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第34話 歌手デビューへ

 それから半年以上が経って——二〇一四年、四月の中旬。


 大学の進学を目標に勉強している傍ら、歌の練習も励んでいた。


 少しは上達して、音痴もマシになったかもしれない。


 そんなことを考えながら英文法をノートに走らせていると、携帯の着信が鳴った。画面を見るとメールだということがわかる。メッセージは希からだった。


『今から会えない? 歌のことで話があって』


 そのメッセージに私は苦笑した。


『またラブホテルは嫌ですからね』

 と送信した。今の時刻は午後十一時。また前みたいに悪ノリでつれられたらたまったもんじゃない。


 急いで勉強道具を片付けて、母に出かける旨を伝えてから待ち合わせのファストフード店へと向かった。三十分ほどで着いて店内に入り、周囲を見渡す。入口近い席に希はいた。私は少しお腹が減っていたのでポテトのLとエスプレッソのコーヒーを注文し、それが乗ったトレイを持って希の席に座った。


「こんな時間にそんなもの食べると太るよ」と希が余計なことを言ってきた。


「放っておいてくださいよ」


 そしたら希はけらけらと笑って、「ごめんごめん」と全く悪びれもせず言った。


「聖斗と仲良くしてくれてるんだって? ありがと。あのバカ弟は喧嘩ばっかりする頭の悪い子でね。浮いた話がなかったから」


「いや、私の方が彼に遊んでもらっているんです」


 すると希はにやにやと、


「やっぱかわいいなあ。うちの妹にしたいなあ」


「何を言ってるんですか! 恥ずかしい」


 希はひょいと私のポテトをつまんで食べた。


「だって江美ちゃんと接してると、なんかうさぎを愛でてる気分になるんだよね。愛くるしいなあって」


 やばい、この人恥ずかしいことを平然と言ってのける人だ。苦手すぎる。


「そんな耳まで赤くならなくても。恥ずかしかった? 今からやっぱりホテルに行く?」


「行きませんよ。これ以上馬鹿にしないでください」


 希が少年のような笑い声を上げた。この人、以前のラブホの時といい、今といい全く反省してないな。私をからかってばかり。そんな苦言を呈すると、


「だって江美ちゃんの反応が面白いしかわいいんだもん」


 私はもう何も言うまいと溜息をつき、話題を変えた。


「で、話ってなんですか」


「ああ、そうそう。『AKATUKI』っていう池袋にある音楽バーで働いてみる気はない?」


「え、ウェイター?」


「うーん、ウェイターだけど人前で歌ったりすることもあるかな」


 私は首を振った。


「そんなの無理ですよ。私に接客業なんて。しかも歌うとか……」


「歌手になりたいんでしょ? これも経験だって。音楽事務所のプロデューサーとかもよく来る店だし、スカウトされるチャンスがあるよ。ねえ、悪い話じゃないと思わない?」


「う、うーん」


「店は私が前に働いていたところだし、店長もいい人だから安心していいよ」


 そう押し切られ、私は首肯していた。


  ***


『AKATUKI』店内にて。


 広めの部屋とこぢんまりとしたステージに、六つほど並べられたテーブル。ここには著名な音楽作家やプロデューサーがこぞって来店するらしい。


 北川は緊張しながら、隣にいる夏木に話しかけた。


「あと十分で一ノ宮が歌うんだよな。なんか緊張するな」


 席の前のスタンドステージには、様々な音楽機材やマイクがある。けれど、ここであの江美が歌うというのは上手く想像が出来ない。


「うるさいわね。静かにしてよ。私も不安なんだから」


 夏木の前に座っている——ちなみに三人は一つの円卓を取り囲んでいる——希がくすくすと笑って、


「大丈夫だよ。きっとあの子は成長しているだろうし。働き始めてから二カ月が経つし、客の前で歌うのは三回目だしね。上手くなっているんじゃないかな」


 今日は六月三十日。北川と夏木は希の誘いを受けて来たはいいものの、江美のよほどの音痴は知っているので、客から罵声を浴びせられないかと心配しているのだ。


 北川がウェイターを呼んで酒を注文しようとすると、


「あんたまだ未成年でしょ。あっ、リンゴジュースでいいです。聖斗はまだ子供なんだから」


 希がリンゴジュースを勝手に注文し、北川を微笑みながら馬鹿にした。

