面倒臭い事になった……とは、誰かの心の声。氷の如く冷え切った薄い青の瞳がオーギュストと共に現れたノアンを射抜く。冷たさに当てられびくりとノアンの体が震えた。
いつの間にか腰に抱き付いていたリュカまでも震えており、周囲の空気もアイゼンから発生する殺気と化した魔力のせいで北の国に来たのかと錯覚してしまう程寒い。「アイゼン」とヒルデガルダが呼ぶと幾分か殺気が和らいだ。
「ヒルダ、あれ誰」
「王国の第二王子殿下。この国の公爵であるオーギュストと一緒にいても不思議じゃないでしょう」
「そう言われると……そうかも。なら、ヒルダとは何の関係もないんだ?」
「わた――」
「アイゼン様お久しぶりです! リュカを見に来たンですよね? ささ、お嬢も一緒にアイゼン様をお部屋へ案内しましょう」
私の婚約者だと言う前にオシカケが強引に割って入り、会話の主導権をあっという間に持って行った。不満げな目でオシカケを睨むも口パクで「おれの言う通りにしてください」と真剣な表情で伝えられるとヒルデガルダも従うしかなくなる。
「アイゼン」
此方へ来るようアイゼンを促した。ちらりとノアンを見、ふいっと逸らすとヒルデガルダの側まで来た。
「ヒルダに案内されたい」
「誰が案内しても同じ」
「他人はそうでも僕はそうじゃない。ヒルダがいい」
「はいはい」
相変わらずの美形。人間の女性でもアイゼンを前にすれば一瞬で陥落させられるだろう。ヒルデガルダが案内役を担うと急に上機嫌となり、ヒルデガルダの手を掴み先へ歩いて行ってしまった。
「ふう……まさかアイゼンが来ていたとは」
アイゼンに手を繋がれて屋敷の奥へ行ってしまったヒルデガルダやヒルデガルダの腰に引っ付いたまま共に行ってしまったリュカを見送ったオーギュスト。その場に残ったオシカケに「後は頼むぞ」と託した。
「ええ。アイゼン様については任せてください。ほぼ、お嬢がいればいいだけですけど」
頬に浮かぶ冷や汗を袖で拭ったオシカケは一つの脅威が去って安堵していた。あの場でノアンが婚約者だと知られれば、何百年もヒルデガルダに片想いしているアイゼンの逆鱗に触れていた。
「公爵、今の男は……?」
「彼はアイゼン。私の……知り合いです」
実際はヒルデガルダを通して知り合った。
「そう、か。だがヒルデガルダに随分と馴れ馴れしいように見えたが」
「まあまあ付き合いが長いので。さて、王子は私と来てください。ミラ、後は頼むぞ」
二度目の台詞に再度返事をしつつ、何故ノアンを連れて戻ったのかと訊ねたオシカケに「ちょっとな」とだけ言って二階へ行ってしまった。
二人階段を上がって二階へ行ったのを見届けた後、飲み物の準備をするべくオシカケは厨房へと足を向けた。
サロンに到着すると腰に引っ付いているリュカを引き剥がし、ソファーに座らせて自分も隣に座ろうとした瞬間。「ヒルダ」と名前を呼ばれた挙句、腕を掴まれ向かいに座らされた。隣は無論腕を引っ張った張本人。
「僕の隣でいいだろう」
「態々座る必要があるか?」
「久しぶりに会ったってのに冷たくないか」
「いつもこんな感じだが」
記憶を辿ってもアイゼンに変わった接し方はしていない。ずっと同じ。
一人でソファーに座らされたリュカが所在なさげに視線を彷徨わせているのに気づき、「リュカ」と呼んでやれば飛ぶ勢いでソファーから降りてアイゼンの反対側に座ってヒルデガルダのお腹に抱き付いた。隣から発せられる不穏な気配に対して呆れを覚え、白い頬を力一杯引っ張ってやった。
「いたたたたた、わ、分かった、悪かった」
「分かっているなら最初から大人しくしていろ」
頬を持つ手を離したらアイゼンは痛そうに頬を擦る。
「子供の姿になれば僕もヒルダに甘えていい?」
「お前は大人だろう。子供の姿になろうが変わらんぞ」
「残念」
「大人な分、妾と対等に接せられる。これでは不満か?」
「……はは、いや? 全然」
