朝の鐘が王都の空に鳴り響くころ、学園の正門をくぐる少女の姿があった。
ティーナ・バルティネス。淡い藤色の制服が朝陽に透け、石畳に薄い影を落としていた。
姿勢は正しく、歩幅も一定。彼女の動作は、意識しない者ほど美しく感じられるものだった。
けれどその背に集まる視線に、本人はまるで気づいていない。
構内に足を踏み入れると、校舎の扉の向こうから声が響いてきた。
「ティーナ、おはよう! 今日もふわふわで可愛い〜っ!」
それは、エレオノーラだった。
長身の彼女は人目もはばからずティーナに駆け寄り、勢いそのままに抱きついてくる。
ティーナは一歩引き、そっと身を離した。
「……エレオノーラ、皆が見ています」
「だからいいのよ〜。見られて可愛い、って思われてるんだから♪」
そのやり取りに、廊下の奥でクラリスとミーナが顔を見合わせ、小さく笑った。
「またやってるわね」
「ほんと、朝の恒例行事」
ティーナは頬を少しだけ赤らめながら、三人のもとへ歩いていく。
人との距離を測るのはまだ苦手だが、それでも彼女にとって、この学園での日常は安心できる居場所になっていた。
教室の後方では、女子生徒たちがそわそわと集まっていた。
「ねえ、王子来てるって!」
「本当に? どこどこ? 見かけたの?」
「髪、ちゃんとしてる? ちょっと鏡貸して!」
机の周りに集まるその熱気は、まるで舞踏会の前夜のようだった。
けれどティーナは、その騒ぎには一切目を向けることなく、自席に腰を下ろした。
鞄を開け、教科書を取り出す。その所作はいつも通り、穏やかで、無駄がない。
午前の授業は、モース先生による作法講義だった。
大きな声が教室に響き渡る。
「よいか! 姿勢とは精神! 背筋が崩れた者は、魂が歪むぞ!」
それは何度も聞いたはずの言葉だが、先生の熱量はまったく衰えない。
ティーナはペンを取り、静かに板書を書き写していく。
ゆっくりと、確かめるように。力を入れすぎれば筆先が折れる──そんな危うさをいつも意識していた。
その慎重さこそが、彼女の佇まいに自然な美しさを生んでいた。
生徒たちはそれを“気品”と呼んだが、本人にとっては“制御”に過ぎない。
昼休み。中庭の一角にあるベンチで、ティーナ、エレオノーラ、クラリス、ミーナの四人は弁当を広げていた。
「今日って試験範囲の発表あったっけ?」とミーナ。
「エレオノーラ、また寝てたでしょ」とクラリス。
「記憶が飛んだだけよ!」
胸を張って言い切るエレオノーラに、全員が笑い声を上げた。
「そういえば、また騎士科の子が告白されたって聞いた?」
「今月でもう三人目じゃない?」
「ティーナは?」
不意に向けられた問いに、ティーナは手を止め、少しだけ首をかしげた。
「……いません。そういうの、分からないので」
「気づいてないだけかもよ?」
「絶対見られてるってば」
二人の声に、ティーナはわずかに目を伏せたまま、何も答えなかった。
言葉にならない“何か”が、胸の奥でかすかにくすぶっていた。
「じゃあさ、ミーナ。理想の相手ってどんな人?」
ミーナの声が軽やかに響く。
「うーん……背が高くて、優しくて──でも、ちょっとミステリアスで!」
「それって、ただの騎士団のポスターの人じゃない?」
クラリスが呆れたように笑う。
エレオノーラは再びティーナに抱きつこうと体を傾け──
「エレオノーラ、本当にやめて」
ティーナの声には、わずかに切実な響きがあった。
無意識に力が入れば、相手を傷つけてしまうかもしれない。
それがどれほど些細な接触であっても、彼女には常に“壊すかもしれない”という不安が付きまとっていた。
仲間との昼食は楽しい。けれど、心から緩むことはない。
笑顔の裏で、彼女はずっと力を抑え続けている。
午後の授業が終わる頃、教室にはすこしばかり疲れの色が漂っていた。
黒板の文字も霞むような終わり際、ティーナは静かに荷物をまとめた。
鞄の紐を結ぶ指先、立ち上がるときの足元──そのどれもが慎重で、整っている。
それは訓練の賜物ではなく、日々の暮らしのなかで築かれた“制御”という動作であった。
(やっと……帰れる)
胸の奥でそっと息を吐きながら、ティーナは昇降口へと歩き出した。
──その頃、別棟の三階。
学園の敷地は広く、建物は複雑に枝分かれていた。
王族や上位貴族の子息たちは、一般生徒とは別の専用棟で学ぶことになっている。
その最上階、東向きの窓辺に立っていたのは──アルヴァン・アールフェルト王子だった。
「……今日も、見つからないか」
小さくつぶやいたその声に、苦さが滲む。
あの日以来、少女を探すために、王子はジグルドを伴ってほぼ毎日のように街へと足を運んでいた。
“視察”という建前のもと、噴水の広場へも何度となく足を向けた。
けれど、あのとき目にした少女の姿は、どこにもなかった。
今日もまた、窓から下を見下ろしていた。
正門へ向かう生徒たちの列。
藤色の制服、歩き方、背格好──何度も、何度も見てきた光景。
けれど、その中に。
確かに、いた。
藤色の制服。
揺れる髪。
迷いのない、まっすぐな歩み。
噴水の光に包まれていた、あの少女と同じ──いや、それ以上に鮮明に、心の奥に触れるような気配。
心臓が脈打つのを感じながら、アルヴァンは窓辺に身を寄せる。
「……あれは、間違いない」
目を逸らすことができなかった。
だが、その少女はすでに門を越え、夕暮れの町へと姿を消しかけていた。
「……一週間、会えないのか」
ぽつりとこぼれた言葉は、朱く染まる空の中へ溶けていく。
王子という立場では、学園に通える日数は限られている。
次に訪れるのは、また数日後になるかもしれない。
──名前も、所属も、なにも知らない。
けれど、確かに、あの佇まいは心に残っていた。
誰にも気づかれず去っていった、その静かな後ろ姿が。
一方その頃。
ティーナは、夕陽に照らされた石畳の上を、ベアトリスと並んで歩いていた。
「今日も、無事に過ごせましたね」
ベアトリスの言葉に、ティーナは小さく頷く。
「うん……みんなと話せて、楽しかった」
それは素直な気持ちだった。
けれど、心の奥に、言葉にしづらい違和感のようなものが残っていた。
振り返っても何もない。
でも──
確かに誰かに見られていたような、気配だけが、ほんのわずかに記憶に引っかかっている。
ティーナはそっと目を伏せた。
──ふたりはまだ、互いの名も知らない。
けれど、“気づき”だけは始まっていた。
それは、すれ違いの中で生まれた微かな結び目。
やがて巡る運命の糸が、静かに導かれるように、ふたりを引き寄せていく。