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第22話 代わりは見つからない

そよ風が上杉桜の髪をやさしく揺らし、前髪が彼女の目元を覆った。その瞬間、黒川綾斗は思わず手を伸ばし、そっと髪を払った。

指先が頬に触れた瞬間、二人とも動きを止める。

上杉桜の頬がほんのり赤く染まり、慌てて黒川綾斗は手を引っ込めた。「ごめん、髪が……」

「大丈夫です。」上杉桜はうつむき、小さな声で答える。

気まずい空気を切り裂くように、黒川綾斗の携帯電話が鳴り響いた。


「もしもし?」

「黒川専務、佐藤浩です。至急ご相談したいことがありまして。」

黒川綾斗は眉をひそめる。「何があった?」

「早乙女社長が緊急会議を開いて、ギャラクシープロジェクトのチームを再編成することに決まりました。時雨さんが全面的に引き継ぐそうで、僕たちはそれぞれ別の部署に異動になるかもしれません。」

「メンバーみんな動揺していて、どうしたらいいか分からず、私がご連絡することになりました。」

黒川綾斗はしばらく沈黙した。「分かった、とりあえず皆を落ち着かせて、すぐには動かないように伝えてくれ。横浜に戻ったらこちらから連絡する。」

電話を切ると、上杉桜が彼の方を向いた。「何かあったんですか?」

「早乙女財閥が動き出した。俺の元チームを解体するつもりらしい。」

「そうなると、私たちも急がないといけませんね。」

上杉桜は勇気を出して彼の手を握った。「大丈夫です。必ず優秀な人材を清源テクノロジーに引き寄せましょう。綾斗さんが信じる人たちなら、きっと清源も受け入れてくれるはずです。」

