フィヤン地区はハルンタ人が住む地域だが、たまにギレン人も見かける。たいていは借金取りとか犯罪者とかだったが、その日フィヤン地区に来た三人連れはどちらでもなかった。
大きな羽根飾りのついた帽子と、頑丈そうな革の長靴が目を引くきれいな身なりをした、いまだ少年の面差しが残る若者たちだ。往来で馬に跨り弓矢も携えていた彼らは、たまたま近くを歩いていた犬のグブザフに目を留めた。
「薄汚い犬だな。病気を持っていたら大変じゃないか」
あっという間の出来事だった。矢が突き刺さる音を聞いて、唯一の家族が悲鳴をあげて倒れるのを見て、グブザフはバネのように両手を伸ばした。
「グブザフ!」
三人組は笑いながら立ち去った。「いいことをした」と言い合っているその背中にむかって、グブザフは声を張り上げた。
「首輪をしてた!」
三人のうち一人がちらりと振り返った。グブザフはさらに大きな声で訴えた。
「首輪をしてたんだ!」
派手な帽子が三つ、羽根飾りを揺らしながら遠ざかっていく。
「首輪をしてたんだぞ!」
しん、と場は静まりかえった。馬の蹄の音だけが響いていたが、それも小さくなっていく。
犬のグブザフは立ち上がろうとしたが、できないようだった。か細く鳴いて、潤んだ黒い目でグブザフを見ている。荒い呼吸で波打つ横っ腹に矢が刺さっており、灰色の毛が赤く濡れていた。
矢を抜いていいものかどうか、抜くとき痛いんじゃないか。
グブザフはそんなことを考えながら首輪のまわりと背中を撫でる。犬のグブザフはここを撫でられるのが好きだから、痛みが紛れるだろうと思った。
背後で話し声が聞こえた。雑貨店の前で一部始終を見ていたらしい人たちだ。もう世間話にしているのだ、とグブザフはすぐに察した。
「口答えするとかヒヤヒヤさせる……」
「どこの貴族だ?」
「ありゃあムルガン家だよ。ほら、宰相やってる。王都にもザヌにも家を持ってるんだ。あれは次男だけど、長男はもう死んでて……。あの三人、見覚えあるよ。ムルガン家の次男とその取り巻きだ」
「ムルガン家って、さっきの一番でかい羽根飾り? あの矢を放ったやつ」
「間違いないね。ほら、うちは女房と一緒に下働きで雇われてたから。濡れ衣を着せられて飛び出したんだけど……」
グブザフは、苦しそうにしている灰色の体を抱え上げた。もう子犬とは呼べない大きさだし、刺さったままの矢も気になるから、思いっきり走ることはできない。あまり揺らさないようにしながら小走りで移動する。
「だいじょうぶだからな。がんばれ、がんばれ」
頼れる人はロルじいさんだけだ。どこにいるのか見当をつけて捜して、当てが外れては捜して、ようやく道端で草むしり中の姿を見つけたとき、犬のグブザフは鼓動を止めていた。
「ギレン人の貴族は、森に狩りに行く。フィヤン地区は森への通り道ではないんだがな、たまにわざとフィヤン地区を通り抜けていく貴族がいるんだ。狩猟のついでに害獣を駆除すると言ってな」
唇をひん曲げてロルじいさんが言う。横たわる犬を悲しげな目をして見下ろし、矢は抜かずに短く折って、その折った棒だけをむしった草の上に捨てた。
「だけどおまえが……」
グブザフに視線を向けたロルじいさんは言いさして、また唇をひん曲げる。
グブザフの両目は熱くなり、視界が揺れていた。うまく息が吸えなかった。
「どうにもならないよ、グブザフ」
「首輪をしてたのに」
「すまんな」
「人を襲わないのに」
「知ってる。いい子だったよ。かわいい子だった」
冷たい風が通り抜けた。もうすぐ日が落ちる。
息絶えた家族を冷たい風に晒したままにはできない。グブザフは犬のグブザフを抱きかかえた。その体はまだ温かかったが、とても軽く感じる。命が抜けてしまったからだと思った。
