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第21話 痛みの先に、成長がある

正午、横浜市内の五つ星レストラン「月影」のVIP個室。


古川浩介は主賓席に座り、隣には水卜涼太がいる。二人は小声で会話し、ときおり微笑みがこぼれる。


そのとき、個室のドアが開き、時雨龍介が入ってきた。


「古川さん、お噂はかねがね伺っています」


時雨龍介は手を差し出し、愛想の良い笑顔を浮かべる。


古川浩介は軽く腰を浮かせ、握手に応じた。「時雨さん、どうぞおかけください。高木さんからお話を伺ってますが、今日は何かご用ですか?」


時雨龍介は席につき、ネクタイを直しながら言った。「ええ、実は古川グループと早乙女財閥が提携を検討していると耳にしまして。早乙女財閥の幹部として、詳細をお聞きしたいと思いまして。」


古川浩介はワイングラスを手に取り、興味深そうに時雨龍介を見つめる。「時雨さん、それはつまり、早乙女財閥を代表して来たという意味ですか?私はてっきり個人的なご相談かと思っていましたが。」


時雨龍介は一瞬言葉に詰まり、どう答えるべきか迷った。

認めれば怪しまれるし、否定すれば意図が伝わらない。


古川浩介はその様子を見て、薄く笑った。「そんなに緊張しなくてもいいですよ。実際、父は早乙女社長と何度か話していますが、詳しい内容はむしろご家族のほうがご存じなのでは?」


その言葉に、時雨龍介の表情がわずかに変わる。


水卜涼太がタイミングよく口を挟んだ。「時雨さん、浩介の言いたいこと、分かりますよね?早乙女財閥の幹部なら、その辺り把握しているはずですが。」


時雨龍介は苦笑いした。「もちろん承知しています。ただ、細かい点までは……」


古川浩介はワイングラスを軽く揺らしながら言った。「時雨さん、率直に言います。今日は早乙女財閥の代表としてではなく、個人的なお話ですよね?本当は何が目的ですか?」


時雨龍介は覚悟を決め、腹をくくった。「古川さん、回りくどい話はやめます。実は、個人的な取引を提案したいのです」


古川浩介は興味深そうに眉を上げた。「ほう、聞かせてください」


「早乙女財閥が進めている主要プロジェクト、たとえばギャラクシー・プロジェクトの詳細資料を持っています。古川グループが興味をお持ちなら、協力できるかと」


古川浩介と水卜涼太は目を合わせ、ゆっくりとワイングラスを置いた。


「時雨さん、それって要するに、雇い主を裏切るってことですよね?」古川浩介はわざと念を押す。


時雨龍介の顔が強ばる。「裏切りじゃありません、協力です。私はただ、新しい道を探しているだけです。早乙女家にはもう信用されていませんから」


古川浩介はふっと笑った。「時雨さん、僕が一番嫌いな人種、知っていますか?」


時雨龍介は不安げに首を振る。


「僕が最も重視するのは誠実さです」古川浩介の表情は真剣になる。

「一度早乙女家を裏切った人間なら、古川グループもいつか裏切る。どうしてあなたを信じろと言えるんですか?」


時雨龍介は予想外の言葉に青ざめた。


水卜涼太は古川浩介と目を合わせ、意図を察して時雨龍介に言った。「時雨さん、浩介の言う通り、口だけじゃなくて、何か証拠を見せてくださいよ」


追い詰められた時雨龍介は慌てて言った。「では、まず一部の資料をお渡しします。それでご納得いただければ、次の話に進みましょう」


古川浩介はしばらく黙って時雨龍介を見つめた後、口を開いた。「分かりました。涼太の顔を立てて、チャンスをあげましょう。ただし、欲しいのは資料だけじゃありません。早乙女財閥内でのあなたの権限も必要です」


「もちろんです」時雨龍介はほっと息をついた。

「古川さんが資金面をサポートしてくだされば、他の条件も飲めます」


古川浩介は穏やかに微笑む。「では、具体的な条件を詰めましょう」


……


東海県医療情報センターの会議室。

会議は順調に進み、黒川綾斗の提案は全責任者から高く評価された。特に段階的な導入戦略は、リスクを抑えつつ即効性も期待できるとして好評だった。


「綾斗、君の専門知識には驚かされるよ」会議後、佐藤所長が黒川綾斗の腕を取った。

「早乙女財閥が君を手放したのは、本当に惜しいことだ」


黒川綾斗は軽く頭を下げ、早乙女財閥のことには触れずに微笑む。

「お褒めいただき光栄です。清源テクノロジーの技術力は業界でもトップクラスですから、私はその橋渡しをしただけです」


そばにいた上杉桜が補足した。「綾斗さんが加わってくれたおかげで、私たちの戦略も一気に加速しました」


佐藤所長は二人を見て微笑んだ。「お二人の連携には感心しますよ。契約書は用意できていますので、来週には調印しましょう」


会議室を出ると、上杉桜は子どものようにはしゃぎながらくるりと回った。

「やった!これが私たち医療分野での初めての県規模案件よ!」


黒川綾斗はその様子に笑みを浮かべた。「今日はしっかり祝おう。このプロジェクトが成功すれば、きっと清源の看板になる」


上杉桜は腕時計を見て言った。「まだ午後三時だし、せっかくだから沖海市をちょっと観光しない?夜の便で帰ろうよ」


黒川綾斗は断ろうと思ったが、彼女の無邪気な笑顔につい頷いた。「いいよ、任せる」


……


「本当にきれいな場所ね」上杉桜は深呼吸した。

「横浜より空気がずっといいわ」


黒川綾斗は隣で遠くの山並みを眺めながら答えた。「出張のときは、必ず地元の名所を散策するのが自分の習慣なんだ」


「私も似たようなものよ」上杉桜が微笑む。

「でも、私はどちらかというとご当地グルメ派だけどね」


黒川綾斗は優しく笑った。「じゃあ、僕たち意外と似ているのかもね」


二人は湖畔のベンチに並んで座った。遠くでは子どもたちが遊び、年配の人たちが犬を連れて散歩している。


「時々思うの」上杉桜は遠くを見つめる。

「もしあの競争がなければ、父もあんな結末にはならなかったかもしれない。もし父が生きていたら、傘を差して守ってくれる人がいたら、私の人生は今とは全然違ったはずだって」


黒川綾斗はしばらく黙った後、口を開いた。「きっと平穏だっただろうけど、情熱は…少なかったかも」


「つまり、痛みがなければ成長もないってこと?」上杉桜は首をかしげる。


黒川綾斗はうなずいた。「そう思う。もし早乙女家の裏切りがなければ、僕は今も誰かに羨ましがられて、でも見下されるだけの婿養子で終わってたかもしれない。君も、もしお父さんの悲劇がなければ家業を継ぐだけで、清源テクノロジーを立ち上げることはなかったかもね」


上杉桜は小さくため息をついた。「そうかもしれないけど、時々本当に疲れるの。憎しみに突き動かされて、止まることもできない。少し休みたいと思っても、それすらできないの」


黒川綾斗は彼女を見つめ、初めてこの強い女性の弱さに気づいた。

「だったら、新しい目標を自分に与えればいい。復讐だけじゃなく、自分自身の証明のために」


上杉桜は黒川綾斗を見つめ返す。「ありがとう、黒川綾斗。あなたと話すと、すごく楽になる」


二人の視線が重なり、時が静かに流れていった。

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