目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第八話『かつての名前』

 今度こそ全員が言葉を失う。外部の犯行と見せかけておいて、その実内部の犯行と疑いの目を集める。一見矛盾した行動だが、それが髪盗り鬼の計画だった。

「犯人の狙いは明確です。珠江様の髪を切り、そして珠江様に全ての罪を被せようとしていた。貴族の妻が被害に遭い、検非違使が調べに入る。そしてそのときにこれまでの髪盗り鬼が切り取ったかもじやここで盗まれたはずの品々が私室で見つかれば――」

「全ては妻の仕業……髪を切られたのも狂言……ということか?」

 導き出された結論を恐る恐る口にして、公治きみひろは放心してしまう。

 対照的になつの顔は青くなっていく。唇の色も変わり、悔しそうに噛み締める。

「ふむ、そうやって珠江殿に罪を着せようとしたわけだな。だが呉乃よ、そなたの話が正しかったとてそれはこのやしきの者が怪しいというだけだ。犯人の特定には至らぬ」

「でしたら香りはいかがでしょう。犯人は墨も盗みました。墨の香りはころもや髪につくと中々とれぬもの。なつ殿が犯人ならば今も香りがするやもしれませぬ」

 不敵な笑みを浮かべて提案する呉乃。随分と自信ありげな様子に是実は渋い顔をみせた。

「いや、香りといってもだな、そう簡単には――」

「いいでしょう!」

 なつが声を張り上げる。先ほどの青い顔はまだ残っていたが、その眼にはかすかに光が宿っていた。ぎらぎらと妖しく輝く不気味な光だ。

「ここまで疑われた以上、調べていただかなければ私の気も収まりませぬ! 調べるがいい!」

「待つのだなつ。なにも今すぐ調べなくとも、邸の者を集めてからでも」

「いいえ、公治様! いわれもない罪で疑われているのです。黙ってはいられませぬ。呉乃とやら、これで私になんの香りもしなければ、どうなるか分かっていような!」

 強気に出て逆に脅しを仕掛けてくるなつ。しかし呉乃は冷たい視線を返すだけで少しも動じない。

「私が調べればでっち上げたと言われるでしょう。是実様、お願いいたします」

「私がするのか? しかし墨の香りなど……」

「墨は墨です。分からなければそれでもかまいません」

 さあ、と言って呉乃は主人をけしかける。なぜそんなに自信満々なのだと思いながらも是実はなつへと近づく。

「それではこの是実が検めさせてもらおう」

「己の主人に、それも少将様に小間使こまづかいのような真似をさせるとは」

「心配は無用です。我が主人あるじ倭歌やまとうたを読むことと香りを嗅ぎ分けること、特に女人にょにんの香りを見極めることに関しては誰よりも優れています。私のような端女はしためなどよりもずっと信用できます」

 あまり褒めていない褒め言葉を並べ、呉乃は涼しい顔で受け流す。

 好き放題言われている是実は複雑な気持ちに見舞われながらもなつを丁寧にあらためた。

 髪や衣、帯や袴のすそまで確認し、やがて是実が離れる。

 なつは不機嫌そうな表情を一切隠そうとせず、公治はどんな真実が明かされるのか神妙な面持ちで息を呑む。

 役目を遂げた是実はゆっくりと呉乃の元に戻り、振り返って言い放った。

「なつ殿から墨の香りはしなかった。一切な」

 呉乃の思惑が外れた。その事実になつがすぐさま反応する。

「ほら! だから言ったでしょう! 私は犯人じゃないと!」

 声を張って笑みすら浮かべるなつ。公治は胸をなでおろし、是実は苦い顔で呉乃を見るが、当の本人は変わらず冷静なままだ。

「適当なことを言いおってこの端女が! 無実の者にこの仕打ち! 鞭打むちうち程度では済まさぬぞ!」

「……あの墨は香りが強い。使わずとも持っているだけで香りが付くはずです」

「まだ言うか! いくら松煙墨しょうえんぼくの香りが強いと言っても持ってなければ――」

「松煙墨?」

 話を止めたのは呉乃ではなく公治だった。是実が「ん?」と言って自身の顎に指で触れると、なつは怪訝な表情を浮かべ――すぐに口元を隠した。

「私は墨が盗まれたとしか聞いておらぬ。なつ、なぜそれが松煙墨だと分かる」

 公治が追及する。なつは再び顔を青ざめさせて一歩後ろへと下がるが、すぐに公治が一歩詰める。

「そ、それは……以前珠江様が文に使っていたのをお見かけして」

「珠江様はあれを使ってはいません。もったいなくて使えなかったとご本人からお聞きしています」

「な、なにを言うか! 私は実際にそれを見たことが」

「私も見たことがないのにか?」

「旦那様……それは」

「もうよい」

 追い詰められたなつへとどめを刺したのは是実だった。

 いつもの精悍な顔立ちとは違う。冷たく鋭利なまなざしを向けて言い放つ。

「これまでのこと、これからのこと、調べが入ればすぐに分かることだ。女房頭にょうぼうがしらなつ、髪盗り鬼の奸計かんけいを巡らせたとして同行してもらおう」

 是実の情け容赦のない宣言に、なつは青ざめた顔で首を横に振る。

 そして、自らの主人である公治へ縋るように近づく。

近麻呂ちかまろ! これまで私は貴方のためにずっと尽くしてきたというのに! 私を守ってくれないというの!? あのような女よりも私の方が近麻呂をずっと想っているのに! 近麻呂! どうして私を!」

「それ以上喋るな! なつ!」

 悲痛な叫びを訴えるなつだったが、公治は動じなかった。

 眉間に皺を寄せて拳を握り締め、怒りと悲しみを抑え込んでいるようにも見える。

「少将様、この者をはよう縄にかけてください。そして、検非違使には邸の捜索を。くまなくお願いいたします。必要であれば私もお力添えさせていただきます」

 なつと是実の間に立ち、袖を合わせて頭を下げる公治。主人越しにその姿を見て、呉乃は罪悪感に包まれながら苦い息を吐いた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?