「どこに行く?」
ロルじいさんの問いかけには、首を横に振るだけで答えない。
「橋の下に来い。食べるものを用意しといてやる。今夜でも、明日でもいいぞ。待ってるからな」
グブザフはこくりと頷いて、ロルじいさんに背を向けた。
歩きながら考えて、向かった先は町外れにある皮剥ぎ屋のところだった。
犬の死骸は町の外のゴミ捨て場に持っていくものだ。グブザフは道で死骸を見つければそうしてきたから、ゴミ捨て場がどれだけ汚くて臭い場所なのかを知っている。あんなところに家族を置いていきたくなかった。
皮剥ぎ屋に足を運んだのは過去に一回だけ。役所からの依頼で、農家から逃げ出したらしい病気の牛を捕まえて、連れていった。
牛は死骸になって捨てられるのではなく、服とか靴とか人の役に立つものとして復活する。それはとてもいいことのようにグブザフは感じた。
死んだからってゴミにはしない。捨てるんじゃなくて、まだ生きてほしい。体は生き返らなくても、別の形で生まれ変われば生き返ったのと同じだ。
日が落ちて間もないころ、皮剥ぎ屋に辿り着いた。
ゴミ捨て場に負けず劣らず臭い場所だが、ゴミ捨て場のような腐敗臭よりも、薬草のような刺激臭が強い。だから耐えられるかというとそんなことはなく、初めて来たときは吐きそうになった。小屋の周囲を流れるドブも臭いし、軒にぶら下がる皮の端切れもたぶん臭いのだろう。用事がなければ絶対に来ようと思わない場所だ。
筋肉質で上背のある皮剥ぎ屋は、のっそりと、えらの張った顔を扉から出した。グブザフの話を聞くなり眉を寄せ、「犬の毛皮は人気がない」と爪の中まで黒く汚れた手で追い返そうとしてくる。
グブザフは諦めなかった。お金は出すからお願いしますと何度も頼みこんで、やっとのことで承諾をもらった。グブザフの明日の食事代はこれで消えた。
「終わるまでここにいる」
「引き取りたいのか? それじゃ金が足んねえよ」
「ちゃんと終わったってことを知りたいんだ」
「いますぐやれって? はぁ……ったく。外で待っててくんな」
そう言われてグブザフは少しほっとした。解体されるところを見るのは怖かったのだ。
灰色の体が腕の中から連れ去られると、肌寒くて身震いした。
犬のグブザフと出会ったのも、昼間は暖かく夜は冷える春だった。まるまる二年、一緒に寝て歩いて走って、一緒に食べて、遊んだ。こんな別れ方をするなんて想像もしなかった。
服についた血を指でこする。また泣いてしまうのをこらえるために唇を突き出し、息を吸った。夕暮れの空を流れる雲を目で追いかける。そうやって気持ちを落ち着けてから、悪臭の漂う小屋の前を行ったり来たり、立ったりしゃがんだりして待った。
夕闇はしだいに濃くなり、物の形がわかりにくくなる。扉の奥から灯りがぼうっと漏れたとき、たいして強い光ではないのにグブザフの目にはまばゆく見えた。
扉を軽く閉めて振り返った皮剥ぎ屋は、両手を前掛けで拭きながら眉間に皺を寄せる。
「……んだよ、しょぼくれた面しやがって。たかが犬だ。そんなにかわいがってたってんなら、埋めて墓をこしらえてやればよかっただろう」
グブザフはハッと目を見開き、次いで悔しさに顔を歪めた。地面を強く踏みつけて責める。
「それ先に言って!」
「あ? 墓の話? いま思いついたんだよ。つっても冗談だし。犬の墓なんて聞いたことねえよ。どこに埋めるってんだ」
グブザフは頬を膨らませて、腫れぼったい両目に怒りをこめた。皮剥ぎ屋は面倒そうに溜息をつく。
「あー、あれだ。首輪、持ってくか?」
「返して」
「わかったよ。んじゃ、骨はどうだ? いちおう骨も使い道はあるからな、ぜんぶとはいかねえが、一本だけならタダで持ってっていいぞ。いらねえってんなら……」
