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Ⅱ 灰色の子犬

 父が歩けなくなったのはいつだったのか、グブザフの記憶にはない。


 物心ついたときには父はもう寝たきりの状態で、母が編み物の仕事をして生活を支えていた。


 母の稼ぎだけでは足りないだろう、と父の知り合いのロルじいさんに外へ連れ出されたのは、六歳の時だ。道をきれいにするのは立派なことだと父も母も褒めてくれたから、ロルじいさんと一緒に道路掃除で稼ぐことにした。


 ロルじいさんは物知りだが、父と母もいろいろなことを知っていた。


 特に母は夜になると「むかしむかしのおはなし」を聞かせてくれた。内容はいくつかあったが、それらを繰り返し語るので、すっかりおぼえてしまった。それでも聞き飽きることがなかったのは、歌うような母の語り口が心地よく、ここではない空想の場所へ連れていってくれるからだった。


 母の語った昔話によると、「ハルンタ」という言葉はもともと「精霊の土地」を意味する古い言葉だったという。その土地に住む人たちをハルンタ人と呼んだのが、今に続くハルンタ人の始まりだったらしい。


 いくつかの集団に分かれて暮らしていたハルンタ人が、やがて一つにまとまり国を興した話も聞いた。それから何百年も経って生まれた王子が、巨人の爪でできた小刀と神獣の角でできた鞘を手にして王位についたお話も、何度も聞いた。


 逆に母はあまり口にしなかったが、父は三十年前の戦争について教えてくれた。


 ギレン人というのは遠い西の国の人たちで、戦争が好きで、たくさんの国を支配下に置きながら東へ東へと領土をひろげてきたのだという。


 そうしてついにこの国も呑みこまれてしまった。ただし、戦争をしたわけではないのだと。


 アラニア家の裏切りのせいでギレン人を王宮に招き入れてしまった。戦わずして負けた。それは悲しいことだが、民が戦場に駆り出されずに済んだのはよかったことかもしれないと、父は苦いものを食べたように目を閉じてから、吐き出すように笑った。


 父はさらに文字についても教えようとしてきたが、興味を持てなかったから、これはどうにも身に付かなかった。


 道路掃除はしだいに一人でもやるようになった。


 まず役所に行って場所の指示をもらう。石畳の隙間に生えている草や、川岸の伸びすぎた草をむしることもあれば、糞とか死骸とかを回収しに行くこともあった。


 それらの途中で誰かの落とし物を見つければ拾って役所まで持ち帰り、なにかを捨てるよう指示されればゴミ捨て場まで持っていく。


 見つけた落とし物はこっそり自分のものにするのもありだ、とロルじいさんから教わった。だけど役所に届けて報酬をもらうほうが実入りがいいときもある。なんにしろ見極めが肝心で、経験を積むしかないと言われた。報酬を受け取るとき役人にちょろまかされないようにする知恵もロルじいさんから教わった。


 死骸ではなく生きた命を見つけたのは九歳の時だ。


 細い鳴き声が気になって川岸の草むらに入ると、一匹の子犬がいた。体のあちこちに乾いた土がこびりつき、特に顔と脚は汚れがひどくて真っ黒だった。尻尾だけは白かったが、ぱっと見は全身灰色の毛並みをした、小さな生き物。


 子犬は潤んだ黒い目を向けて、なにかを訴えるように吐息のような声を洩らし、よたよたと座った。


 母犬はどうしたのか。なぜこんなに汚れているのか。疲れているように見えるが、どこから来たのか。


 疑問に思いながら、ごわごわの毛を撫でた。毛の中に指を潜りこませると、骨の感触もわかる。されるがままのおとなしい子犬に、思わず笑顔で話しかけていた。


「おまえも灰色なんだな。グブザフ。ほんとうのグブザフだ」


 グブザフは袋から「パルドム」を取り出した。


 母が編み物の仕事でお世話になっている仕立屋は、グブザフもよく通りかかるお店だ。今日も道路掃除で近くまで行ったところ、お店のおばさんがグブザフに気づいて、「みんなで食べな」とパルドムをいくつか包んでくれた。お昼ごはんの余りだという。固くなったパンをつぶして、卵を加えて丸めて茹でたもので、グブザフの母もよく作る定番の食べ物だ。


