目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第35話 焼肉

 事務所に所属して一カ月が経とうとしていた。七月三日。


 昼間は学校に行き、夕方から夜十時にかけてレッスン。それから受験に向けて夜中の三時まで勉強する日々が続いた。

 はっきり言って寝不足だ。授業中やレッスン中に思わずあくびしてしまうことも増えた。


 鏡に映る自分の顔の隈を見て憂鬱な気分になる。

 今からレッスンに行くので、見た目を気にしてメイクで隈を隠す。

 それからリビングにいる母に出かける旨を伝えようとすると、高弘に話しかけられた。


「お姉ちゃんがんばってるね。羨ましいなあ。俺なんて才能がないから」

 するとそんな羨望の眼差しを向けている高弘に、母の顔が歪んだ。

「あんたは中学も卒業したくせに、進学するわけでもなく、ただ家で引き籠ってばかり。人の才能を羨むぐらいなら働きなさい」


 そんな苦言に高弘は鬱陶しそうに頭を掻いた。


「母さんは働け働けってうるさいな。俺だってちゃんと考えてんだよ」


 そう言って高弘は部屋を出て行った。母は疲れた顔で溜息をついた。


「どうしてあんな風に育ったんだろう……。小さい頃は優秀だったのに」


 もしかすると母は昔の高弘に縋っているのだろう。今の高弘は昔に比べて母の思うような子供にはなっていない。母は自身の理想を相手に押し付け、それを超えることを求めてくる。それに応えてきた私たち姉(きょう)弟(だい)は、いつしか顔色ばかり窺うようになった。そんな母に弟は嫌気が刺したのだろう。そして段々と周囲となじめなくなって不登校になった。今では「親」と「環境」のせいにして高弘は生きている。


 高弘の気持ちは痛いほどわかる。親の期待は鉛のように重たい。

 私は出かけることを伝えてから家を出た。

 電車とバスに乗り継ぎ、事務所の前に着く。大手音楽事務所『O・T』は有名歌手を多数抱える人気事務所で、ここでデビュー出来たらCMなどの楽曲にタイアップされ大々的に売り出される。


 レッスン場に入ると、もうちらほらと人がいた。

 部屋は広めで、大きなグラウンドピアノがあるのと前面鏡張りで、ここでボーカルとダンスの練習をする。


 私は隅の方に体育座りをして、講師が来るのを待つ。

 時間が経つほどに人が集まりだした。ボーカルを目指すレッスン生の男女比の割合は二対八だ。たとえ、女性が多くても私は友人を作れずにいた。皆明るくて陽気な性格で、私とはあまり合わないと思っていたからだ。


 部屋に入ってきた長身の女性を、皆が注目した。その女性の名前は柚島花蓮。とても美人で見入ってしまう容姿を持っていた。だが、柚島は話しかけられても素っ気なく返答し、そんな態度を取っているから自然と孤立していった。歌の才能はレッスン生の中で一番あって、噂によると特待生らしい。そんな孤高の柚島を気に入らない者も多い。だからか、彼女に聞こえるように陰口を叩くなど陰湿な嫌がらせもあった。


 部屋に入ってきた四十代ぐらいの講師が、グラウンドピアノの前に座り早速ボーカルレッスンを始める。音階に声を合わせる基礎練習だ。


 それが終わると次に事務所で抱えている有名女性シンガーの曲を歌わされる。それを講師が一人一人採点を行って評価を付ける。こうした評価が優れている者にデビューさせるのだ。だから自然と歌う時に緊張する。


「今日も柚島さんはすごかったです。皆さんも彼女を手本にして頑張ってください」


 講師の誉め言葉にも柚島は涼しい顔だ。それを見た女性たちが嫌な顔をする。

 今日のレッスンが終わり、講師から呼び出されて課題を出された。


「一ノ宮さんは誰にも歌えない個性的な歌唱があるけど、尖りすぎてるから普遍性を追求してみてはどうかな」

「はあ、わかりました」


 その普遍性がよくわからないでいるまま、帰り支度をしていると声をかけられた。見ると柚島が立っている。


「ねえ、このあと一緒にご飯に行かない?」

「は」と素っ頓狂な声を上げてしまった。


 孤高の柚島が私と食事?

