家に戻った早乙女綾斗は、全身の力が抜け落ちたかのように感じていた。ドアを開けた瞬間、強烈な酒と女性用香水の混じった匂いが鼻を突き、思わず吐き気を催すほどだった。
音声センサーでライトが点くと、リビングの惨状が目に飛び込んできた。玄関には泥のついたワインレッドのハイヒールが無造作に転がり、本革のソファにはシワだらけのシャツとストッキングが山積みになっている。クリスタルのローテーブルには、黒いレースの下着が半分引っかかり、床には倒れたシャンパンボトルからこぼれた酒が広がっていた。
そして、何より目を引いたのはカーペットの上に転がる銀色の指輪――自分と早乙女織奈の結婚指輪だった。もう一つの指輪は、まだ自分の指にある。
何があったのか、考えるまでもない。綾斗は震える指でスマートフォンの監視アプリを開いた。二年前に邸宅が空き巣被害に遭ってから、隠しカメラを二台設置していたのだ。織奈もそれを知っているが、最近はほとんど帰宅していなかったため、忘れているのだろう。
綾斗はしばらく画面に指を置いたまま迷ったが、結局、夕方六時の録画を再生した。画面の中、織奈の赤いドレスが炎のように燃え上がり、彼の目を刺す。彼女はソファに倒れ込み、目の前の男の首に両腕を回していた。「龍介さん……」
スピーカーから甘えた声が流れ出した瞬間、綾斗は慌ててスマホを切り、こみ上げる怒りを必死に押さえ込んだ。
突然、電子ロックの解除音が響き、綾斗の指が一瞬止まる。織奈がドアから入ってきた。彼女はドア枠にもたれ、頬が赤く染まり、シルクのナイトガウンの襟元は乱れて鎖骨の赤い痕が見えている。
「綾斗~」と甘ったるい声で近寄ってくるが、綾斗は身をかわして避ける。織奈はふらついてダイニングのキャビネットにぶつかり、金属音を立てた。
「酒、飲んだのか?」 綾斗の冷たい視線が、彼女の耳の後ろの痕に落ちる。
「結婚記念日にワインくらい飲んで何が悪いの?」織奈は声を荒げ、ワインレッドに塗られた爪で綾斗の胸を突く。「むしろあなたよ!昼間は不機嫌な顔で出て行って、電話もメールも無視して、今はその態度?!」
綾斗は目を閉じ、深く息を吐いた。「どこに行ってた?誰と酒を飲んだ?」 答えは分かっている。
「バン!」と音を立てて、織奈はエルメスのバッグをテーブルに叩きつけ、キラキラした金具がガラスを引っかく。
「綾斗、どういうつもり?私は三つの予定を断って、わざわざ帰ってきたのに!なんであなたに詰問されなきゃいけないの?それより、あんたはこの午後どこにいたの?なんで電話に出ないの?」
綾斗は黙って彼女を見つめ、答えずに問い返すような視線を送る。その瞬間、空気が凍りついた。
織奈の赤く塗った指先が細かく震え、残ったウイスキーを一気に飲み干した。
「そうよ、龍斗と一緒にいたわ!」 彼女はふらつきながら綾斗に詰め寄り、酒の匂いを吹きかける。「彼は今日が私たちの結婚記念日だって覚えてて、仕事をキャンセルしてプレゼントまでくれたのよ!あなたは?バラの花束一つすらない!」
綾斗は壁際まで追い詰められ、背中がキャビネットにぶつかる。
「最近、あなたがいくら騒ごうと我慢してきた。あなたが私と龍斗の関係を疑っても、私は許してきた。でも、これだけは我慢できない!」
織奈は先手を打って綾斗を責めれば、いつものように彼が自分をなだめに来ると思った。しかし、綾斗は動かず、ただ静かに彼女を見つめていた。
そのとき、スマホが鳴る。織奈は発信者名を見て、表情が柔らかくなる。「もしもし?うん、今帰ったところ……」とベランダへ向かい、声は羽のように軽やかだった。「もう、そんなこと言わないって……」
綾斗はその隙に書斎へ戻り、ドアに鍵をかけた。心臓の鼓動が耳をつんざくように響く。
しばらくして、外からハイヒールでドアを蹴る鈍い音がした。
「綾斗、出てきなさい!」織奈は酒臭い声で怒鳴る。「どういう態度なの?ちょっと注意しただけで、なんでそんなふてくされるの?私、間違ったこと言った?」
「今まで外であなたのためにどれだけ我慢してきたと思ってるの?それなのに、あなたは私を何だと思ってるの?友達を何人か作って何が悪いの?こんな大騒ぎする必要がある?」
だが、綾斗は黙ったままだった。織奈は苛立ち、口を滑らせる。
「綾斗、忘れないでよ。あなたが今の地位にいられるのは早乙女家のおかげなんだから!」
「出てきなさいよ!中で何してるの?早く出てきなさい!」
急に、何かを思い出したように、「綾斗、もしかして他に女がいるんじゃないの?説明しなさいよ!」
綾斗は冷笑を漏らした。織奈の逆ギレは相変わらずだ。
やがて外の罵声が途切れ、陶器が割れる音が響いた。おそらく玄関の花瓶が犠牲になったのだろう。スマホが震え、織奈からメッセージが届く。「綾斗、一生そこから出てこないつもり?」
綾斗はそのまま電源を切った。
闇の中、月明かりに照らされた結婚写真が冷たく白く浮かび上がる。写真の中の織奈は銀の指輪をはめているが、今その指輪はリビングの隅でゴミのように捨てられていた。
綾斗は、プロポーズした夜のことを思い出す。織奈は戸籍謄本をテーブルに叩きつけ、「両親のことは私がなんとかするから、安心して区役所に行きましょう」と言った。だが今、彼女は堂々と他の男をこの家に連れて来る。
綾斗の瞳は完全に冷たくなり、無言で壁の結婚写真を外して、そのまま二階の窓から放り投げた。
服はまだ濡れたままだったが、まずシャワーを浴びようとポケットに手を入れると、知らない連絡先のメモが出てきた。その番号を見つめていると、ポルシェの中のあの女性の声が頭に浮かぶ。どこかで聞いたことのある声だが、どうしても思い出せない。
まあ、誰でもいい。番号をスマホに登録し、バスルームへ向かい、熱いシャワーで全身の疲れを流す。
そのとき、スマホが光った。月代からのメッセージだ。綾斗は淡々と返信する。横浜で七年間築いた人脈も仕事も、今さら手放すつもりはない。
すぐに月代から音声メッセージが届く。「綾斗、いい加減にしてよ。こっちの話もちゃんと聞きなさい!」
綾斗の目に冷たい光が宿る。いいだろう、月代がどこまでやる気なのか見せてもらおう。自分は早乙女財閥で七年も専務を務めてきた。織奈の秘密だって少なくないし、彼女の不倫の証拠映像も手元にある。月代が本気でやり合うつもりなら、負けるつもりはなかった。