黒川綾斗は手を離さず、静かにうなずいた。「ありがとう、桜。」


……


その頃、早乙女財閥本社の社長室。

早乙女正弘は険しい表情で財務報告書を見つめていた。数字は予想以上に悪い。

「正弘、本当に黒川のチームをバラバラにするの?」隣に座る早乙女月代が問いかける。

「あの人たちは長年黒川に付いてきた。もし一斉に辞められたら、会社へのダメージは大きいわ。」

早乙女正弘は鼻で笑った。「かと言って、まとまったままにしておいて、黒川綾斗の気分次第で一言でみんな引き抜かれたらどうする?」

早乙女月代は溜息をつく。「ギャラクシープロジェクト自体が危ういのに、チームを解体したら本当に崩壊するわよ。」

「そんなことはない。」早乙女正弘は書類を机に置いた。

「プロのコンサルにも依頼してあるし、引き継ぎの時間も十分確保する。しかも、時雨さんはずっと自分の力を証明したがっていた。これが全権を任せるチャンスだ。」

「時雨さん?」早乙女月代が眉をひそめる。

「そんな大事なプロジェクトを本当に彼に任せるの?最近の彼の様子は……」

早乙女正弘は手を振った。「能力に限界があるのは分かっている。でも織奈が目をかけている人間だし、チャンスは与えないとな。」

「それに、これは黒川に対するメッセージでもある。早乙女財閥は彼がいなくても止まらないと示す必要がある。」


ノックの音とともに、早乙女織奈が入ってきた。

「お父さん、お母さん、何の話してるの?」目の下にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。

事故で流産してから、彼女の体調は優れないままだ。

早乙女正弘はちらりと彼女を見て、「会社のことだ、気にせず体を休めなさい。」

織奈は首を振る。「大丈夫。ギャラクシープロジェクトのチームを再編するって聞いたけど?」

「お父さんが、チームは黒川の色が強すぎるから解体すると言ってるのよ。」

織奈は少し黙った後、「清源テクノロジーに引き抜かれるのを警戒してるのね?」

「そこまで考えていたのか?」早乙女正弘は娘の洞察に驚いた。

「黒川はリーダーシップがあるから、引き抜きがあるならまず古参メンバーから狙うでしょう。しっかり対策しないと。」

織奈は考え込む。「お父さん、無理に解体したら逆効果よ。チームの絆は深いし、強引にバラすほど反発を招く。むしろ皆を追い出すことになるわ。」

早乙女正弘は眉をひそめる。「じゃあ、他にいい案があるのか?」

「給料を上げて引き留めるしかない。」織奈ははっきりと言った。

「三割昇給、年末にはボーナスを倍にして、しっかり囲い込むの。」

早乙女月代は驚いた。「織奈、あなた……」

「黒川綾斗に連れて行かれるくらいなら、お金で留めておく方がいい。長い目で見れば十分価値がある投資よ。」

早乙女正弘はしばし考え、うなずいた。「なるほど、その通りだ。しかし……」

「何が問題?」

「時雨さんがプロジェクトリーダーを続けることは譲れない。これは外へのメッセージだから、黒川が抜けても早乙女財閥には人材がいると見せないといけない。」

織奈は納得しかねる表情だったが、これが逆に黒川綾斗の刺激になるかもしれないと思い、うなずいた。

「分かった、私から話しておく。」


父の部屋を出ると、織奈の顔から笑顔が消えた。

彼女はスマートフォンを取り出し、時雨龍介とのメッセージ履歴を確認する。

あの電話での口論以来、時雨龍介は仕事を理由に会おうとせず、以前のような親密さは消えていた。

「何をしてるの?そんなに秘密主義で……」

織奈は小声でつぶやき、メッセージを送った。

すぐに時雨龍介から返信が来る。

織奈は目を細め、彼が何かを隠している直感を覚えた。


……


夜、横浜国際空港。黒川綾斗と上杉桜の乗った便は定刻通り到着した。

「明日から動きますか?」上杉桜が尋ね、二人は並んで出口に向かう。

黒川綾斗はうなずいた。「早いほうがいい。まずは佐藤さんに連絡して、俺の考えを伝える。」

「私は何をすれば?」

「競争力のある給与プランを用意してほしい。みんな業界トップクラスの人材だ、本気を見せないと。」

上杉桜は微笑んだ。「任せてください。彼らが断れない条件を用意します。」


出口では、運転手の渡辺健太が長い間待っていた。二人を見つけるとすぐに駆け寄る。

「上杉社長、黒川専務、お帰りなさいませ。」

上杉桜は荷物を渡し、「お疲れさま。まず綾斗さんをホテルまでお願い。」

渡辺健太は荷物を受け取り、少し険しい表情で言った。

「上杉社長、黒川専務、お伝えしなければならないことがあります。」

「何?」

「黒川専務のホテルの経費情報を変更した後、何かあるとホテルから会社の人事部に直接連絡がいくようになっています。」

「今日の午後、人事部にホテルから連絡がありまして、早乙女織奈さんがホテル暁光に黒川専務を訪ねて来られ、部屋の鍵を要求されたそうです。」

「ホテル側はお断りしましたが、彼女は……」

黒川綾斗の表情が一気に険しくなった。「織奈が俺を訪ねてきた?他に何か?」

「ロビーで長い間待っていましたが、会えないなら帰らないと主張し、最後はホテルの支配人が警察を呼んで、ようやく帰りました。」

上杉桜は眉をひそめた。「場所を変えた方が良さそうですね。」

第23话 彼はそんなにすごくないのか


「必要ないよ。」黒川綾斗は首を横に振った。

「彼女に振り回されるつもりはない。もしまた来るようなら、ホテルが警察を呼べばいい。」


渡辺健太はそれでも話を続けた。「綾斗さん、ご存じないかもしれませんが、最近また“あなたが早乙女家に取り入って追い出された後、桜さんに頼っている”という噂が流れています。」


