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第36話 結婚?

 十月十五日。夏木は祖父に激昂していた。

 祖父はリビングの高級なソファに深く腰掛け堂々と足を組んで、夏木の怒声を軽く聞き流している。夏木はそんな祖父の態度になおさら苛々した。


「どうして私がソープで働かなくちゃいけないのよ。私は大学に行きたいのよ」


 祖父は呆れたように溜息をついた。


「お前のようなアホに学費なんか払うかよ。ちょうどうちのソープが人手不足でな。お前にはキャバクラなんて無理だし、いいから言うことを聞け」


 どうしてよ、どうしてよと駄々をこねても祖父は聞く耳を貸さない。夏木は耐えられなくなって家を飛び出した。

 路地裏を歩いていた。夜の十時とあって人気ひとけなんてなかった。

 行く先なんて決めてない。ただ放浪するだけだ。そうして気持ちの整理を付けようとする。


 すると後ろからヘッドライトの灯りが近づいてくる。夏木は道路の隅に寄って、車両が通り過ぎるのを待つ。


 だがそのバイクは消えることはなく、夏木の側で止まった。そのバイクは見慣れた改造車だった。乗っているのは北川で、夏木を見てしばし凝固していた。


「何暗い顔してんだよ」

「うるさい、放っておいてよ」

 しっしっ、と手を振った。そしたら北川は溜息をついて、

「後ろに乗れよ」

「あんた、話聞いてた? 消えろと言ってるのよ」


 北川は陰鬱な表情の夏木と対照的な笑みを見せて、馬鹿だなと言った。


「落ち込んでる女を見捨てるほど俺は腐っちゃいねーよ」

「あんたいつからそんなキザなセリフを吐く二枚目になったのよ。この四枚目が」

「四枚目って、どんだけ俺ブサイクなんだよ」

 それから押し問答を繰り返し、根負けした夏木はバイクに跨った。北川が楽々とアクセルを回した。

「あんた、飲酒運転じゃないわよね。怖いんだけど」

「いいから黙っとけ」


 三十分ほど走ると県道に入った。そこから峠道を抜けて森林の側でバイクが止まった。エンジンが切られる。

 夏木はいぶかしんだ。「どこよここ」


「近くに綺麗な場所があるから、もうちょっと我慢してくれ」


 そう言った北川はどこか楽しそうだった。

 北川の後ろをついていくと、橋を渡ってから見え始めた絶景に感動した。

 それは池だった。幻想的な池で、絵本にでも出てきそうな風景だった。月が池に反射していて、そこから天使が生まれるみたいに、神聖な場所だった。


「綺麗だろ?」


 煙草をくわえながら言った北川。夏木は、こんな場所と北川は似つかわしくないなと感じた。北川が発する暴力の気配と池の神聖さは相反する。


「どうしてこんなところ知っているの?」

「地方遠征の時に先輩から教えてもらったんだよ」


 その先輩が結構ロマンチストでさ、と屈託なく笑う。夏木はいつの間にか安心していることに気付く。

 夏木は北川と共に近くのベンチに座り、目の前に雄大に広がる池を見つめた。


「なんか嫌なことがあったのか?」


 夏木は祖父から言われたことを話した。すると北川は「そりゃ、酷い話だな」と苦々しく言った。


「今でも健二のことが好きか?」

 唐突な質問に少し驚くも、夏木は正直に胸の内を話した。

「前まではね。でも今は違うかな。自分じゃ一ノ宮には勝てないと思うし」

 北川が息をはいてから、


「じゃあ俺と結婚するか?」

 夏木は驚いて北川の顔を見る。深刻な表情だ。だから冗談ではなく本気ということがわかった。

「何言ってんの? あんた私のこと嫌いでしょ」

「大川という男に見覚えがあるよな」


 夏木は黙った。答えられないからだ。


「お前が健二に亜東の情報を渡すために『滝川会』の幹部の大川に体を売って情報を集めたんだろ。元『赤木』の『滝川会』の奴が教えてくれたよ。夏木が裕次郎の孫だと組関係者は全員知ってるから容易に情報を聞き出せなかった。それで体を売るしかなかったわけだ。それを知って織田はすごいなって思ったよ」

「私は……健二に頼まれたから……」

「好きな奴のために体張れる人が俺は好きなんだ。俺じゃあ駄目か」


 夏木は口ごもる。告白されたことは始めてだ。でも嬉しいのか嫌なのかはっきりとしない感情が綯い交ぜになっている。今まで健二のことを想い続けていて、でもそれは実らなくて、夏木じゃ無理なのだと思った。


「俺は中卒で、工場勤務の安月給だ。お前の家のような金持ちじゃない。だけどそれでもお前のことを幸せにしたいって考えてる。幸せの価値はお金じゃないからな。それに風俗なんかでお前を働かせたくないんだ。俺の妻になってくれ」


「それでなんで結婚なのよ。普通は交際から始めるでしょ」

「家を出たいんだろ。それに付き合うとかよくわかんなくてさ。だから頼むよ」

 そう言って北川は笑った。夏木はそれを見て苦笑いした。


「わかったわ。結婚してあげる」


 一生の誓いを簡単に交わした二人。欺瞞の愛を確かめ合っていた健二の時とは違う。北川も明確には夏木に好意を持ってはいないだろう。けれど北川には健二と違って、そこに不自然な愛など、夏木は抱かなかった。だから救われた気持ちになった。今まで他人を虐げることを強要されてきた人生で、その生き方をしてきた夏木を肯定してくれる存在。北川はその役目を担おうとしてくれるのだ——。


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