戦場。
その言葉を聞いたとたん、グブザフの脳裡に知らないはずの光景がひろがった。馬が嘶き、剣がぶつかり、矢が無数に飛び交って、血飛沫が舞う。誰かの泣き叫ぶ声まで聞こえてきて、鳥肌が立った。
「結果、王族や貴族の一部は命を落としたが、民衆に犠牲は出なかった。民を損なわないこと。これは国王陛下と父との間で交わされた、最後の約束だ。そして父の意志は、アラニア家全体の意志となった」
グブザフはエマシュから視線を外した。それを引き留めるように声が追いかけてくる。
「約束は、それ一つではない」
再びエマシュを見る。茶色い瞳は熱を帯びて輝き、その奥にちらりと覗くのは、鋭く冷たいなにかだった。
「アラニア家は必ずギレン人の王を廃し、旧王朝を復活させる。ハルンタの民に元の暮らしを取り戻させる。そのための布石を打ってきた。平民が騎士になれる道を開いたのもその一つだ。反発はあったがね。ギレン人の王も貴族も、我々アラニア家を……というより、お金の力を無視できない」
そう言って茶目っ気のある笑い方をする。グブザフは眉根を寄せたが、エマシュは気に留める様子もなく話し続けた。
「賢者の水盤で騎士の資質を見極められると説明し、面接に使うように推し進めたのは私の父だ。精霊との関わりから来ている幼名をギレン人は馬鹿にしているね。だが彼らはけっして精霊を否定しているわけではない。知っていたかい?」
グブザフがかぶりを振ると、エマシュはにこやかに頷く。
「彼らの故郷にも精霊がいるそうだ。もっともこの国の精霊とは違って、子供をさらうことはないらしい。彼らの国の精霊は、非常に特殊で強力な剣を王家に授けたという。それと同じ類いの宝物だと話して説得した、と父は言っていた」
すっと笑いを収めたエマシュが姿勢を正す。たったそれだけで周囲に氷が張ったような緊張感が漂った。グブザフは身をすくめる。
「水盤はアラニア家の秘宝だということになっているが、正しくは国王陛下のもの。三十年前に陛下からお預かりした、王権の象徴だ。この事実がギレン人の耳に入らぬよう、細心の注意を払ってきた。それから、もっと大きな秘密もある。わかるかい?」
問われたグブザフは顎を引いてエマシュの顔色を窺う。なにも返事はしなかったのだが、エマシュは満足そうに頷いた。
「察しているようだね。そう、ギレン人が与える死から逃れた王族がいる。一人や二人ではないよ。当時の王族は民に愛されていた。側に仕えていた者たちが喜んで身代わりを引き受けたそうだ」
それは本当にその人たちの意志だったのだろうか。胸に浮かんだ疑問をエマシュの言葉が追い越していく。
「身分を隠した王族をアラニア家でも匿おうとしたが、残されたのは賢者の水盤だけだ。だがそれで充分。ハルンタの王族の血は強く、けっして失われない。たとえ平民と交わろうと、一滴でも王族の血が流れているなら、それを証明できるなら、王族を名乗れる。賢者の水盤は、王族の血の濃さも教えてくれる。どれほどの白さで水が染まったか。白く濁れば濁るほど、王族の血が濃いことを示している」
グブザフの鼓動が速くなる。知らず視線は床に落ちていたが、ゆったりとした声は遠慮なく耳に滑りこんできた。
「騎士になって、貴族になりたいと言っていたね。騎士は一代限りの貴族だ。だが王族は違う。わざわざ貴族にならずとも、それを飛び越えて王族を名乗れる血を、君は受け継いでいる」
グブザフは唇を引き結ぶ。首に下げた骨を服の上から無意識に押さえた。
「強制はしない。断ってもかまわない。水盤の前に立つ王族の末裔は、おそらく君一人ではないからね。君が先に辿り着いて証明したに過ぎない。だが、だからこそ先んじて選ぶ権利が君にあるのだ。どうか選んでほしい。王族の血を継ぐ者として我々とともにギレン人を追い出すか、今までと変わりなく過ごすか」
沈黙が落ちる。グブザフは視線をさまよわせ、遠慮がちに口を開いた。
「もし……断ったら? その、こんな重大な話を聞いてしまった、ので……」
「どうもしないさ」
エマシュはあっさりと、冷たい響きのギレン語に戻して答えた。
「君は元の暮らしに戻るだけだ、グブザフくん。なにも変わらない。たとえ君が誰になにを言おうとね。夜中にどこかで犬の遠吠えが聞こえるのと同じだ。朝には皆、忘れている」
グブザフは息が詰まるのを感じながら、同じくギレン語で声を絞り出す。
「でも、ギレン人を追い出すなんて……そんなこと本当に、できるんですか?」
もし失敗したらぼくはどうなるんですかと尋ねたかったのだが、どうにも口に出しづらくて、質問は核心からわずかにずれた。
エマシュはグブザフと目を合わせて、頼もしげな笑みを浮かべる。
「準備を怠らない、とだけ言っておこう。確実な未来などこの世のどこにもない。あるのは、不確実な未来を確実なものにするための努力と、覚悟だけだ。君が玉座を取り戻す覚悟を決めてくれるなら、我々は全力で道を切り拓く。君がその道を堂々と歩く姿を見て、きっとたくさんのハルンタ人が喜ぶはずだ。フィヤン地区の人たちも貧しさから解放してやれる」
グブザフはゴクリと喉を鳴らした。はい、とも、いいえ、とも言えず押し黙る。
「すぐに答えを出さなくていいよ。今夜は泊まっていくといい。明日の昼に答えを聞かせてくれ」
温和な口調で語りかけたエマシュは、機敏に立ち上がって扉へと歩き出した。
「あの!」
グブザフは慌てて呼び止める。どんな話よりもまず先に言わねばならないことがあったと、今ごろ気づいて早口になった。
「あの、ごはん、おいしかったです。ありがとうございました」
「ああ、どういたしまして。ちょうど昼食の時間に差し掛かっていたからね。遠慮せず夕食も食べてくれ」
「あ、えっと……ありがとう、ございます」
「そういえば」
ふと気づいた様子でエマシュが尋ねる。
「君の目は灰色なんだね。あまり見ない色だ。ご両親も灰色だったのかな?」
「いえ……ちがったと思います」
「そうかい? 父が言っていたのを思い出したんだが、三十年前に殺された王様も、灰色の目をしていたそうだよ」
その瞬間、首に下げている骨がかすかに震えたのをグブザフは感じた。