王都の大通りは、昼下がりの陽射しを浴びて、石畳が白く輝いていた。
行き交う人々のざわめき、商人たちの威勢のいい呼び声、屋台から漂う焼き菓子の香り──そのすべてが一体となって、街の熱気を作り上げていた。
道端では子どもたちが駆けまわり、大人たちは袋を片手に次の店を目指す。
「ったく、毎月よく飽きねえな……」
フードを深くかぶった男がぼやいた。
その声の主はシグルド、公爵家の三男であり、王子アルヴァンに仕える護衛長である。
視線を斜めに流しつつ、周囲をさりげなく警戒していた。
隣には、同じく顔を隠したフード姿の青年が並んで歩いている。
彼こそが次期国王の座を約束された王子──アルヴァンであった。
彼は無言のまま、周囲の店や人々の表情を丹念に見渡していた。
「飽きるかどうかじゃない。民の暮らしを知るのは、次期王として当然の務めだ」
街路樹の葉が風に揺れ、二人の間に小さな影を落とす。
「ふん、庶民のことを知ったところで、陛下がパンの値段を気にしてるようには見えねぇがな」
投げやりな調子で返すシグルド。だが、彼の声にはどこか諦めきれない温度が含まれていた。
「その『庶民のこと』を知るのが大事だって、お前も分かってるはずだろ」
「……お前が怪我でもしたら、俺の首が飛ぶんだぞ」
「心配性だな。大丈夫だよ」
「その言葉、今月で三回目な」
肩をすくめながらも、シグルドの歩調は王子とぴたりと揃っていた。
二人は人波を縫うようにして、市場へと向かう道を歩き続ける。
道沿いでは果物や香草の匂いが立ちのぼり、活気ある声が交差していた。
アルヴァンの視線は絶えず動き、露店の商品、話し声、取引の様子──すべてに意識を注いでいた。
その姿には、ただの視察ではない、なにか強い意志のようなものが漂っていた。
一方、王都広場では、ティーナが噴水の縁に静かに腰を下ろしていた。
傍らにはベアトリスが控え、やや距離を保ちつつも、周囲に気を配っている。
今日はソフィアの誕生日の贈り物を選ぶため、市場まで足を運んでいた。
ティーナの装いは簡素なものだった。
飾り気のない薄い灰色のワンピースに、日よけの帽子をかぶっている。
けれどその姿には、どこか人を惹きつける佇まいがあった。
まっすぐに座る姿勢、物静かな表情、そして時折遠くを見つめる瞳──
装飾がなくとも、彼女の存在は自然と空間の中心になっていた。
「この辺りで、少し休んでいきましょうか?」
「ええ、ありがとう、ベアトリス」
そう答えたティーナは、噴水の水面に映る空を見上げた。
淡い水のきらめきが、その頬を淡く照らしていた。
ちょうどそのときだった。
別の通りから歩いてきたアルヴァンが、ふと足を止めた。
「……あれは……」
その声に、シグルドが視線を向ける。
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
けれど、アルヴァンの目は噴水の方から離れなかった。
視線の先には、ティーナの姿があった。
彼女はただ静かに腰を下ろし、何かを待つようにそこにいた。
喧騒のただ中で、ひとりだけ時間の流れが異なるように見える少女。
その目が、ふとこちらを向いた。
ほんの一瞬、目が合った気がした。
アルヴァンは、何かに引き寄せられるように歩き出した。
気づけば、人々の間をすり抜けて噴水へと向かっていた。
ティーナの姿が、光の粒をまとったように目に焼きついて離れなかった。
「おいおい、なにしてんだ……今日は妙に様子が変だぞ」
後ろから追いかけるシグルドが、眉をひそめながら低く言う。
だがアルヴァンは答えなかった。
噴水の近くにたどり着いたとき──そこにティーナの姿はなかった。
代わりに、荷をほどく老婦人と、はしゃぐ子どもたちの笑い声だけが残っていた。
「……誰も、いない」
アルヴァンは立ち止まり、ぐるりと広場を見渡した。
けれど、あの静かな気配を纏った少女の姿はどこにもなかった。
「何かあったのか?」
すぐ隣で、シグルドが問う。
「いや……気のせいだったかもしれない」
そう答えながらも、アルヴァンの声には確信の揺らぎがあった。
胸の奥に、さっきの目の奥の光が残っている。
その残像が、なぜか簡単には消えてくれなかった。
王宮に戻った後も、アルヴァンはふとした拍子に広場の風景を思い出していた。
政務の報告を受けていても、侍従の声がどこか遠くに聞こえる。
あの目は、どこか深い悲しみを湛えていた。
語られることのない何かを、そのまなざしが静かに抱えていた。
「おい、お前……ほんとに何かあったろ」
執務室の隅、椅子にもたれたシグルドが腕を組んで言った。
「……ないよ。何も」
アルヴァンは笑って答えたが、目は笑っていなかった。
心の奥には、見知らぬ少女の影がそっと根を張り始めていた。
一方のティーナは、すでに市場からの帰り道にいた。
ベアトリスと並んで歩きながら、ソフィアへの贈り物について話していた。
「この髪飾り、きっと似合いますよ。ピンクの石が入っていて、ソフィア様のお好きな色かと」
「うん……そうね。あの子、明るい色が好きだから」
何気ない会話に、小さな満足感が宿っていた。
特別なことは何もない日常。それが、ティーナにとって一番の安らぎだった。
ただそのとき、なぜかふと誰かの視線を感じたような気がした。
ティーナは振り返ったが、通りには行き交う人々がいるばかりで、特に目を引くものはなかった。
「どうかなさいましたか?」
「ううん、なんでもないわ」
微笑んで応えたティーナは、足元の石畳に目を落とす。
誰かに見られていた気配は、春の風に紛れてすぐに消えていった。
その日の夜──
王子アルヴァンは、月明かりに照らされた王宮のバルコニーに立っていた。
夜風が金色の髪を揺らす。
遠く広がる王都の明かりを眺めながら、彼は静かに息を吐いた。
名前も、身分も、どこの誰かも分からない。
それでも、あの瞳だけは忘れられなかった。
まるで水底に光が差すような、あの眼差し。
それが、胸の中で静かに輝き続けている。
「……もう一度、会えたらいいのに」
呟いた言葉は、誰に届くこともなく夜に溶けた。
けれど、その願いは、確かに生まれていた。
そして、ティーナもまた、自分が誰かの心に残ったことなど知る由もなく、穏やかな夢の中にいた。
──この出会いが、ふたりの運命を変える日になるとは、まだ誰も知らなかった。