外は激しい雨が降りしきっていた。
早乙女綾斗はハンドルを握り、濡れた道路をスピードを落とさずに走っていた。雨粒がフロントガラスを激しく叩きつけ、車内にけたたましい音が響く。助手席のスマートフォンがひっきりなしに震え、早乙女織奈からの電話が何度も鳴っているが、綾斗は無視した。今は、その相手をする余裕も気力もなかった。彼にはもっと大事な用事があった。
やがて八回目の不在着信のあと、織奈も諦めたのか、それ以上はかかってこなかった。しかし、ディスプレイに表示された「早乙女織奈」の文字が、綾斗の心に鋭く突き刺さる。バックミラーに映る自分の顔は疲れきっていて、まるで大きな災難からやっと逃げ延びたかのようだった。
「新しいメッセージがあります」
スマホが再び震えた。織奈から送られてきたのは、二人の婚姻届の日付が写った写真だった。綾斗はチラッと画面を見て、皮肉と虚しさを感じた。その瞬間、背後から「ドンッ」という鈍い音が鳴り響いた。
大雨の中、一台の白いポルシェが綾斗の車のドアミラーにかすった。金属同士がこすれる鋭い音がした。慌ててハンドルを右に切り、急ブレーキを踏んでようやく事故を回避した。もともと最悪だった気分が、さらに爆発寸前まで高まる。
ドアを開けた瞬間、滝のような雨が顔に叩きつけられた。ポルシェからはダークグレーのスーツを着た運転手が降りてきて、申し訳なさそうな顔をしていた。
「大変申し訳ありません。私の車線変更ミスです。損害はこちらで全額負担いたします。ただ、うちのお嬢様が急用でして、こちらに連絡先をお渡ししますので、修理費が分かりましたらご連絡ください。必ずお支払いします」
運転手はそう言いながら、傘を綾斗の頭上へ差し出した。スーツの襟元にはプラチナ製のシンプルな幾何学模様のピンが光っている。こんなもの、普通の運転手がつけているはずがない。綾斗は車のドアにできた傷を一瞥した。思ったほど深刻ではなかった。
「分かりました──」
「私の個人番号を渡して」
後部座席から女性の声が響いた。綾斗は思わず息をのむ。その声は柔らかく優しいが、どこか冷たさも含んでいて、感情が読み取りにくい。不思議と聞き覚えがある気がした。
窓が少し開き、翡翠のブレスレットをつけた細い手が名刺を差し出した。透き通るような白い手首に、プラチナのシンプルなリングが光っていた。
「ご無事でしたか? 怪我などありませんでしたか?」女性の声には、意外なほどの気遣いが感じられた。
綾斗は名刺を受け取り、「大丈夫です」とだけ答えた。
名刺には電話番号だけが記されていた。名前も会社名もない。やはり身元を明かす気はないようだ。どこかで、彼女が小さく微笑んだ気がした。
「いつでもご連絡ください」
そう言うと、運転手は女性の指示で綾斗を車に戻し、白いポルシェは雨の中を去っていった。綾斗は呆然としたまま車内に戻ると、またもや織奈からの着信。うんざりした彼は、ついにスマホの電源を切った。
三十分後、綾斗は早乙女月代が予約した店に到着した。和の趣ある個室で、月代は堂々と上座に座っている。綾斗が入ってくると、上から下まで値踏みするように見て、どこか軽蔑の色を隠さなかった。
月代の視線に気づきながらも、綾斗は落ち着いた様子で濡れたコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。まだ座らないうちに、月代は一枚の秘密保持契約書を差し出した。
「考えたけど、やっぱり文書にしておくべきだと思って」
その言い方には、まるで自分が上の立場だという傲慢さがにじんでいた。
綾斗は冷たく契約書を見つめた。「そこまでする必要がありますか?」
これまで、綾斗は早乙女家のために様々なことをしてきた。自分の取り分は自分で勝ち取る。不要なものは一切受け取らないつもりだった。
月代はお茶を一口飲み、「当然よ。織奈はあなたいとは違う。早乙女家の一人娘で、小さい頃から大事に育てられてきたし、今は早乙女グループの社長。いずれ、全ての財産は彼女のものになる。だから──」と鋭い目で綾斗を見据えた。「織奈の名誉を脅かすものは、どんなものでも排除するわ。あなたも例外じゃない」
「自分の分しか受け取らない。それ以上は要りません」綾斗も一歩も引かずに言い返した。
だが月代は信じていない。「そんなこと、今の世の中じゃ信用できないわ。玉の輿狙いの男なんていくらでもいるもの。人の心は移ろいやすい、あなたなら分かるでしょう?」
月代の言葉に、綾斗は拳を握りしめた。
「分かりました。サインします」
素早く書類に署名し、立ち上がると、「これで連絡は最後にしてください。近いうちに織奈と離婚手続きを進めます」と淡々と言った。
立ち去ろうとする綾斗に、月代は不満げに声をかける。「綾斗、あなたはもともと織奈にふさわしくないのよ」
綾斗の足が止まった。
月代は傲然と唇を吊り上げた。「最初から、織奈があなたを選んだのは反対だった。彼女の条件なら、もっといい相手がいたはず。あなたはただの貧しい出身の男。彼女があなたに夢中じゃなかったら、私たちも認めなかったわ。今こうして離婚するのは、物事を元に戻すだけ。もう龍介にも会ったでしょう? 彼こそがふさわしい相手よ。約束を守って、二人の邪魔をしないで。早く消えてちょうだい」
まるで綾斗が図々しい第三者であるかのような言いぶりだった。綾斗は怒りに震え、拳を強く握りしめた。
そして、冷ややかに笑い、「安心してください。あなたの娘はそこまで人気者じゃない。しかも、人としての品格にも問題がある」と吐き捨て、ドアを乱暴に閉めて去った。
車に戻ると、綾斗はハンドルを叩きつけて怒りをぶつけた。もし大学時代、織奈があれほどしつこくアプローチしてこなければ、彼女と付き合うこともなかっただろう。あの頃は、自分が本当に恋をしているのだと信じていた。
織奈の仕事を支えるため、高給の海外勤務を諦め、独学でファイナンスを学び、早乙女グループの経営も手伝った。たった七年で一流企業へと押し上げた。家族に気に入られるため、織奈との結婚を隠し、周囲の冷たい視線にも耐えた。それでも、早乙女家は彼の出自を理由に、決して彼を認めなかった。
綾斗の胸には、どうしようもない悔しさがこみ上げる。彼は月代に電話をかけ、簡潔に言い放った。「六千万円、一円もまけません」
月代の返事も聞かず、すぐに電話を切った。