二度とも前触れもなく姿を現し、どちらもリシェルを連れ戻すのが目的なノアールの行動と考えが全く分からない。お風呂に入っている最中考えたのはノアールの事。彼の考えはリシェルには分からない。分かる日も来ない。心を通わせた日は短い。ビアンカとの方が長そうである。
風呂から上がり、お肌の手入れをし、寝巻を着て部屋に戻った。あの後リゼルは魔界に戻り、いるのはネロ一人だけ。
優雅に葡萄酒を嗜む姿は絵画の中から出てきた美を体現した彼はリシェルに気付くと隣を叩いた。誘われるがまま隣に腰を下ろし、リシェル用に用意されていた冷たいお茶を提供される。魔法でずっと冷やしてくれていたので十分に冷たかった。
「美味しい」
「良かった。お茶を飲んだらこっちにおいで。髪を乾かそう」
「うん」
自分で乾かすより、誰かに乾かしてもらう方が早くて上手だ。リシェルが自分ですると手こずって時間が掛かる。
今はノアールを忘れよう。ノアールの事を考えたら時間が幾らあっても足りなくなる。
「明日は私に付き合ってくれないかい?」
「いいよ。何処に行くの?」
「リシェル嬢は聖女を知ってる?」
「聖女? 知らない」
「魔界にずっと住んでいたら、あまり馴染みはないか」
聖女というのは、時たま人間界に生まれる聖なる力を持つ女性を意味する。今リシェル達がいる国には、代々聖女が生まれる。神への信仰が強い国へ対する神の祝福。聖女は貴族、平民、貧民と身分に関係なく生まれ、聖女だと認められると必ず高位貴族か王族との婚姻が義務付けられている。
現在国には聖女が誕生しており、今年で十七歳になる。婚約者には第一王子。次期国王である。
天使であるネロが聖女を気にするのはおかしくない。ただ、とリシェルは自分が近付いても大丈夫なのかと心配する。聖なる力は悪魔にとって猛毒に等しい。悪魔だとバレなければ良くても万が一がある。心配するリシェルの頭をネロが優しく撫でた。
「安心して。見に行くと言えど遠目から。明日は聖女と第一王子が神殿に祈りを捧げる日なんだ」
「王子も祈るの?」
「聖女の伴侶となる者の決まりなんだ。聖女と共に神への信仰を周囲に見せる為のね」
「気になるなら、ネロさんが天使だと言って聖女に会えばいいじゃない」
「だーめ。私は目立ちたくないの。目立ったら他の天使に見つかる危険性が出る。そうなったらリシェル嬢に危害が及ぶ」
「う、うん。分かったよ」
「ありがとう。髪を乾かそう。後ろを向いて」
「はーい!」
空にしたグラスをテーブルに置き、言われた通り後ろを向いた。風の魔法が出現し、温風がリシェルの髪を乾かしていく。
頭皮をなぞる指先がツボに入って気持ちがよく、うっとりとしてしまう。また、ネロの手付きが丁寧なのもあり眠気も出てくる。
髪を乾かした頃には大きな欠伸が漏れていた。後ろの笑う声に頬を赤らめた。妃教育によって培った厳しいマナーが台無しだ。ノアールから離れ気が抜けすぎている。笑っているネロに振り返り、頬を膨らませて抗議をした。
「笑い過ぎよ」
「ごめんごめん。素のリシェル嬢が可愛くて」
「子供っぽいって言いたいのでしょう」
「一理ある。でも可愛いよ」
「もう……」
褒めても誤魔化されない。睨んでもネロは面白げに笑みを見せてくる。そっぽを向いたら「リシェル」と抱き締められ、耳に熱い吐息が掛かって一気に顔の体温が上がった。
「な、ななな、なに」
「ふふ……可愛い。首も顔も、耳まで真っ赤だよ」
「あ、な、だってっ」
「男慣れしていなくてもこうも初心だと、魔界じゃ恋は見つけられないね。魔界の男ならすぐに君を食べようとする」
「食べるって、私美味しくないっ」
「食べるっていうのはそのままの意味じゃないよ。君にはまだ早いから内緒」
「……?」
食べるに他の意味があるとは知らない、あっても結局同じではないだろうか。離してと言おうにも、背中から感じる固い身体とお腹に回された力強い腕。細身な割にネロの身体は鍛えられており、リシェルが離そうとしても微動だにしない。
そっと顔だけ後ろを向いた。ら、純銀の瞳がリシェルを凝視しているではないか。更に顔が熱くなっていく。
「私の顔、見てて楽しい?」
「可愛いなって見てるの。君の元婚約者が君を手放したくない理由、なんとなく分かる」
「殿下……?」
ノアールがリシェルを手放したくない?
