早乙女綾斗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「織奈、もし仕事を探しているなら、清源グループを紹介できるよ。ちょうど今、専務が必要らしい。君の実力と経験なら、きっと大丈夫だ。」
綾斗は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに首を振った。「ご厚意はありがたいけど、今はまだ次に何をするか決めていないんだ。」
「これ、私の名刺です」上杉桜は上品なカードケースから金箔押しの名刺を一枚取り出した。「もし気が変わったら、いつでも連絡してください。」
綾斗は名刺を受け取った。そこには「上杉桜 清源テクノロジーCEO」と金色の文字が刻まれていた。清源テクノロジー……最近急成長しているAI関連企業じゃないか?綾斗は内心驚き、改めて上杉桜を見るその目つきが変わっていた。
上杉桜はその様子に気づき、穏やかに微笑んだ。「やっと思い出してくれたみたいね。」
綾斗は頷いた。「こんな場所で上杉社長にお会いするとは思いませんでした。」
「ご縁ですね」と桜は静かに言い、「ところで、綾斗さんはこれからどこに行かれるんですか?」
綾斗は少し考えてから答えた。「しばらくはホテルに泊まります。」
桜はにっこりと笑った。「ちょうど良かった。私の運転手が送れますよ。」
綾斗が断ろうとしたその時、一台の黒いセダンが二人の前に停まった。
「上杉社長、お車の修理は終わりましたか?」
「渡辺さん、まずこの綾斗専務をホテル暁光まで送ってあげてください。私はもう少しこちらに残ります。」
渡辺健太は頷いた。「かしこまりました、上杉社長。」
綾斗は戸惑いを見せた。「そんな、お手数をおかけして……」
「どうぞ、お気になさらず。」桜は微笑んだ。「車を擦ってしまったお詫びだと思ってください。」
その表情を見て、綾斗はついに頷いた。「では、お言葉に甘えます。」
ちょうどその時、修理工場から早乙女織奈が飛び出してきた。「綾斗!」目を真っ赤にして、「こんな仕打ちはないわ!」
綾斗は無言で車のドアを開けて中に入った。織奈は車の窓に駆け寄り、必死に窓を叩く。「綾斗!私、あなたの子を妊娠してるのよ!見捨てないで!」
車内で、綾斗は目を閉じ、拳を握りしめていた。上杉桜はそれを見て、渡辺健太に静かにうなずいた。渡辺は車を発進させた。
車が離れていく中、綾斗はバックミラー越しに織奈が地面にうずくまり、泣き崩れる姿を見た。その傍らでは、桜が静かにその様子を見つめていた。
渡辺健太は余計なことは何も聞かず、慰めることもなく、ただ静かに運転していた。綾斗は後部座席にもたれ、高級車のシートの心地よさを感じながら、七年前のことを思い出していた。アメリカ留学から戻ったばかりの頃、若さゆえに愛さえあれば何でも乗り越えられると信じていた。家に認められようと、海外の高給を捨てて一から働き始め、専務にまで昇りつめたものの、結局は現実の壁に打ちのめされることになったのだった。
「専務、到着しました。」渡辺の声で我に返る。
気が付くと、車はホテル暁光の前に停まっていた。「ありがとう」と綾斗は礼を述べ、車を降りた。
「どういたしまして。」渡辺はにこやかに答えた。「上杉社長から、何かあればいつでもご連絡くださいと伝言を預かっています。」
渡辺は名刺を差し出した。そこには電話番号だけが記されていた。綾斗は受け取りつつ、なぜ桜がここまで親切にしてくれるのかと不思議に思いながらも、丁寧に礼を言った。
黒い車がゆっくりと去っていくのを見送り、綾斗は大きく息を吐き、ホテルの中へ入っていった。
ホテル暁光のスイートルームで、綾斗がシャワーを終えたとたん、スマートフォンが鳴った。画面には義母の早乙女月代の名前が表示されている。少し迷ったが、電話に出た。
「綾斗、正気なの?みんなの前で織奈と離婚すると言い出すなんて!」月代の声は怒りに震えていた。
綾斗はもう感情を抑える余裕もなかった。「僕たちの約束を、少し早めただけです。」
「約束ですって?修理工場で誰か女と出会ったから、織奈と縁を切りたくなっただけでしょう?」
綾斗は冷たく笑った。「織奈と龍介のことは、あなたもよく知っているはずです。」
電話の向こうが一瞬黙った。「いいわ、離婚したいならすればいい。でも外には“性格の不一致”と説明して。織奈の不貞については絶対に口外しないで!」
「自分から言いふらすつもりはないけど、もし誰かが僕を追い詰めたらどうなるかは保証できません。」
「脅してるの?」月代の声が一段と鋭くなった。
「ただ、お互いにとって一番良い形をとりたいだけです。無理に揉める必要はないでしょう。」
月代はしばらく沈黙したあと、「六千万円。明日の朝九時に家に来なさい。」
綾斗は眉を上げた。「八千万円だ。」
「何ですって?」月代が叫んだ。「綾斗、いい加減にしなさい!」
「この数年、僕が率いた早乙女グループの時価総額は三倍になりました。それに、織奈と時雨の関係や中絶の証拠も持っています。」
「うちの娘を調べたの?」
「自分を守るためです。八千万円。これ以上は譲りません。」
再び沈黙が続いた。「七千万円。それが限界よ。」
綾斗は少し考えて、「いいでしょう。ただし、一つ条件があります。」
「何?」
「離婚後は、織奈がどんな理由でも僕に関わることは許しません。それだけは守ってもらいます。さもないと、どうなっても知りません。」
月代は悔しそうに歯ぎしりした。「綾斗、強くなったものね!」
「円満に終わらせたいだけです。」綾斗は笑って、「明日会いましょう。」
相手の返事を待たずに電話を切ると、見知らぬ番号からメッセージが届いていた。綾斗はしばらくその内容を見つめ、なぜ上杉桜がここまで自分に親切なのか、疑問を感じずにはいられなかった。今日会ったばかりなのに、ただの好意にしては度が過ぎているのではないか――。
疑念を抱えたまま、綾斗は山本維に電話をかけた。「山本弁護士、早乙女綾斗です。上杉さんの紹介で――」
「織奈さんの件ですね。すでに上杉社長から連絡をいただいております。」
「明日の朝八時半にホテル暁光のロビーでお待ちしています。それから一緒に早乙女家に向かいましょう。」
綾斗は驚いた。「もうご存知なんですか?」
「上杉社長から簡単に事情を聞きました。」山本の口調は非常に手際が良い。「必要な書類もすべて用意しておきます。」
綾斗の疑問はさらに深まった。「山本弁護士、あなたと上杉さんはどんな関係なんですか?」
「大学時代の同級生です。今は私の大切なクライアントでもあります。」山本は少し間を置いて続けた。「綾斗さん、今きっと彼女がなぜここまで力を貸すのか疑問に思っているでしょう。でも、上杉社長は特別な方です。何度か話してみれば、きっと分かりますよ。」
電話を切った後、綾斗の胸の中にはますます大きな謎が残った。上杉桜とは一体何者なのか――。