二〇一三年。七月の後半、私と北川は夏の厳しい日差しに負けて、ファミレスに涼みには入った。
北川はいくつか料理を注文し、その後テーブルに届けられたピザをちまちまと頬張っている。私は食欲がなかったので、料理は頼まずドリンクバーでコーラを汲んでそれを半分ほど一気に飲んだ。喉が渇いていたので炭酸の刺激と冷たさが心地よかった。
「でさ、一ノ宮。歌手になりたいってどうするつもりだ?」
私はどう説明するべきか、しばし悩んでから答える。
「一般的にはレーベルへのオーディションですかね。それが一番メジャーなやり方だし、そうしようかなって思ってます」
「そもそも一ノ宮は歌が上手いのか」
「えっと、それは……」
私の歌の下手さは筋金入りで、一度興味本意でカラオケに行った時、精密採点で六十点台を叩きだし、正真正銘音痴だと機械から評価を受けたことがある。
「すごい音痴です」
「壊滅的じゃないか。どうするんだよ」
私はバツが悪くなって視線を宙へ移し、ぼんやりとした。
「誰か歌を教えてくれる人がいるといいんですけどね……でも私に友達なんていないし」
北川はすると咳払いをして、「俺はお前のこと、友人だと思っているぞ」と言い出した。私は驚いて体が固まった。
以前のような嫌悪感は、もう北川には抱いていない。今は自然に会話もできる。そしてこうして友人だとはっきり口にしてもらえることに嬉しさがあった。
「で、親戚に歌が上手い奴がいるんだけどそいつを紹介するわ」
北川が電話をかけてから一時間後。私たちの席に金髪ロングの高級ブランドの衣類に身を包んだ女性が現れた。
「この子が江美ちゃんね。よろしく。聖斗の姉の希だよ」
「よろしくお願いします。……お二人、姉弟なんですね」
希は温かな笑みを浮かべて北川の肩に腕を回した。
「そうだよ。江美ちゃんにもぜひ、お姉ちゃんって言ってほしいかな」
えっ、と思わず声が出た。初対面でいきなりお姉ちゃんと呼べというのは少し、いや大分とおかしいんじゃないかな。
「何言ってんだよ。一ノ宮が困ってるだろ。早く座れって」
希がはいはいと言って、北川の隣に座る。それから希は店員が持ってきたカルボナーラをかっさらう。
「おい、それ俺が注文したものだぞ。返せって」
「硬いこと言わないでいいじゃない」
カルボナーラをずずっとすすってから希が私に問いかけた。
「江美ちゃんって好きなアーティストとかっているの?」
「『rein』っていう歌手です。すごく繊細な歌声が好きで」
「いい趣味してるじゃない」
『rein』は私が一番好きな歌手で、覆面アーティストというベールに包まれた存在。紡がれる歌声が女性の艶美な特徴を持つ。
「それで聖斗からさっき聞いたんだけど、すごい音痴なんだって?」
私ははっきり口にされると恥ずかしくて俯いた。
「言っておくけど歌手の世界は厳しいよ。十年生き残れたらすごいし、最初の下積みだけでもしんどいし」
「……でも、私にはどうしても歌手にならなくちゃいけない理由があるんです」
希がくすりと笑って、
「それって小野君がからんでそうだね。いやー、青春だね。恋心だね」
「ちょ、ちょっと……。ってか、健二君のこと知ってるんですか?」
北川から話は聞いているのだろうか。そう思って訊ねると、
「会ったことあるのよ。キャバクラで」
え、と私は絶句した。あの健二がキャバクラに……。信じられないと思うが、ヤクザの付き合いならあり得るかもしれない。そして、希はキャバ嬢なのか。まあ、この容姿ならつとまるだろう。
「かわいかったな。小野君、すごいピュアで」
希の言葉に心がさざめき立つのを感じた。もやもやする。するとそんな胸の内を見透かしたように希は笑って、
「もしかして嫉妬してる? 江美ちゃんも純粋だな」
「そんなんじゃないですって」
慌てて否定するも、説得力なんてなかった。
北川が呆れて助け舟を出すように言った。
「そこら辺にしてやれよ」
希はそんな北川を膝でつつきながら、「こりゃ小野君と江美ちゃんと聖斗の三角関係かな。お姉ちゃん、興奮するな」と微笑んだ。北川は照れながら「そんなんじゃねーよ」とグラスに入ったコーヒーを飲み干した。
*****
二か月後。九月の初旬。夏休みが終わり、うだる暑さが尾ひれをひいているこの頃。
私は校舎裏に夏木に呼び出されていた。内心、夏木に対する嫌悪感を抱きながらそこへ向かう。
昨年、夏木に詰め寄られた私は彼女に心を許したが、結局裏切られて攻撃された。今でもそのことを思い出して苛々してしまうこともある。
なんの用だと警戒して、校舎裏を覗く。すると夏木が思いつめた表情で煙草を吸っていた。そして私に気付くと煙草を地面に捨てた。
私は夏木と距離を取って話しかける。
「何か用なんですか」
「あんた、健二が逮捕されたことは知っているわよね。それで一言、言っておきたくて」
嫌味を言われるのだろうかと身構える。
「ごめん……」
「は」
なぜか謝られた。それに戸惑っていると、
「私さ、健二のことが好きだったんだよね。こんな話、あんたにしてもわかんないと思うけどさ。私のおじいちゃんが『多田組』の総長でね、組の人が健二を入組させたいと考えているのを偶然知ったのよ。そこで自分が何か健二を守れる方法を考えてそれで交際を始めたのよ。でも全部駄目だった」
夏木は歯を食い縛って何かを耐え忍んでいるようだった。きっと罪悪感だろう。夏木が沈鬱な溜息をついた。
「何話してんだろ。ごめん、私の話なんか聞きたくなかったよね。忘れて」
私はこの時思った。夏木も苦しんでいたのかもしれない。好きな人が堕ちていく姿を見て、でもどうすることもできない自身の無力さを嘆いた。その想いなら、私も同じだから。私はそっと彼女の隣に腰掛けた。
「織田さん。私たちもう一度友達になりませんか。本当(・・)の」
夏木は口をあんぐりと開けて驚いた。「……どうして」
「私は織田さんのことを憎んでいた。でもあなたを理解できる。きっと私たちは根っこの部分は同じなんですよ。なら、仲良くしませんか?」
夏木はきっと私をいじめることに何か深いわけがあったのかもしれない。誰かをいじめるような人が、他人のために行動は起こせないだろう。いじめる側は常に利己的だからだ。
「何それ、同情?」
「友達になりたいんですよ。いけませんか?」
夏木の顔がくしゃりと歪んだ。「なんかあんた変わったね。強くなった」
そう言われても自覚はないのでよくわからなかった。
「いいわ。友達でも恋人でもなんでもなってあげる」
「いや、恋人はちょっと……」
夏木が一本煙草を取り出して私に差し出した。「一本吸う?」
私は丁重に断った。煙草は苦手だ。