 子犬はグブザフの手に鼻を近づけ、用心深く匂いをかいでからパクリと食べた。


 鐘の音が聞こえたのはその時だった。めったに聞かない鳴り方にグブザフは顔を上げる。あさってのほうを見て耳を澄まし、音の意味を考えた。


「火事だ」


 グブザフの頭から子犬のことはすっかり消えた。立ち上がって振り仰ぎ、草むらから遠くの町並みを見はるかす。


 川沿いの道が商店街へと延び、見慣れたお店の屋根が見える。その手前で道は左右に分かれ、それぞれの住宅街へとつながっているのだが、ここからでは並木に遮られていて、どの家も影すら見えない。


 異変は特にない。けれども鐘は鳴り続けている。


 どこが燃えている? 火も煙もここからじゃわからない。だけど風がきな臭い気がする。


 グブザフは近道をして家に向かった。草むらを駆け上って道を横切り、草っ原を突っ切って小道に出てから広い道に合流する。どこが燃えていようと、とりあえず父と母の無事を確かめて安心したかった。


 しだいに人通りが多くなり、誰かの叫ぶ声が耳に入った。


「火事だ! フィヤン地区で火事だ! ベロース通りのほうだ!」


 ベロース通りはグブザフが両親と暮らしているところだ。はっ、はっ、と胸から息を吐き出す。慣れ親しんだ道を、慣れない焦りに突き動かされて走った。


 間違いなく、焦げ臭い。


 向かう先の空に黒い煙も見えた。坂道を下るときに勢いがついて、手足がちぎれ飛びそうになる。


 やがて目に飛びこんできたのは、たくさんの人が路地に並んで桶を横から横へと渡している光景だった。早く運べ落とすな、と怒鳴る声も聞こえる。


 路地は狭くて走り抜けることができないから、端に寄りながら歩いた。息が上がって苦しく、咳が出る。どうにか角を曲がったとき、列の先に禍々しい炎が見えた。


 赤い手を伸ばして空をかきむしっているようだ。その手が生えている場所が自分の家のあたりだということを確信して、けれども信じたくない気持ちでグブザフは見つめた。


 パンッ、という大きな音が聞こえた。グブザフはびくりと肩を揺らす。


 なにかが炎の中で弾け飛んだのだろう。壁が、窓が、崩れようとしている。


 あそこに行かなきゃ。でも火に隠れて家がよく見えない。まず火を消さないと近づけないし、なんにもできない。


 グブザフは列の隙間に飛びこんだ。乱暴に戻される空の桶を隣へと渡す。対面している列では水の入った桶が素早く渡っている。何度も何度もそれを繰り返し、太陽が落ちて薄暗くなったころ、やっと火は消えた。


 二棟が焼け落ちていた。その一つがグブザフの家だった。


 煙が胸の中に入りこんでたゆたっているような、今すぐ吐き戻したいような、いやな気分だった。


 ここまで動き続けた疲労と、夕闇が迫る視界の悪さも相まって、よろめきながら家の前に立った。心臓がトクトクと胸を叩いて耳にまで響く。焦げ臭い風が目に染みて、不意にむせた。


 涙目を袖で拭い、すっかり見晴らしがよくなってしまった家に、一歩、踏みこむ。


 ここが玄関、こっちが台所、と見回して、寝台を見つけた。燃えて崩れて黒くなっていて、見た目だけではわかりにくかったけれど、記憶にある部屋の配置から、父の寝台だとわかった。


 寝台の上には誰もいなかった。寝たきりだった父も、母もいない。周囲を見渡しても瓦礫の山があるばかりで、誰もいない。


 戸惑っていると、近所の人が両親を探すのを手伝ってくれた。そのうちにロルじいさんが慌てた様子で駆けつけてきた。


 結局、父と母を見つけたのはグブザフだった。焼け崩れた父の寝台の下で、二人は抱き締め合いながら黒焦げになっていた。体ほどには顔は焼けた痕がなく、二人が二人とも、目を閉じて泣いているような顔をしていた。


 その顔を見たとき、グブザフはなにを言ったらいいのかわからなくなった。ロルじいさんにも、誰に対しても言葉を失ったまま、そっと両親の居場所を指し示した。


 この火事で死んだのは三人。グブザフの父と母と、隣に住んでいたおばあさん。最初に燃えていたのはおばあさんの家で、グブザフの家は火が燃え移った結果らしい。


「火のついた油を落っことしたんじゃないか?」


「いやあ、煙突の掃除が甘かったんじゃないか?」


「春とはいえ、まだ寒いときもあるからなあ」


 いろんな人がいろんなことを言っていたが、グブザフが聞きたい言葉は一つもなかった。ただ、ロルじいさんが両膝をついて「なんてことだ」と呟いた声だけが、その声の震えだけが、グブザフの心をやんわりと撫でた。