 そんな行動に苛々としながらも、運ばれてきたリンゴジュースを口に含む。舌にまとわりつくような甘さに思わず顔を顰める。


「あの人、橘さんだ……」


 隅のテーブルにいる無精ひげを生やした五十代ぐらいの男性を希は指差した。誰だと思ってしばらく眺めていると、記憶の片隅から呼び起こされた情報とその人物が合致する。


「ああ、昔姉ちゃんをスカウトした人か」

「どういうこと?」


 夏木が食いついてきたので説明してやる。


「姉ちゃん、一時期歌手になろうとしてたんだよ。その実力がすごくて色んなレーベルからスカウトが来てた。橘さんはその中の一人」

「えっ、すごい。あんたと違って希さんって才能あったんだ。あんたと違って」

「おい、織田。二言も余計だぞ。わざわざ繰り返すなよ」


 夏木が嘲笑いながら、


「だって事実じゃない。あんたには才能がないんだから」


 この女、と北川は夏木に掴みかかった。


「才能がない、才能がないって、じゃあお前はなんの才能があるんだよ。人を子馬鹿にする話術か?」


 なおも夏木は嘲り笑っている。こいつ、女じゃなかったら殴ってたところだぞ。

 すると、北川と夏木のやり取りを見ていた希はくすっと笑って、


「なんかお似合いだねぇ二人とも。もしかして付き合ってる?」

「いや、違いますよ」

「そうだよ。まだ付き合ってねーよ」


 夏木がいぶかしんだ目で北川を睨んだ。「まだってどういう意味?」と、その声には多少の怒気も含まれていた。

 やばい、怒らせたかと狼狽える北川と詰め寄る夏木の姿。それを見て希は満足したみたく息をついた。


 スタンドにぞろぞろ楽器を持った男たちと江美が現れる。空気が静まった。


 江美は少し俯いてマイクを手に取り、挨拶を始めた。わずかな声をマイクが拾って部屋中に拡散する。


「初めまして。一ノ宮江美です。今回も精一杯歌わせてもらいますのでよろしくお願いします」


 そして——ベースの低い唸りが室内に響いた。それから江美は“絶望”のブレスをさも行って、観客を不安に陥れた。歌声は音痴を感じさせるものではなかったし、半年以上でこれほどまで上達したのかと感服するほどだった。この不安な歌声に聴き惚れてしまう。


 曲が終わると、わずかな拍手が響いた。

 視線を巡らすと、橘が顎に手を置いて何かを考えているように見えた。


「江美ちゃんにこんな才能があっただなんて。ねえ、聖斗。彼女はどんな生き方をしてきたの?」

「えっと……健二が言うには、小学生の頃から周りになじめなくていじめられてきたらしい」

「だからか……」


 一人納得する希に夏木が「どういうことです」と訊ねた。


「歌に江美ちゃんの心の闇が露われているのよ。色んな人に虐げられてきた過去があるからこそそう歌えるのね。夏木ちゃんも聞いていて不安を感じたでしょ。絶望の歌なのよ。でも、その裏に潜む微かな希望も感じられる。だからもし彼女にレーベルと、作家が付けば彼女の歌はきっと売れる」


 もしそうならすごいと北川は思った。それも江美の才能だろう。彼女の生き方が類を見ない歌声に変容してそれが売れるのならば、彼女も報われるのかもしれない。


 しばらくして裏から江美が現れた。こちらに小走りで向かってくる。


「来てくれたんですね。ありがとうございます」

「すごかったわよ。江美ちゃん、あなた才能あるよ」


 希から褒められて嬉しかったのか江美は微笑んだ。


「確かにすごかった」


 太い男性の声。声のした方を見ると橘が立っていた。


「えっと……」


 突然のことに困惑している江美。すると橘は希を見つけて驚いた。


「君は希ちゃんじゃないか。まさか二人はご友人?」


「ええ、そうです。橘プロデューサー」


 江美は目を見開いた。プロデューサーに話しかけられている意味を察してだろう。緊張しているのか呆けている。

 橘が江美の方に向き、名刺を差し出した。「君には歌の才能がある。もし歌手になりたかったらここにある番号に電話して」そして去っていった。

 江美は名刺をまじまじと見つめてもうまく状況が呑み込めていないのか、あわわと声が漏れている。

彼女はこうして、一歩ずつ前進していくのだろうなと北川は予感した。


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