「嫌ならいいんだけど」

「いや、大丈夫ですよ。行きましょう」


 ちょっとびっくりしただけで、と笑う私を見て不思議そうに首を傾げる柚島。

 するとこのやり取りを見ていた、柚島を嫌う女性グループが何かを言い合っているが、まあ気にしないでおこう。


 事務所を共に出て、柚島が「近くの焼肉でいい?」と訊いてきたので私は頷いた。レッスン終わりの十時に開いている店は少ないだろう。だから特に異論はなかった。

 柚島に案内された場所はチェーン店の焼肉食べ放題だった。

 意外だった。柚島は華奢な体で、少食だと勝手に思っていた。すると、それを察したのか、


「私、大食いなのよ。だからこうして外食するときは食べ放題の店を選ぶんだ」


 入店すると店員が愛想良く席に案内してくれた。その後店員が火を点けて調節してくれる。


 柚島が早速机の隅に置かれたタッチパネルで注文し始める。それから私もそれを受け取り白米とロースを注文する。


 私は誰かと外食したことが少ないし、しかもあの柚島だ。自然と緊張してしまう。それを悟ったのか柚島は微笑んだ。「緊張しなくてもいいよ」そんな表情を見るのは初めてで、こんな顔も出来るのだと感じた。いつも無表情だから冷たい印象を持っていたが、本当は優しい人なのかもしれない。


「えっと……どうして私を誘ってくれたんですか?」


 ウェイターがジョッキビールを運んできた。それを柚島が少し飲んでから、


「あなたに興味があったから、かな」


 意味深な笑みを浮かべて言った。私はその意味がわからず首を傾げる。


「あなた、かわいいから」

「へ?」


 すると柚島が頬を染めて、「えっと、今の忘れて。すごく恥ずかしい」と言った。

 確かに急にかわいいなんて言われたらこっちも照れるけど、でも女性同士ならその言葉はなんでもないような意味だ。だがさっきのニュアンスには別の意味が含まれているように思えた。けれどそれが何なのか考えてもわからない。

 上カルビが三つ置かれた。それを網の上でこんがりと焼き始める。


「ここの上カルビ、おすすめなの。あなたも食べる?」

「はい」


 柚島が慣れた手つきで焼かれた上カルビを皿の上に乗っけた。私はまるで焼肉奉行だな、と思った。


 そういえばまだ私が幼少期の頃、焼き肉店に来た時に父親が率先して肉を焼いてくれた。


 両親はもう離婚しているのだが、父の存在の代わりを高弘が担おうとして、母に「気持ち悪いことしないで」と拒絶された。高弘なりに家族のことを思って行動したのに、だ。もしかしたら今もその言葉が高弘を苦しめているのではないか。


 そんなことを考えながら肉を食べると、程よい弾力と甘辛いタレを堪能した。「美味しいです」と言うと柚島が、「でしょ」と笑いかけた。

「一ノ宮さんって歌上手いよね」


 驚いた。同じレッスン生、しかも特待生の柚島から褒められたことに。湧き上がるように喜びの感情を感じる。興奮交じりに、


「特にどこがですか?」


 と訊くと柚島が困惑した表情をした。やってしまった。上手いという言葉は建前だろう。それなのに自分は喜んでしまって……。柚島への申し訳なさから気分が下がる。


「……すみません」


 と謝ると柚島が慌てて、


「違うのよ。言いたいことがいっぱいあって考えただけなのよ。お願い、勘違いしないで」


 柚島に気を使わせてしまった。私はどんどん項垂れてしまう。本当、申し訳ない。


「いや、ね。一ノ宮さんの歌は落ち込んでいる人に寄り添うことが出来るものなんじゃないかなって思うんだ。それってすごいんだよ」

「人に寄り添う?」

「そんな歌手はほとんどいないよ。才能があると思う。羨ましいなあって感じてるんだいつも」

「いやいや、そんな。柚島さんの方がすごいですよ。歌唱力もあって」

「私なんてデビュー出来たとしてもすぐに埋もれるよ。魅力がないし私にしかない武器なんてないからさ」


 そう謙遜する柚島はどこか悲しげであった。私はそんな彼女にどうして人と距離を取るのかと訊いてみた。すると柚島はじっとジョッキを見つめて、


「私は、病気なんだ」


 しまった、個人的なことを訊いてしまった。すぐに謝ると、柚島は手を振って大丈夫だよ、と笑ってくれた。


「でも、あなたにだけはいつか話すから。病気のことを」

「どうしてです?」


 なぜここまで信用されているのだろうと疑問に思った。まだ話し始めて三時間も経っていない。


「あなたと私の病気はとても関係しているからよ」


 その言葉の意味が、あまりわからなかった。

 退店してから奢ってもらったお礼を伝える。「また行こうね」と微笑んでくれた。

 去っていく柚島の背中を見つめながら、意外な一面を知れたと嬉しくなった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?