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第5話

 朝の鐘が王都の空に鳴り響くころ、学園の正門をくぐる少女の姿があった。

 ティーナ・バルティネス。淡い藤色の制服が朝陽に透け、石畳に薄い影を落としていた。

 姿勢は正しく、歩幅も一定。彼女の動作は、意識しない者ほど美しく感じられるものだった。

 けれどその背に集まる視線に、本人はまるで気づいていない。


 構内に足を踏み入れると、校舎の扉の向こうから声が響いてきた。


「ティーナ、おはよう! 今日もふわふわで可愛い〜っ!」


 それは、エレオノーラだった。

 長身の彼女は人目もはばからずティーナに駆け寄り、勢いそのままに抱きついてくる。

 ティーナは一歩引き、そっと身を離した。


「……エレオノーラ、皆が見ています」


「だからいいのよ〜。見られて可愛い、って思われてるんだから♪」


 そのやり取りに、廊下の奥でクラリスとミーナが顔を見合わせ、小さく笑った。


「またやってるわね」

「ほんと、朝の恒例行事」


 ティーナは頬を少しだけ赤らめながら、三人のもとへ歩いていく。

 人との距離を測るのはまだ苦手だが、それでも彼女にとって、この学園での日常は安心できる居場所になっていた。


 教室の後方では、女子生徒たちがそわそわと集まっていた。


「ねえ、王子来てるって!」

「本当に? どこどこ? 見かけたの?」

「髪、ちゃんとしてる? ちょっと鏡貸して!」


 机の周りに集まるその熱気は、まるで舞踏会の前夜のようだった。

 けれどティーナは、その騒ぎには一切目を向けることなく、自席に腰を下ろした。

 鞄を開け、教科書を取り出す。その所作はいつも通り、穏やかで、無駄がない。


  午前の授業は、モース先生による作法講義だった。

 大きな声が教室に響き渡る。


「よいか! 姿勢とは精神! 背筋が崩れた者は、魂が歪むぞ!」


 それは何度も聞いたはずの言葉だが、先生の熱量はまったく衰えない。

 ティーナはペンを取り、静かに板書を書き写していく。

 ゆっくりと、確かめるように。力を入れすぎれば筆先が折れる──そんな危うさをいつも意識していた。


 その慎重さこそが、彼女の佇まいに自然な美しさを生んでいた。

 生徒たちはそれを“気品”と呼んだが、本人にとっては“制御”に過ぎない。


 昼休み。中庭の一角にあるベンチで、ティーナ、エレオノーラ、クラリス、ミーナの四人は弁当を広げていた。


「今日って試験範囲の発表あったっけ?」とミーナ。

「エレオノーラ、また寝てたでしょ」とクラリス。


「記憶が飛んだだけよ!」

 胸を張って言い切るエレオノーラに、全員が笑い声を上げた。


「そういえば、また騎士科の子が告白されたって聞いた?」

「今月でもう三人目じゃない?」


「ティーナは?」

 不意に向けられた問いに、ティーナは手を止め、少しだけ首をかしげた。


「……いません。そういうの、分からないので」


「気づいてないだけかもよ?」

「絶対見られてるってば」


 二人の声に、ティーナはわずかに目を伏せたまま、何も答えなかった。

 言葉にならない“何か”が、胸の奥でかすかにくすぶっていた。


「じゃあさ、ミーナ。理想の相手ってどんな人?」


 ミーナの声が軽やかに響く。


「うーん……背が高くて、優しくて──でも、ちょっとミステリアスで!」


「それって、ただの騎士団のポスターの人じゃない?」

 クラリスが呆れたように笑う。


 エレオノーラは再びティーナに抱きつこうと体を傾け──


「エレオノーラ、本当にやめて」


 ティーナの声には、わずかに切実な響きがあった。

 無意識に力が入れば、相手を傷つけてしまうかもしれない。

 それがどれほど些細な接触であっても、彼女には常に“壊すかもしれない”という不安が付きまとっていた。


 仲間との昼食は楽しい。けれど、心から緩むことはない。

 笑顔の裏で、彼女はずっと力を抑え続けている。


 午後の授業が終わる頃、教室にはすこしばかり疲れの色が漂っていた。

 黒板の文字も霞むような終わり際、ティーナは静かに荷物をまとめた。


 鞄の紐を結ぶ指先、立ち上がるときの足元──そのどれもが慎重で、整っている。

 それは訓練の賜物ではなく、日々の暮らしのなかで築かれた“制御”という動作であった。


(やっと……帰れる)


 胸の奥でそっと息を吐きながら、ティーナは昇降口へと歩き出した。


 ──その頃、別棟の三階。


 学園の敷地は広く、建物は複雑に枝分かれていた。

 王族や上位貴族の子息たちは、一般生徒とは別の専用棟で学ぶことになっている。

 その最上階、東向きの窓辺に立っていたのは──アルヴァン・アールフェルト王子だった。


「……今日も、見つからないか」


 小さくつぶやいたその声に、苦さが滲む。


 あの日以来、少女を探すために、王子はジグルドを伴ってほぼ毎日のように街へと足を運んでいた。

 “視察”という建前のもと、噴水の広場へも何度となく足を向けた。

 けれど、あのとき目にした少女の姿は、どこにもなかった。


 今日もまた、窓から下を見下ろしていた。

 正門へ向かう生徒たちの列。

 藤色の制服、歩き方、背格好──何度も、何度も見てきた光景。


 けれど、その中に。


 確かに、いた。


 藤色の制服。

 揺れる髪。

 迷いのない、まっすぐな歩み。


 噴水の光に包まれていた、あの少女と同じ──いや、それ以上に鮮明に、心の奥に触れるような気配。


 心臓が脈打つのを感じながら、アルヴァンは窓辺に身を寄せる。


「……あれは、間違いない」


 目を逸らすことができなかった。

 だが、その少女はすでに門を越え、夕暮れの町へと姿を消しかけていた。


「……一週間、会えないのか」


 ぽつりとこぼれた言葉は、朱く染まる空の中へ溶けていく。


 王子という立場では、学園に通える日数は限られている。

 次に訪れるのは、また数日後になるかもしれない。


 ──名前も、所属も、なにも知らない。

 けれど、確かに、あの佇まいは心に残っていた。

 誰にも気づかれず去っていった、その静かな後ろ姿が。


 一方その頃。

 ティーナは、夕陽に照らされた石畳の上を、ベアトリスと並んで歩いていた。


「今日も、無事に過ごせましたね」


 ベアトリスの言葉に、ティーナは小さく頷く。


「うん……みんなと話せて、楽しかった」


 それは素直な気持ちだった。

 けれど、心の奥に、言葉にしづらい違和感のようなものが残っていた。


 振り返っても何もない。

 でも──

 確かに誰かに見られていたような、気配だけが、ほんのわずかに記憶に引っかかっている。


 ティーナはそっと目を伏せた。


 ──ふたりはまだ、互いの名も知らない。

 けれど、“気づき”だけは始まっていた。


 それは、すれ違いの中で生まれた微かな結び目。

 やがて巡る運命の糸が、静かに導かれるように、ふたりを引き寄せていく。


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