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第37話 LGBT

 しばらく経って十月二十日。レッスン終わりの十時、事務所近くの喫茶店で柚島と談笑していた。


「私さ、来年の四月にデビューすることになったんだよね」


 柚島からの報告に私は驚きそして喜んだ。


「よかったじゃないですか」


 焼肉のあとからこうして話すことが増えていって、今では友人と言えるだろう。

 段々見せてくれるようになった柚島の柔らかな表情に、気分が穏やかになる。

 でも話す相手はいつも私ばかりで、レッスン生の中で相変わらず孤立していた。


 どうして私にだけ話しかけてくるのだろうと疑問に思っていたが、それを聞くのは野暮な気がしていた。


 すると数人の女性が柚島の横に立つと、手に持っていたコーヒーを柚島の頭からかけた。私は咄嗟のことに反応が出来なかった。


「あんたが悪いんだからね」

 憎悪が混じった声と視線。攻撃的な態度にただ柚島は俯いて耐えていた。

「いつも私たちを見下して。これで目が覚めた?」


 せいぜい頑張ってね、と皮肉ぎみな台詞を残して去っていった女性たち。私は慌ててハンカチで柚島の体を拭いた。きっとあの女性たちはレッスン生だ。嫌なやり方だと思う。こうすることでしか意見を言えないのだから。

 とても傷ついている柚島を見ると、とてもいたたまれなくなって、外に出ましょうと言った。

 柚島の手を引いて、すたすたと人の間を縫うように進む。


「どこへ向かっているの」


 柚島の質問を無視して、数十分歩いて着いた場所が銭湯だった。


「久しぶりだな、銭湯。柚島さんも冷たくなった体、温かくなりますよ」


 そう言って私は銭湯に入ろうとすると、柚島が「ちょっと待って」と照れたように言った。


「私は……遠慮しておく」


「そんなこと言ってないで、ほら早く行きますよ」


 柚島の手を掴んで暖簾をくぐった。二人で千円の代金を支払って、女湯へ入る。手早く服を脱いで浴室のドアを開ける。夜ということもあってか人が少なかった。ゆっくり体を洗ってそれから浴槽へとっぷりと浸かる。柚島はというと俯いて、なるべく私の体を見ないようにしている。そんなに気を使わなくていいのに。


「柚島さん、このあと星でも見に行きませんか」

「星? 綺麗に見える場所があるの?」

「そうなんですよ。楽しみにしておいてください」


 それからしばらくして銭湯から出て、駅の方面へと向かいそして電車に乗り込んだ。車両の中はくたびれたサラリーマンがいびきを立てながら眠っていた。三駅隣に降りて、それから丘の方へと歩く。


 かつて花火大会の時に来た児童公園に着いて、ベンチに並んで座った。空には満点の星空が広大に広がっている。

 その情景はとても豊かで、人の心を写し取るようだった。

 柚島は俯いて、ただ黙っていた。空を見ることなく、”何か”を待っているように。


「ねえ、私さ——女の子が好きなんだよね」


 柚島は、この変哲もない場所で二人の間で共有するには重すぎる話を唐突にカミングアウトした。


 私はしばし言葉を失っていたが、口を開いてようやく出たのが、「そうなんですね」という淡白な言葉だった。それしか返しようがなかった。


「ごめんね。驚いたよね」

「ええ、そりゃもう」


 LGBTという言葉を聞いたことがある。レズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーという四つの特性の頭文字から取った総称。柚島はこのうちの一つ、レズに当てはまるのだろう。

 だとすれば……。


「もしかして……私のこと……」

 たまに見せる私に対してのよそよそしい態度や、なぜかとても信用してくれていることを考えうるに。

「一ノ宮さんのことが好きなんだ」

 柚島が私の方に向いて、

「あなたの歌声とか、見た目とかが好きなの。やっぱり女同士じゃ駄目かな」


 柚島の瞳が潤んでいる。きっと告白するのに葛藤があったのだろう。同性ということもあって相手に拒絶されるかもしれない不安も感じていたはず。それなのに、勇気を出してくれた。

 だけど私は健二のことが好きだ。誰よりも優しくて心の強い少年のことが。


「ありがとうございます。でも私には好きな人がいるんです」

「そっか……」


 柚島が流れた涙をぬぐって、そして気持ちの整理を付けるために息をつく。

「その好きな人のこと、教えてくれない?」


 私は微笑んだ。「いいですよ」大好きな彼の話ならいくらでも出来る。


「彼はとても喧嘩が強いのに暴力が嫌いで、人一倍優しい人なんです。でも今は遠く離れた場所にいて、自由に会えないんです。だけどいつか再び会えるその日まで私は彼を待つんです」