「ネロさんは知らないから、簡単に言えるのよ」
「そうだね。私は君から話を聞いただけ。機会があったら、王子様の話を聞きに行こう」
「聞いたって無駄。私がどれだけ嫌いか憎いかを語られるだけよ」
「どうだかね……」
ネロは琥珀色の頭にキスを落とした。抱き締められているだけで一杯一杯のリシェルは気付かなかった。まあいいか、と苦笑する。
ノアールがネロを睨む目。あれは明らかに、自分の女が取られそうになって嫉妬に駆られた男の目だった。
ノアールがリシェルを嫌い憎いのは本当でも、同時に、愛しているのも本当。リシェルに盛大に拒絶された時にはあまりのショックで思考がきちんと機能していなかった。
大方の原因はリゼルにあるだろうが、うっすらとリシェルにも原因があるように見えた。
それよりも気になるのはノアールの容姿。
「……明日になってからだね」
「どうしたの?」
「なにも。さてさて、もう寝ようか」
「駄目。ネロさんお風呂に入ってないじゃない」
「寝るのは私じゃなくて君だよ。子供は寝る時間だ」
「もう子供じゃない!」
反論する姿は子供以外に見えない。はいはい、と笑いながらリシェルを横抱きにして寝室へ。二つある内の一つにリシェルを寝かせた。
「お休みリシェル嬢。良い夢を見れるようにまじないをかけてあげよう」
額にキスをし、魔法を掛けた。何か言いたげだったリシェルの金色の瞳はすぐに眠気に襲われ瞼が閉じられた。
――翌朝。夢も見ず、ぐっすりと眠れたリシェルは眼前にある整った顔を見て悲鳴を上げかけた。
ネロが同じベッドで寝ていた。
リシェルは彼の抱き枕にされていた。
〇●〇●〇●
監視の目を掻い潜り、先日リシェルの前に姿を現した際、連れ戻そうと彼女を捕まえた時念の為に追跡魔法をこっそりと掛けておいて正解だった。街を移動していると知らなければ、いなくなった後をずっと探す羽目になっていた。
漸くリシェルの前に姿を見せられても、底に千里眼を入れた水で盗み見て知ったリシェルの側にいる男に邪魔をされた。更に運悪く、早々にリゼルにも見つかり強制送還されてしまう。
ノアールが飛ばされたのは自身の部屋。開いていた扉へ吸い込まれ、部屋に入れられると扉が閉まった。前に警備兵はいなかった。兵を撒いて人間界に行ったから、彼等はいなくなったノアールを未だ探し続けている。
落ち着いて感じた違和感。室内が妙に甘ったるい香りに包まれている。嗅いでいると気分が高揚し、頭がぼんやりとしてくる。すぐにハッとなり、換気をしようと窓に近付くも開かない。鍵は掛かっていないのに開かない。苛立たし気に窓を蹴っても罅一つ入らない。
更に、小さなビアンカの声がした。ノアールが振り向いた先は寝室。薄い肌着だけを身に纏ったビアンカの瞳は潤み、頬も赤い。ノアールを見るなりうっとりと顔をした。
「でんかあ……」
「ビアンカ……」
昼間、親しい令嬢達とリシェルを陥れる話をしているのをリゼルに知られ、結界に閉じ込められ媚薬入りのケーキで全身が汚れたビアンカ達と一緒に王太子専用の風呂場に飛ばされた。媚薬で性欲が増している彼女達が助けを求めるも、経験のないノアールはどうするのが適切な処置となるのか分からず。火照る身体を冷まさせるのが先だと冷水に浸らせた。彼女達は泣いて嫌がったがノアールはすぐに侍女を呼びつけ、世話をさせた。媚薬は魔王城に常駐している医師に効果を消させ、それぞれ厳重注意をして家に帰した。
媚薬の効果は既に切れているビアンカが寝室に、それも情欲を刺激する恰好で再び媚薬を身体に入れられている。
誰の仕業か考えなくても分かる。
リゼル=ベルンシュタインだけ。
