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第3話

 朝の空気には、夜の冷たさがまだわずかに残っている。窓辺には淡い光が降りそそぎ、やわらかな輪郭で家具を浮かび上がらせていた。

 ティーナは寝台のそばで鏡に向かい、ゆっくりと髪を整えている。細い櫛の歯を滑らせながら、そっと息を吐いた。

 櫛を強く握りしめることはできない。以前、力加減を誤って櫛を折ってしまい、母に驚かれたことがあった。あの時、妹のソフィアが「またやったのね」と微笑んだ。

 それ以来、彼女の手つきは一層慎重になった。


 結い上げた髪を飾りで留め、手を離すと、安堵が胸に広がる。

 櫛を机に戻す時も、手の緊張は解けない。陶器のカップを両手で包み込むように持ち上げる。白いカップは冷たく、重みも感じないほど軽かった。

 それでも、力の入れ具合に注意を払う。陶器を壊さず、音を立てずに置けたとき、心の中にわずかな誇りが生まれる。

 丁寧に毎日を始めるのが、ティーナにとっての安らぎだった。


 階段を降りるときも足音を消すように気を配る。

 踵に力を入れすぎれば板がきしむ。

 一段ずつ、体の重心を感じながら下りていく。

 そのとき、廊下の奥から妹のソフィアが顔を出した。


「お姉さまって、ほんと、動きが綺麗よね」


 ソフィアの声には素直な憧れがにじんでいた。


「そう?」


「うん。なんていうか……お人形さんみたい。大事にしていたくなる」


 妹の言葉に照れくささを覚えつつも、ティーナは微笑んだ。

 自分は「壊れそう」なのではなく「壊してしまう」ことにおびえている。それでも妹には、本当のことは言えない。

 だが、こうして何気ない朝の会話が、ささやかな幸せでもあった。


「ソフィア、今日は市場で新しいリボンを見てみる?」


「いいの? わたし、ピンクがいいな!」


「似合う色を一緒に探そう」


 二人の会話が続くと、屋敷の中に柔らかな空気が広がる。

 いつの間にかベアトリスが背後に立っていて、そっとティーナのドレスのしわを直してくれた。


「今日も付き合わせてごめんね」


 ティーナが感謝を込めて言うと、ベアトリスはわずかに微笑む。


「いつものことですから。見守るのも、わたくしの務めです」


 彼女の声は穏やかで、朝の始まりにふさわしい温かさがあった。

 ティーナは心の中で、こんな日常がいつまでも続けばいいと思った。


 学園は休日。明日から新しい学期が始まる。

 学用品の準備も兼ねて、今日は家族で王都の市場へ出かけることになっていた。

 支度を終えた三人は、春の陽射しに包まれながら石畳の道を歩き出す。


 王都の市場は、午前中から活気で満ちていた。

 パン職人の屋台からは焼き立ての香りが漂い、果物屋では鮮やかなりんごや柑橘が山盛りになっている。

 荷車の車輪が石畳を軋ませ、露店からは陽気な音楽が流れてくる。


 ティーナの淡い藤色のドレスには白い縁取りがほどこされていた。

 それは目立たないつもりで選んだ色なのに、春の光を浴びてどこか凛として映る。

 ベアトリスは歩きながら、ティーナとソフィアの会話を温かく見守っていた。


「ティーナ様、あちらに布地屋があります。新しいハンカチを選ばれては?」


「ありがとう。ベアトリスも何かほしいものがあったら教えて」


「いえ、私は十分に満ち足りております」


 そう言いながらも、ベアトリスの目は少しだけ楽しそうだった。


 ソフィアは色とりどりのリボンに目を輝かせていた。


「お姉さま、この水色も可愛いよ。迷っちゃうな」


「水色もいいけれど、きっとピンクも似合うと思うよ」


 品物を手に取るとき、ティーナの仕草には舞踏のような優雅さがあった。

 無駄な動きをせず、必要な力だけを使う。

 財布からコインを取り出す手も、驚くほど慎重で静かだった。


 いつの間にか、通りすがりの学園生たちがティーナたちの様子に気づいていた。


「あれ……あの子、うちの学園の制服じゃない?」


「見たことあるけど……なんか、きれい、だよな」


 少年たちの視線に気づかず、ティーナはゆっくりと歩き続けた。


 市場の雑踏は、昼近くなるとさらに賑やかさを増した。

 パンの焼ける香り、果実を並べる店主の威勢のいい声。

 ティーナは妹の手を引いて露店の間を歩きながら、目立たぬように、でも何も壊さないようにと心を砕く。


 ソフィアは市の広場で大道芸人の曲芸に目を輝かせていた。

 ベアトリスはティーナのすぐ後ろで控えめに歩き、時折さりげなく道行く人の肩とぶつかりそうになる二人をそっと守ってくれる。

 市場の真ん中にいるのに、家族三人だけの温かな空気がそこにあった。


「ティーナ様、リンゴはいかがですか?」


 果物屋の老女が声をかける。

 ソフィアはさっそくお金を出そうとして、ティーナがやんわりと手を抑える。


「わたしが買うわ。……このリンゴ、すごく甘そうですね」


「ええ、とてもよく実っていますよ」


 穏やかなやりとりの後、ソフィアは嬉しそうにリンゴを抱えて歩き出す。


 市場には学園生らしき少年たちもちらほらいて、彼らは時折ティーナの方を見てはひそひそと話している。

 少年のひとりが何か言いたげに口を開くが、結局声をかけることはなかった。


 ティーナはその様子にも気づかないまま、ゆっくりと家路についた。

 春風がドレスの裾をふわりと揺らす。

 妹と侍女と並んで歩く帰り道。いつまでもこの日常が続けばと願いながら、淡い陽射しの下を歩いた。


 夕暮れには屋敷の静けさが戻っていた。

 家族がそれぞれの部屋で過ごす中、ティーナは一人、寝室の鏡の前に立った。

 長い一日が終わり、髪をゆっくりとほどいていく。

 白い指先がほつれた髪をそっとなでる。


 柔らかな灯火の下で、鏡の中の自分と静かに見つめ合う。

 今日もまた、「お人形みたい」「きれい」と言われたことが思い返される。

 でも、自分にはその理由が分からなかった。


「どうしてみんな、私を褒めるの……?」


 静かに、問いかける声が部屋に溶けていく。

 今日も、いくつもの優しい言葉をもらった。けれど、ティーナの心に残るのは、壊さないように動いた緊張と、丁寧に過ごしたという充実感だった。


 父や母、ソフィアやベアトリスに囲まれて過ごす、かけがえのない日常。

 誰にも気づかれず、何も壊さず、こうして穏やかに一日を終えることができる――

 それが何よりも嬉しかった。


 カーテン越しの夜風が、静かに部屋をなでる。

 窓からは月明かりがそっと差し込んでいる。

 ティーナはそっと目を閉じ、今日も無事に終えたことに感謝した。


 明日もまた、ゆっくりと、丁寧に生きよう。

 壊れないように、誰も傷つけないように。

 そんなふうに思いながら、やがてティーナは深い眠りへと落ちていった。


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