宝珠様にお仕えして二十五年。今日は実に驚くべき一日だった。
宝珠様と共に戻られた
さらにその後ろには、見知らぬ女性がもう一人子供を抱いており、ただ事ではないと察した私は、急ぎ娘の
聞けば、子供たちは最近都を騒がせている人さらいに攫われていたらしい。
母親らしき女性が何度も心配げな視線を向けていたが、李花が「子供たちに何かあればすぐに知らせます」と伝えれば、小さな安堵と共に応接間へと向かわれた。
それだけでも十分に驚きだったというのに、まさかその女性が"異国よりも遠い場所"から来たと言った時の驚きたるや。
加えて藍飛様から、帰る手立てが見つかるまでは宝珠様の婚約者としてこの屋敷に置いてはどうかという提案が飛び出したのだ。
宝珠様は四大貴族・冬家のご嫡男ながら、今まで一度たりとも婚約の打診さえ持ち上がったことがない。
それは、宝珠様ではどうしようもできないご事情ゆえに、だ。
そんな中、すでに夫君はお亡くなりになったというその女性――ヒナタ様は、迷うことなくその提案を受けられた。
(宝珠様のお姿も知らずに……こんなにもあっさりと)
ヒナタ様は、その髪の短ささえ除けば栗色の髪に愛らしいお顔立ちの女性。
身分は定かではないが、所作は美しく、子を授かることにも問題はない。
そうして形だけの婚約とはいえ、宝珠様に微笑みかけるそのお姿に、昔日の思いが重なって涙ぐみそうになった。
宝珠様は寡黙ながら、家人である私たちを同じ本邸に住まわせてくださるほどにお優しい方。
特異なご出生ゆえにご苦労も多かったが、長年宝珠様をそばで見てきた私からすればヒナタ様の髪の短さなど些細なこと。
それは宝珠様の乳姉弟でもある李花も同じ気持ちだったようで、私たちは覚悟を決め、ヒナタ様を、正式な宝珠様の婚約者様としてお迎えすることに決めたのだ。
――『李姜手記抄』より一部抜粋
*
その日から、ヒナタたちの新生活は始まった。
とはいっても、文明大国で生きていたヒナタたちからすれば、この黎煌国での生活はあまりにも不自由が多い。
特に、幼い子供たちにとっては衣食住の全てが未知の体験だった。
「ママ、ここなぁに?」
「ん? ここはこの国のバスルーム」
「バスルーム? でも、シャワーもバスタブもないよ?」
そう首を傾げる子供たちの目の前にあるのは、石板敷きの床に壁に沿うよう並んだ腰かけ台。そして、部屋の中央に薬瓶と炉台、奥には少し大きめの水がめが置かれてあるだけの簡素な部屋だ。
ゆらゆらと室内に爽やかな香りと湯気が漂い、子供たちが見知った浴室とは何もかもが違う。
これは、よもぎや菊花などの薬湯の蒸気で部屋を満たす――いわゆるミストサウナのような入浴方法なのだ。
「なんか、むわってするね~」
「ねぇママ、かみはー?」
「からだはー?」
最初こそ緊張していた子供たちだが、朝食をともにしたことですっかりと李母子にも慣れたようで、今では湯着姿で長椅子によじ登りながらも恒例の
「えぇっと、李花さん。あっちが洗い場?」
そうヒナタが奥の水がめを指差せば、李花が微笑み頷いた。
本来なら、李花のような一家人と主の婚約者になるヒナタが共に風呂に入るなどあり得ないのだが、今回は蒸し風呂文化に馴染みがないヒナタたちのために李花が付き添ってくれることになったのだ。
「李花と呼び捨てで構いませんわ、ヒナタ様。もちろん、母のことも李姜と。なにせヒナタ様は宝珠様のご婚約者様ですもの」
そう言って奥に向かった李花は、子供たちを手招きして水がめの中を見せてくれた。
中は香りのよい、たっぷりのお湯に満たされている。
「体を蒸して、最後にこの薬湯で全身を洗い流しますの」
「ふーん? じゃあこのおゆがシャンプーになるの?」
「しゃんぷー……ですか?」
「あぁ、ごめんなさい。私たちの国では髪を洗うものをそういうふうに呼ぶのよ」
そう李花にフォローを入れて、ヒナタは子供たちを見た。
「これは二人が赤ちゃんの頃に使ってた沐浴剤のようなものだよ。頭から体までこのお湯で流して洗うの」
「あ! それならリアしってる!」
「ぼくも! でも、あれってあかちゃんがつかうものでしょ?」
「ほら、大きくなっても全身使えるシャンプーだってあるでしょう?」
「あ、おーるいんわん、ってやつだ!」
そう納得した子供たちは、声を弾ませながらもまた長椅子によじ登り、わんぱくともいえるその光景にヒナタがやれやれと肩をすくめる。
「ふふ、ルーク様もリア様も利発ですわね」
「騒がしくてごめんなさい。二人とも、まだ旅行気分が抜けなくて……」
「とんでもございません。子供は元気なのが一番ですわ」
子供たちを見つめる李花のまなざしはとても優しかった。
そしてその瞳の奥にほんの少しの羨望を見たヒナタは、ただ「……そうね」とだけ言葉を返し、静かに湯気に身を任せた。