不機嫌だったのにヒルデガルダの言葉によって上機嫌へと変化する。赤くなっている頬はもう擦らず、ぎゅうぎゅうヒルデガルダのお腹に顔を埋めているリュカを薄い青の瞳が見下ろす。
「予想していたより元気そうじゃん」
「元気にしたんだ」
「ヒルダ達から貰った情報を元にこの子の生家を調べた。この子を殺そうと人間界まで追い掛けていた異母兄弟は捕らえて母共々娼館へ送った」
「父親の方は? 元はと言えば、人間の娘にこの子を産ませた父親が問題だろう」
「ああ、そっちは魔界の結界を維持する魔力供給に協力してもらってる。強い魔族だし、二、三百年はもつよ」
「そうか」
人間を食い物にする魔族もいれば、人間界で平穏に暮らしたいと願う魔族もいる。後者の魔族にとって人間界で悪さをする魔族は邪悪でしかなく、今回リュカを追って殺そうとした異母兄弟も人間界を荒らしたとして母親共々娼館送りにされた。魔界の筆頭公爵家の当主が人間界が大好きでアイゼンから話を聞かされるとすぐに動いた。父親の方は、美しい人間の娘に似た我が子が男でも人間の娘の代わりをさせようと企んでいたらしく、妻や子供達がリュカを虐めようと殺さなければいいと放置していた。捕らえられた父親は今代の魔王の魔力が前魔王よりも弱いこともあって、結界維持の為に開発された装置の魔力供給係に任命された。
体中を管で繋がれそこから魔力を無理矢理搾取される。食事も休憩もあるが逃げられないだけ。
「あ……あの……」
話を聞いていたリュカがそっと顔を上げた。
「ぼ……ぼくの、異母兄弟達は……皆もうぼくを追い掛けて人間界へは……来ないですか?」
さっきのアイゼンを見て慎重に言葉を選んで話している。ヒルデガルダに向けていた愛想の良い笑みは消え、冷淡な表情が浮かんだ。
「来れるものなら来たらいいさ。送られた娼館は高位貴族御用達の高級娼館。逃げるより、ずっといた方が楽でいい」
「娼館での仕事は楽なのか?」
「全然? ただ、娼館の規模で大きく異なる。高級娼館ともなれば、娼婦達の健康管理や客の質も徹底される。通うのは身分と人柄が認められた奴だけ。乱暴な奴が行って娼婦に傷を付けたら価値が下がって娼館側は商売にならないだろう? 客が娼婦を選ぶように、娼婦側も客を選ぶのさ」
「そうなのか。今度妾も行ってみるか」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げたアイゼンのせいでリュカは震え、またヒルデガルダのお腹に顔を埋めた。
「声が大きいぞアイゼン。リュカが怖がる」
「ヒルダが変なこと言うからだろう! 大体、娼婦は女。男が女を買う店に女のヒルダが行ってどうすんのさ!」
「女が男を買う娼館もあるんだ。そっちへ行けばいいだろう」
「はあ!?」
また素っ頓狂な声を上げたアイゼン。リュカも漏れなく震える。再度、声が大きいと指摘してもヒルデガルダのせいにされる。
「お嬢! さっきからアイゼン様の声が部屋の外まで聞こえてますけど何を話して……!」
「良い所に来たオシカケ」
飲み物とケーキを載せたカートを押して部屋へ突撃したオシカケ。冷や汗の量と顔色が面白い事になっている。指摘したら「お嬢のせいでしょうが!」と声を上げられた。
一体アイゼンに何を言ったのかと問われたヒルデガルダはそのまま話した。口をあんぐりと開けると深く項垂れたオシカケの体はカートを三人の側へ押すのを忘れていなかった。到着するなり慣れた手付きで飲み物とケーキをテーブルに置いていった。
「……ミラ」
地の底を這うアイゼンの殺気に溢れた声がオシカケを呼んだ。
「ヒルダは男が売られてる娼館に通ってるの……?」
「通ってませんよ何だったら閨の知識すら皆無な人ですよ!? そんな人が男を買ってもなんっっっにもしませんよ!!」
「で、でも、さっきヒルダは男を買う娼館って……」
「お嬢!!」とオシカケの怒りの矛先は、腰に抱き付いているリュカを起こしてジュースを渡したヒルデガルダに向けられた。
