がいらないなら私にちょうだい?」
「うわ、それでも食べたいとか、信じられない。」
またしても嘲笑が響く。綾斗の手の中のグラスがきしんだ。彼らは自分を何だと思っているのか。
立ち上がった綾斗は、一気に個室のドアを蹴り開けた。中の男女が一斉に彼を見た。時雨龍介は革張りのソファに深く腰掛け、ワイングラスを回しながら、明らかに見下す目で綾斗を見つめた。
「ちょうどいいところに来たね、早乙女専務。」時雨龍介はスマホを持ち上げ、ロック画面には慈善パーティーでの織奈の横顔が映っている。挑発的な笑みを浮かべて言った。「今ちょうど、新しい映像プロジェクトのタイトルを考えてたんだ。“セレブの玩具”なんてどう?」
綾斗は氷の入ったバケツを掴み、大理石のテーブルに叩きつけた。氷が飛び散る中、ふと二十歳の自分が区役所の階段に立ち、織奈が婚姻届をスーツの内ポケットに押し込んできた、あの幸せそうな笑顔を思い出した。
「ずいぶんご立腹のようですね、専務。」その時、織奈の声が玄関から響いた。シャネルNo.5の香りが包み込む。
ハイヒールで荒れた室内を歩み、レース手袋の手で時雨龍介のワインの染みたネクタイを整える。「龍介、あなたもね、専務をからかうなんて。」
綾斗は、結婚指輪をはめたその手が、今や平然と不倫相手の身だしなみを整えているのを見ていた。
織奈は振り返り、冷たい視線を投げかける。一同はすぐに彼女の怒りに気づいた。
「織奈、ごめん、さっきはほんとに悪ノリだった。」
「織奈、織奈と時雨さんは何もないって、誓うよ。」
「織奈、気にしないで……」
……
織奈は綾斗の手を引き、外へ連れ出した。
車の中、綾斗の表情は最悪だった。動画に映っていたSUVそのものだ。助手席に座り、後部座席から漂う嫌な気配を感じた。
しばしの沈黙ののち、織奈が口を開いた。
「綾斗、あの人たちは私の友達よ。あなたがああやって怒鳴り込んだら、私の立場がない。みんな、私が嫉妬深くてみっともない男と結婚したって思うわ。」
嫉妬深くてみっともない? 綾斗は心の中で自嘲した――織奈は本音を言ったのだ。
「それで?」綾斗は静かに返す。
「もしもまだ一緒にいたいなら、男らしく広い心でいて。これ以上、余計な詮索はやめて。そうしないと、本当にうんざりする。」
綾斗は黙って車を降りた。織奈の呼びかけにも振り向かず、自分の車に乗り込んで走り去った。
もうすぐ、君も僕にうんざりすることはなくなる――そう、心の中で呟きながら。