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第38話 再会

 二〇一八年六月。湿度の高い空気が、久しぶりの外気としてはあまり歓迎出来なかった。

 府中刑務所の前で、煙草をふかしていたスカジャン姿の男がいた。僕はそいつに話しかける。


「北川、元気だったか?」

「ああ。そっちこそ、久しぶりの社場はどうだ?」

「慣れないよ」と肩を竦めてやる。北川は笑って、「歩きながら話そうか」と言った。

「一ノ宮への嘘、叶ったな」

「そうだな。ありがとな北川。全部お前のおかげだよ」


 江美への嘘とは、彼女がこの世界に残れるように歌手という夢を作り、それを彼女に背負わせることだった。北川と江美が初めて出会った時に、江美は一言も歌手になりたいとは話していなかった。勝手に事実を捻じ曲げたのだ。それも全て、彼女のためだった。


「なあ健二、『多田組』はどうすんだ?」


 僕は溜息をついた。そうだ、この問題があった。江美と会う前に片付けなくてはいけない問題が。


「できれば、やめるつもりでいる」

「じゃあ行って来いよ」


 今からか? と問うと北川は何事も急ぎ足でやらねえと後々後悔すんだよという持論を語りだした。無茶苦茶だなと思うも、どっちみち事務所には顔を出さないといけないのでこれもタイミングかもしれない。


「わかった。ケリつけてくるよ」


 北川が僕を勇気づけるように背中を叩いた。「がんばってこい」

 それから北川と別れ、府中駅の電車に乗り込んで渋谷へと向かう。駅を出て渋谷事務所へと行くなかでスムーズにやめるまで持っていく話を何度も脳内で繰り返し、遊歩道を歩く。

 雑居ビルに着いて事務所へと入る。すると電話が鳴り響き、組員がその応対をひっきりなしにしていた。若頭の佐倉は頭を抱えている。すると僕に気付き、「ああ、お前か。迎えに行ってやれなくて悪かったな」


「すいません若頭。もう事務所をやめさせてもらってもいいですか」


 そう言うと佐倉の眼力が鋭くなり、相手を視線だけで殺すような狩人の目をした。


「普通なら破門の対応は、うちは金を積ませるんだがそんなことしてられるほど余裕がねえんだよ。とっとと出ていけ」

 昭和のヤクザなら破門では指を詰めることが主流だった。だが時代と共に、金で解決させる事務所が増えてきたのだ。だから怪我はしないと安心していたのだが、どうしてここまで手切れが早いんだ。しかもこの荒れ模様はなんだ。今『多田組』はどうなっている?

 事務所を出て上原に連絡を取る。今夜にも待ち合わせをした。上原は電話口からわかるほど忙しそうだった。


 子洒落たバーで僕と上原はカクテルを飲んでいた。室内を照らす薄い灯りがカクテルに反射する。

「『多田組』はどうなっているんです?」

 上原は溜息をついて、

「佳をお前が殺して、それがきっかけで『滝川会』がうちをつぶそうとしてきたんだ。連中に巨大なマフィアが後ろ手に着いて援護し始めてな。抗争を起こせば倍返しになって戻ってくる。その抗争に『鬼頭会』の連中も加わってな。正直勝ち目がないんだ。組員もどんどんマル暴にしょっ引かれて、うちは消耗したんだ。このままいけば、もううちはやばいだろうな」


「そんなことが……」

「全く、これから先どうなんのかね」

「上原さんは組を抜けることは考えてないんですか」

 その言葉に、上原は鼻で笑った。

「考えてねえよ。俺は根っからの悪だからな。こういう裏の世界でしか生きていけないんだよ」

 お前はもうやめたんだろ、という質問に頷いた。

「それがいい。お前に、この世界は似合わない」

 最後に礼を言った。上原はただ、これからがんばれよと励ましてくれた。


 五年ぶりの江美との再会の場所に、初めて出会い話を聞いたあのロマン喫茶に来ていた。

 約束の時間まであと五分。何度も腕時計を確認してはまだかとそわそわしてしまう。

 するとマスクを付けて変装した江美が僕を見つけて手を振ってきた。それから僕の前に座る。

 マスクを外すとうっすらとメイクをしているのがわかった。

「健二君、久しぶりです」

 そう言って微かに笑い、そして店員にホットココアを注文した。


「初めて会った時、ここのホットココアを飲んで気持ちが温かくなったんです」


「そうなんだね」

 すると窓に雨粒が垂れ始めた。急な雨に僕は久しぶりに気分が高鳴っているのを感じた。

「雨降ってきたね。傘、持ってきてないや」

「私、持ってきましたよ」


 店員がホットココアを持ってきた。それを江美が口に含んで和やかな表情を浮かべる。


「あ、そうだ。香ちゃんが可愛いんですよ」

「香ちゃん?」


 あ、知りませんかと言って江美がスマホを取り出し写真を見せてくる。そこには北川と夏木の間に二歳ぐらいの女の子がいた。まさかこの二人に子供が出来ていたとは。驚きだ。


「私も子供が欲しいな……」


 そう言ってから江美が照れたように、今のは忘れてくださいと恥じた。そんな江美の反応がとにかくかわいくて、思わず笑ってしまった。

 退店して、雨が降る空に傘を向けた。そして二人して向かったのは、踏切だった。

 あの日、江美が飛び込もうとしていた踏切。そこは色褪せて残っていて、警報機のいたるところが雨風で劣化していた。


「私、ここで死のうとしていたんですね」

「そうだよ。どう、まだ死にたい気持ちは残ってる?」


 江美は強い意志を持って首を振った。「もう死にたくないです。あの時はとにかく絶望していたんですけど、今ではそんな感情、きれいさっぱり無くなりました」

「そりゃよかった……」


 ということは僕が彼女に対して出来ることは、もうないか……。

 そう思っていたら江美が僕を上目遣いで見てきた。


「私、健二君のことが好きです」

「……」

「たとえ健二君にこれから試練が待っていても、私と一緒に乗り越えませんか。一緒に幸せな日々を築きながら――」


 僕はうん、と声を出そうとした。だけどその声がかすれた。なんでだか、今まで枯れていた涙が濁流のように溢れ出している。僕は何度もぬぐいながら、うんうんと頷いた。


 こうして、協調性が低く周囲となじめなかった絶望の少女——一ノ宮江美や、暴力が誰よりも得意なのに、それが嫌いだった優しい少年——小野健二も真の希望を手にした。 

 これから、二人には試練が待っていることだろう。しかし手に入れたその希望を思い出しながら前へ一歩ずつ進んでいくはずだ。






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