「アイゼン様を誤解させるような発言は止めなさい! アイゼン様はお嬢に長~~~い片想いをしている人なンですから!」
長い片想いをされているのはヒルデガルダとて知っている。
アイゼンの気持ちに応える気がヒルデガルダにはない。
「アイゼン。お前もそろそろ他を探したらどうだ。人間になった妾に拘っても高位魔族のお前とは釣り合わんよ」
「……嫌だ」
小さく、拗ねた声色。後ろを振り向くと声色と同じ表情をしたアイゼンがいた。
「僕は……ヒルダがいいんだ。魔族から人間に生まれ変わってもヒルダがいい」
「どうしてそこまで拘る。長い付き合いと言ってもお前と妾では、生まれも生きて来た世界も違うのに」
「うん……でもヒルダ、君じゃなきゃ僕は嫌だ。僕が魔族だからって言うなら、魔力を捨てて人間になってもいい」
寂しげでありながら、紡ぐ言葉のどれにも嘘はなく、心の底からヒルデガルダを愛している。
「魔界を捨てた妾が言うべきじゃないが……お前までいなくなったら、強い魔族はいなくなるんじゃないか」
「ヒルダが人間に転生した時点で魔界に残る理由なんて僕にはない。……今でも後悔してるんだ、初めて会った時のこと」
「……」
長い睫毛に覆われた瞼を伏せ、表情を暗くしたアイゼンの言葉。部屋に入った最初は煩かったオシカケや怯えていたリュカは二人の様子を静かに見つめていた。
「アイゼン。お前は後悔していても妾は感謝している。していなかったら、お前とは……えっと……八百年も付き合いはしてない」
「……そう?」
「ああ。お前がくれたリンゴの味は人間になっても忘れていない」
生まれが碌でもなければ親も同じ。たったの五歳で親に捨てられ、毎日を死に物狂いで生きていた。幸運にも強い魔力を持って生まれたが上手に扱えなかった幼少期は泥水を啜り、生えてある草を何でも食べ、時に食料を盗んで生活していた。
一度だけ死にかけた時があった。店で食料を盗んだまでは良かったが店主に見つかった挙句、捕まって何度も殴られた。当時はこんな所で死んでたまるか、という生への執着がヒルデガルダの魔法の才を開花させた。初めて使った魔法は店主を殺した。炎に焼かれ、絶叫を上げて苦しみながら死んでいく様を呆然と見ていたのをよく覚えている。
盗んだ食料まで燃やしていると気付くと落ち込んだ。そんな時に――アイゼンに会った。
「貴族が来るような場所でも無かったのに、どうしてあそこにいた?」
「いたというか、いつも使ってた道が前日の大雨のせいで使えなかったから仕方なく道を変えたというか」
馬車に乗っていたアイゼンは降りるなり、炎に包まれた倒れる男の側に立っているヒルデガルダをじっと見つめると馬車に戻った。またヒルデガルダのところに戻ると最初に持っていなかったリンゴを持っていた。
『やる。お腹が減ってるんだろう?』
『お貴族様の子供がどうしてこんなところにいる。此処はお前みたいなのが来る場所じゃない。さっさと消えろ』
『っ、折角施してやろうと思ったのに!』
質問には答えてもらえず、優しくしたのに、逆に帰れと言われてしまってカッとなった幼き日のアイゼンはリンゴを地面に投げた。幸いにも割れなかったリンゴはヒルデガルダの足元へ転がった。
「……一目惚れだったんだ」
「お前が見て来た中で一番汚かったろうに」
当時を思い出したアイゼンは両手で顔を覆い、背中を丸めて落ち込んでいる。オシカケが持って来たケーキの内、フルール盛り沢山のケーキをリュカに渡したヒルデガルダが面白おかしく言う。
「あの後、馬車に戻った後すごく後悔したんだ……。ヒルダが言っていたのは正しかったし、もっと言い方があったんじゃないかって」
「子供だったんだ。仕方ない。だけどお前がくれたリンゴはとても美味しかった」
「……うん」
地位も名誉も他人にも興味がなかったヒルデガルダが心を開くとても数少ない相手。自覚しながらもヒルデガルダの前でだけは、どんな時だって格好つけたい。