「いる。持ってく。返して」
強い語調で要求するグブザフに、皮剥ぎ屋は頭をかいて顔をしかめる。
「おい、おれに八つ当たりすんなよ。しょうがねえな……首輪に通せるように、骨に穴を開けてやろうか?」
「タダでやってくれるなら」
「やってやるよ。ついでに革紐もおまえの首に掛けられるように継ぎ足してやる。骨も自分で選ぶか?」
「……うん、選ぶ」
「んじゃ、中に入れ」
「ありがと、ございます」
「どういたしまして」
「あの……その、えっと、毛皮と骨。なら、肉、は?」
「それはおれが使う。食うわけじゃねえぞ? 脂を使うんだ。照明用とかにな」
「そう、ですか」
グブザフは力なく項垂れた。
ばらばらにされてしまった犬のグブザフ。その選択をしたのは自分だ。どうしてお墓を作ることを思いつけなかったのだろう。最後の最後に、取り返しのつかないことをしてしまった。
だけど皮剥ぎ屋の言うとおりだ。埋めるにしてもどこに埋めるのか。最初に出会った川岸? あそこに埋めても、草が邪魔でどこに埋めたのかわからなくなりそうだ。抜いても抜いてもいつの間にか生えているのだから。それに、知らない人たちが歩きまわってしまう。
「……おれの親はもう死んだが、」
グブザフの上から、どこかしんみりしたような声が降ってきた。
「よく言ってたよ。昔はよかったって。おれたちは臭いから嫌われ者で、街を出歩くのも制限されるが、それでも稼ぎはよかった。貴族からじきじきに獲物の解体を依頼されることもあったって。おれはそのころ生まれたばっかりだったからおぼえてないけどさ。話だけは聞いてるんだ。今じゃ信じられないけど、昔の貴族は嫌われ者の皮剥ぎ屋にも節度ある態度で接してくれた。なのにアラニア家のせいでなにもかも変わっちまった、てな」
「アラニア家が悪いんですか?」
「ちがうな。悪いのは犬を射殺したギレン人だ」
皮剥ぎ屋はためらうことなく断言した。
グブザフの両手に力がこもる。開いては閉じて、シャツの裾をぎゅっと絞るように引っ張った。
父も似たようなことを言っていたなと思い出す。裏切り者のアラニア家。だけど、そもそもの原因はギレン人。
「それじゃあ……アラニア家みたいに、ギレン人に、下に見られないようになるにはどうすれば……あいつら、ぼくの話を聞こうともしなかった……」
つい我慢できずに愚痴をこぼしたが、返事は特に期待していなかった。さあな、とか、それは無理だ、とか言われると思ったのに、意外な答えが返ってきた。
「そりゃあ、あれよ。騎士になるしかないな」
「騎士……?」
「騎士は貴族だ。貴族のなかでも一番下だけどな。話がしたいってんなら、おんなじ貴族になるのが第一歩だろ」
そんな道があるのか。
騎士になれば、あの三人に正面から会いに行けるのか。
「どうすれば騎士になれる?」
「あー……来年、募集があるか。でも十五歳からだから、おまえ今いくつだ」
「十一歳。来年しかやらないの?」
「三年ごとって聞いてるな。中止にならなければ、ちょうど十五歳で応募できるんじゃないか?」
「十五歳になったら騎士になれる?」
「受かればな。ま、がんばれ」
皮剥ぎ屋は軽い調子で励まして、グブザフを小屋に招き入れた。
犬のグブザフは、白いひとかけらの骨になって戻ってきた。ふわふわとよく揺れていた、尻尾の骨だ。
革紐は新たにもう一本の紐が結ばれて長くなった。「グブザフ」と名前が彫られた金属札と一緒に、骨が紐に通してある。
グブザフはそれを首に掛けた。服の下に入れて、誰にも見られないようにした。誰にも見せたくなかった。これは自分と、犬のグブザフとの、最後の約束だ。