 地区が葬儀を手配して、三人とも共同墓地に葬られた。


「家がなくても、家族がいなくても、だいじょうぶだ。おれがそうなんだ」


 真新しい墓の盛り土を見ながら、ロルじいさんが湿っぽい声で言った。隣で聞いていたグブザフは、頷けなかった。


 だって、帰る家は必要だ。毎日そばにいる家族は必要だ。おなかがすいていても、あんまりお金を稼げない日でも、一緒に眠ってくれる人がいればだいじょうぶなんだ。


 それなのに。


 たったひとりで、どう生きろって? どうして生きろって?


 わからなかったが、わからないからこそ今までどおりに道路掃除をした。少なくともそれでごはんは食べられた。満腹になることはなかったが、体は動いた。


 草むらで身を隠して寝ていると、顔を舐められた。犯人は汚れた子犬。本当のグブザフ。


「なんだおまえ。いたの?」


 子犬は尻尾を振って舌を出した。


「いたんだ。そっか……」


 語尾が細く途切れた。住む家と両親とを失ってから、グブザフはこのとき初めて涙を流した。その涙を子犬は飽きもせず舐め取った。


 その日から、灰色の犬――本当のグブザフは、少年グブザフの家族になった。


「飼い犬にするなら首輪をつけたほうがいい」


 犬のグブザフを見たロルじいさんは、唇をひん曲げた。笑いをこらえるような表情はロルじいさんの癖だ。まるで笑顔が罪だとでもいうように、どんな話をするときでも唇をひん曲げる。


「野良犬は駆除される。人を襲うのもいるからな」


「くじょ?」


「殺されるってこった」


「だめだよ」


「だから首輪をつけろ。飼い主がいるってことの証明になる。そうすりゃ、よっぽど凶暴でないかぎり殺されないさ。できれば立派なやつがいい。体も洗ってやれ。牽制になる」


「けんせい?」


「とにかく、目立つ首輪だ。あと、洗え」


「草でつくった首輪じゃだめ?」


「だめだな。名前を彫った札をつけて、革の紐で巻いてやるのがいいだろう」


「くるしくない?」


「そりゃあ、締めすぎたら苦しいさ。かといって緩すぎてもいけない。そこはおまえの腕の見せ所だな」


 革の首輪を用意するためにはお金が必要だった。グブザフは迷ったが、確かに道で死んでいる犬はみんな首輪をしていない。だから必要なのだと納得してお金を貯めた。ひと月かけて、ついに手に入れた。


 革紐は予算の都合で細くなってしまい、子犬の首につけると毛に紛れて目立たなかったが、名前が彫られた札は金属製で、太陽の光をきらりと弾いた。


 彫ってもらった名前は「グブザフ」だ。飼い主の名前であり、子犬の名前でもある。とはいえグブザフは文字が読めない。読み書きができるというロルじいさんに見せて、「まちがいなくグブザフだ」と認めてもらってから、やっと手放しで喜んだ。


「自分の名前ぐらい書けるようにならんとな」


 ロルじいさんはそう言って唇をひん曲げ、呆れたような、ほっと肩の力を抜くような、いろいろなものが溶けこんでいる溜息をついた。


 体はうまく洗ってやれなかった。浅瀬で一緒にはしゃいだだけになってしまい、むしろ汚れてるじゃないかとロルじいさんが尖った声を出した。そうやって叱られることが、グブザフはなんだか嬉しかった。


 十歳になった。


 両親に本名をもらえなかった場合は、祈祷師に頼んで授けてもらったり、親代わりの人につけてもらったりする。だがグブザフは今後も幼名でいようと決めていた。


 十歳を過ぎても幼名のままだと、未熟者だということでまともな仕事には就けないし、結婚も許されない。けれどそれらはグブザフにとって関係のない話に思えたし、なにより両親がくれた唯一の名前を捨てたくなかった。


 さらに一年が過ぎ、グブザフが十一歳の時に、犬のグブザフは死んだ。


 グブザフが騎士を目指す理由は、この時に生まれた。



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