 遠く離れた場所の意味がわかったのか、柚島は複雑な表情になる。

 彼は今、少年刑務所で服役している。罪を償うために。


「なんかドラマみたいだね」

「そんな綺麗なものじゃないですよ」


 私も空を見上げる。秋の澄み切った空気が肌に心地良く触れてくる。

「もしかして人と距離を取るのって、その特性が原因だったりするんですか?」


 自分でも不躾な質問だと思う。だけど、訊いてみたかった。


「そう。女性をそういう目でしか見れなくて、どう接したらいいかわからなかった。一度ね、中学の時に同級生を好きになったことがあるんだ。自分の想いを我慢出来ずに告白したら、キモいって言われちゃった。それからいじめが始まって、苦しくて、辛くてそんな日々が続いた。もう二度と人を好きにならないって決めたのに……一ノ宮さんのことが好きになったの。私、変だよね」


 柚島はこれまでの人生でとても苦労してきたのだろう。他人と違うことは時によって自分を傷つけるものになる。それで学生時代にいじめられたとあれば、他人と関わるのも嫌になるだろう。それに深く共感出来る。だからこそ、健二から言われたことを伝えたかった。


「私は……変だとは思いません。どんな人がいたっていいと思います。それに周りがたとえ自分を攻撃してきたとしたって、自分が自身の唯一の理解者になってあげればいいんですよ。そうすれば自ずと自分の心を守れるし、皆からも愛されるようになっていきます」


 それはかつての私が出来なかったこと。でもその方法を健二が教えてくれて、その行為が出来るようになるまで一歩ずつ、合わせて練習してくれた。


「——理解者、か」

 すると柚島は吹っ切れたような笑顔を見せた。「ありがとね、励ましてくれて」


****


 十二月終わり。肌寒い日々が続いて、すっかり外に出るのも鬱屈となる出不精な季節。


 私は講師に呼び出されて事務所の会議室にいた。


 パイプ椅子に座って、講師の到着を今か今かと待ちわびる中、不安と緊張で一杯だった。


 ノックが三回鳴って、講師が入室してくる。「お待たせ」

 そして軽やかな口調で話し始めた。


「一ノ宮さんの最近の歌声の飛躍がすごいのよ。前に言っていた普遍性というものを習得出来ていると思う。だからね、上とも話し合ったんだけど、デビューさせてみるのはどうかって」

「で、デビューですか……!」

「デビュー日は来年の四月。柚島さんと同じ頃ね」


 私は立ち上がり、講師に頭を下げた。「ありがとうございます。がんばらせてください」するとそんな私を見て、「期待しているわよ」という嬉しい言葉を投げてくれた。


 ほこほこした気分で事務所を出て、真っ先に希に電話をかけた。


 希は寝ぼけた声で、『どうしたの?』と言ってきた。昼間は仕事明けで寝ていたなと思い、謝った。その後、「デビューが決まりました」と報告すると希は喜んでくれた。


『聖斗にも連絡してあげな。あの子、すっごく嬉しがるよ』


「そうします」と言って、次に北川に連絡をする。すると鼓膜に北川の不愛想な声が響いた。『なんだ』


 希に言ったことと同じことを言うと、北川はそうかと喜びを噛み締めるように呟いた。


『じゃあ、健二にも報告してあげれよ』


「えっ、どうやって……」


『手紙だよ』


 手紙――今まで健二に手紙を出すなんて考えたこともなかった。でも思いを綴った文章を彼が読んで、何か感じ取ってくれるかもしれない。

 私は決心して、帰りがけに寄った百円ショップで便箋を買った。


 ***


『拝啓 肌が竦むような冷たい日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

 私は来年度、歌手としてデビューすることが決まりました。

 それは悲願で、叶ったことは嬉しく思います。

 ですが、どうも腑に落ちないのです。

 歌手と言う夢は、どうも借り物であるかのような気がしてならないのです。

 この夢の先、未来に待つものが何かがわかれば、違和感は消えるものなのでしょうか。

 では終わりに、私はいつまでもあなたの帰りを待っております。

                                   一ノ宮江美より』

 何度も読み返したから、便箋がよれよれで、擦り切れてしまっている。僕は幾度も一ノ宮江美という文字を指でなぞり、彼女の残り香を求める。


 二〇一五年四月二十日。あと三年という短くも長い刑期を全うするために、僕はこの刑務所にいる。


 同じ部屋の男性が、テレビを見ている。ここは朝の一時間だけテレビの視聴が許されているのだ。


 僕はテレビなんか見ていなかったので、最初は耳を疑った。画面から江美の歌声が華麗に聞こえてきたからだ。朝の報道番組のニュースキャスターが、新人天才歌手として江美の名前を取り上げている。


「成長したな……江美ちゃん」


 堂々とPV映像で高らかに歌っている姿は、初めて出会った時の憂鬱さなど、絶望など消えていた。

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