黒川綾斗は冷たく笑った。「やっぱり早乙女家は諦めが悪いな。」


上杉桜がそっと彼の腕をつついた。「そんな噂、気にしないで。」


黒川綾斗は肩の力を抜いて笑った。「こういう手口は、業界に入って二年目にはもう見抜いていたよ。」


車に乗り込むと、渡辺健太はバックミラー越しに二人を見て、何か言いたげだった。


上杉桜が気づく。「渡辺さん、何か他に?」


「実はですね、上杉社長。」早乙女月代は少し言い淀んだ。

「先ほど山本維から電話がありまして、市場で清源テクノロジーに関して“技術の偽装”という噂が流されており、既に一部の顧客に影響が出ています。」


「何ですって?」上杉桜の表情が一変した。

「誰がそんなことを?」


「はっきりとしませんが、山本さんは古川グループの関与を疑っています。既に証拠集めを始めていて、何社かを相手取って訴訟の準備中です。」


上杉桜は鼻で笑った。「古川グループも焦り始めたのね。早乙女財閥とも近いみたい。黒川専務を中傷しながら、今度は清源テクノロジーまで貶めるつもり?」


黒川綾斗は上杉桜に目を向けた。「僕たちの提携が、誰かの利権を刺激したということだ。」


「こういう強い者同士の組み合わせが怖いってことでしょう?私の見る目が正しかった証拠だわ。」上杉桜は小悪魔のように笑った。

「黒川綾斗、心配しないで。私がちゃんと対処するから。」


……


横浜市内の高級クラブの個室。


時雨龍介は慎重に古川浩介へUSBメモリを差し出した。「これが銀河プロジェクトのコアコードと一部の顧客情報です。ご確認ください。」


古川浩介はそれを受け取ると、すぐには見ず、隣の眼鏡をかけた中年男性に渡した。「涼太、頼む。」


水卜涼太はUSBをノートパソコンに挿した。

「資料はかなり揃っていますが、最新のシステム構成図とセキュリティプロトコルが抜けています。」水卜涼太は眼鏡を押し上げながら言った。

「価値は7割ほどですね。」


古川浩介は頷き、時雨龍介に向き直る。「時雨さん、あなたの誠意は分かりますが、涼太の言う通り肝心な部分が揃っていません。」


時雨龍介は焦り始めた。水卜涼太が簡単にごまかせないことを知っている。「私に取れるのはこれが限界です。コアシステムの権限は織奈か正弘の許可が必要なんです。」


「そこが問題だ。」古川浩介はテーブルを軽く叩いた。

「あなたが提供できる価値には限りがある。古川グループが本当に欲しいのは、完全な技術ロードマップと顧客リストだ。」


時雨龍介は語気を強めた。「古川さん、私はかなりのリスクを負っています。もし早乙女財閥に知られたら……」


「落ち着いて。」古川浩介は手を振って制した。

「提案がある。銀河プロジェクトを担当しているなら、内部から動いてはどうだ?」


「どういう意味ですか?」


古川浩介は身を乗り出し、声を潜めた。「プロジェクトの主要顧客を古川グループの提携プラットフォームに誘導するんだ。それなら資料を盗むより価値があるし、安全だ。」


時雨龍介は顔色を変えた。「そ、それは裏切りじゃないですか?」


「もう十分裏切っているだろう?」古川浩介は冷笑した。

「時雨さん、きれいごとはやめておきなさい。早乙女財閥はあなたを駒としか見ていない。自分のために動かないと、使い捨てられるだけですよ。」


時雨龍介はしばらく黙った後、歯を食いしばって頷いた。「分かりました。やってみます。ただ、保証が欲しい。」


古川浩介は水卜涼太に目配せし、書類を差し出させた。「これは古川グループと時雨家の提携枠組み契約です。これにサインすれば、すぐに5000万円の運転資金を融資します。これで当面の危機は乗り切れるはず。」


時雨龍介は書類を受け取り、内容を一気に読み、目に光が戻った。

この契約は時雨家にとってまさに救いだった。


「ただし、条件が一つ。」古川浩介は続けた。

「早乙女財閥に留まり、我々の“目”となってもらう。特に黒川綾斗と彼の元チームについて、何かあればすぐに知らせてほしい。」


時雨龍介は眉をひそめた。「黒川綾斗?彼はもう早乙女財閥を辞めていますよ。」


「だが、彼の影響力はまだ残っている。しかも今は清源テクノロジーにいる。この会社は古川グループが特に注視している。」


時雨龍介はようやく理解した。「分かりました。」


「では、これからよろしく。」古川浩介がグラスを上げる。

時雨龍介もグラスを合わせたが、その瞬間、古川浩介の目に浮かぶ侮蔑の色が見えた。

胸がざわつき、時雨龍介は自分も古川グループにとってただの駒に過ぎないのだと痛感した。


……


翌朝、ホテル暁光。


黒川綾斗は早くから仕事を始めていた。

まず佐藤浩に連絡し、カフェで会う約束を取り付け、上杉桜とも給与案を確認した。

出かけようとしたとき、携帯に一通のメッセージが届く。


黒川綾斗は眉をひそめ、少し迷った末にロビーに降りていった。

エレベーターを出ると、ロビーのソファに座る早乙女織奈の姿が目に入った。


彼女は淡いブルーのワンピースを着ていた。それは二人が初めて出会ったとき、彼女が着ていたものだ。普段の濃いメイクとは違い、どこか控えめな雰囲気だった。


黒川綾斗が近づくと、早乙女織奈は立ち上がり、微笑みを浮かべた。「やっと会ってくれたのね。」


黒川綾斗は距離を保ったまま言う。「用件は何だ?」


早乙女織奈は周囲を見回した。「ここでは話しにくいわ。部屋で話せない?」


「いや、ここで用件を言え。」


早乙女織奈の笑顔が消えた。「綾斗、そんなに冷たいの?七年も夫婦だったのよ、少しは情が残ってないの?」


黒川綾斗は冷ややかに言った。「君が浮気したとき、僕にどう接したか覚えているか?」


早乙女織奈は顔を青ざめさせ、深く息をついた。「あの時は私が間違っていた。本当に迷っていたの。でも、あなたを愛していなかったことは一度もない。」


黒川綾斗は首を振った。「もういい。用件だけ話せ。」


早乙女織奈は唇を噛んだ。「会社が危機なの。いくつもプロジェクトが失速している。お父さんがあなたに戻ってきてほしいって。顧問として銀河プロジェクトを救ってほしいの。」


「もう断ったはずだ。」


「でも状況は本当に深刻なの。大口顧客が次々と契約解除を申し出て、このままだと早乙女財閥は十数億円の損失になる。あのプロジェクトはあなたが築いたものなのに、崩れていくのを見ていられる?」


黒川綾斗はしばし黙った。「時雨がいるだろう。彼は有能じゃないのか?」


早乙女織奈は苦笑した。「あなたには遠く及ばないわ、綾斗。戻ってほしいとは言わない。ただ、今回だけ助けてほしいの。報酬は、お父さんが条件を聞いてくれるって。」

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