「くそ……っ!」
最初に出会った時からリゼルが気に食わない。
圧倒的魔力を持つのに、個人的理由であっさりと父に魔王の座を押し付け、愛する妻と娘との時間を選んだ。結局、父の泣き付きによって補佐官として仕事を手伝っているが……。
時に父を蹴り飛ばして大量の書類を僅かな時間で処理をさせ、時に父へ暴言を紡いで罪人の死刑執行書のサインを大量に書かせ、時に仕事をサボって寝ている父を見つけ首輪を付けて執務室へ強制連行した。椅子に縛り付けると徹夜で各地に住む貴族からの嘆願書や必要書類の確認をさせたりと。兎に角、魔王を魔王とも思わない鬼畜振りを毎回発揮していた。
一部の部下達は、魔王と鬼畜補佐官、下僕と女王様と囁いている。
前者は分かるとして後者は意味が分からない。リゼルは男なのに女王? と。
父は、誰が婚約者であってもリゼルは気に食わなかったと何度も言うがそんなことはどうでもいい。
リシェルはノアールが好きだと何度も言っていたのに、最後には選んでもらえなかった。
父とリシェルがしていた会話を偶然聞いた後、自分の聞き間違いだったのだと思いたくて、その翌日ノアールはリシェルに訊ねた。
『リ、リシェル……リシェルの最愛は僕……だよね?』
『違うよ。ノアは二番目よ。リシェルの最愛はパパよ』
『でもね、ノアは――』
あの後、リシェルは顔を赤らめはにかんだ様子でノアールに何かを言っていたがノアールには届いていなかった。
妃教育を受けるべく毎日リゼルと登城して、終わるとノアールの所に来て、一日何を学んだかどんな食事をしたかという誰も聞いていないのにリシェルはどんどん話を進めていった。その頃のノアールはリシェルの話をちゃんと聞いていた、気になる内容なら自分からも話にいった。
会話の中でリシェルは何度も言うのだ。
『リシェルはノアが好き!』と。
だがそれは一番じゃなく、二番目。
リシェルが一番好きだったノアールの衝撃は計り知れない。ずっと、自分が一番だと信じていたから。
リシェルも自分と同じ気持ちと信じていたから……。
「でんかぁ……助けてください」
「……」
リシェルの裏切りはノアールを一気に絶望と不幸のどん底へ叩き落とした。
その時生まれたリシェルへの憎しみが今尚ノアールの心の大部分を占める。
「殿下……」
ゆっくり、ゆっくり近付いて来たビアンカを抱き締めた。煽情的な姿のビアンカは視界にいるだけで目に毒。
ビアンカの細い腕が背中に回った。
キスをしている時も、一緒にいた時も、デートをした時も。
隣にいるのがリシェルだったら、目を閉じてキスを待っているのがリシェルだったらと何度も想像した。実際にいるのがビアンカだと思い出した時――毎回空虚な思いが胸を抉った。
部屋に充満するのは媚薬と同等のお香だろう。
リゼルは既成事実を作ってノアールとリシェルの完全なる絶縁を望んでいる。
そうなってたまるか、と理性を総動員し、ビアンカを気絶させてベッドへ運んだ。魔法で眠らせようにも、室内には魔法の使用を制限する結界まで貼られていた。さすがリゼルと言っていい。問題はどうやって部屋を出るか、である。窓も駄目、外への扉も駄目。
「うぅ……」
お香を嗅ぎ過ぎて身体の奥底が熱い。今のビアンカの姿は刺激十分。寝室の扉を閉めて部屋からの脱出を模索した。ら、外へ続く扉の鍵が開けられた。絶好の機会だと、ノアールは誰が入って来たか碌に確認もせず外へ走り出した。
「殿下!?」
アメティスタ家当主の声がしたような気がするが構っていられなかった。
医務室に駆け込んだノアールは帰る準備をしていた医師を捕まえ、媚薬効果を消す薬の処方を頼んだのだった。