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第6話

 昼休みの中庭には、春の陽差しがまぶしく降り注いでいた。

 石造りのベンチのまわりを囲むように、ティーナ、エレオノーラ、クラリス、ミーナの四人が腰を下ろしていた。


「昨日の講義、先生また脱線してたわね。どうして途中から魚の肝の栄養価の話になるのよ……」

 クラリスが眉をひそめながら言うと、ミーナがふっと吹き出した。


「本当に。毎回思うけど、あの話のどこに試験が出るの?」


 誰かが何かをこぼすたび、空気はくすくすと笑いにほどけていく。

 エレオノーラは、手にしたサンドウィッチを片手に、ティーナへとぐっと身体を寄せた。


「でもね、ティーナのノート、あれは芸術よ? 完璧な板書、流れるような文字。私は感動したわ。お礼に──ぎゅーっとしてあげるっ!」


 ティーナは少し肩を引きながらも、目元にわずかな微笑みを浮かべていた。


「……エレオノーラ、みんなが見ています」


「だからいいの。見せつける愛って、時には必要なのよ!」


「恋人じゃないですけどねー」と、ミーナがつっこみ、クラリスが笑いながら紅茶をそっと口に運んだ。


 その和やかな空気が破られたのは、ひときわ冷たい声が響いた瞬間だった。


「まあ。仲良しごっこね」


 石畳をコツコツと鳴らしながら現れたのは、深紅のリボンをなびかせた一人の少女──ベルシア。

 学園の生徒会的な立場を担う伯爵令嬢であり、その名にふさわしい高慢さを纏っていた。


「貴族の昼休みに、まるで下町の茶屋みたいな騒がしさ。節度がないわね」


 エレオノーラがゆっくりと立ち上がる。

 軽やかな笑みを浮かべていたが、その瞳は少しも揺れていない。


「ベルシア。なにか御用かしら?」


「ええ、ちょっと忠告にね。公爵家の娘が男爵家の者と親しくするなんて──貴族の品位に関わるわ」


 その言葉に、クラリスとミーナが息を詰めた。

 ティーナはそっと目を伏せ、手のひらに力が入らないよう意識を集中させた。


 けれど、エレオノーラは臆さなかった。


「誰と仲良くするかは、私が決めることよ。教育係に聞く必要はないわ」


「あなたの教育係が無能なのね。紹介してあげましょうか?」


「そういうの、興味ないの。わたし、選ばれるより、選ぶ側だから」


 空気が張り詰めたまま、沈黙が落ちる。

 ベルシアは少しだけ唇を歪めたが、なおも高圧的な声を響かせた。


「これは貴族全体の問題よ。下位の者に情を移すなど──」


 クラリスが堪えかねたように口を開いた。


「……気をつけます」


 ミーナもそっと頷いた。

 けれど、ティーナだけは、驚きの余り、じっとベルシアを見つめたままだった。

 自分の中にある力が暴走しないよう抑え込んでいたため、目をらすことも、瞼を伏せることもなく見てしまっていた。


 しかし、ベルシアは、ティーナのそのまなざしに僅かにたじろいだ。

 そして──自分でも気づかないまま、視線を逸らした。


「……今日はこのくらいにしておくわ」


 ひとことだけ残して、背を向ける。


 その去り際、彼女の胸の中に残っていたのは、見下ろしたつもりの少女の瞳が、まるで“自分の芯”を貫くようだった、という苛立ちとざわめきだった。 

 ベルシアの姿が石畳の向こうに消えると、

 中庭の空気は少しずつ緩んでいった。


「気にしないで。あんなの、ただ吠えてるだけよ」


 エレオノーラは何事もなかったようにティーナの隣に戻り、軽く肩を寄せた。

 その表情は明るく、いつもの彼女だった。


 クラリスはそっと息を吐いて言う。


「……でも、やっぱり怖いわ。あの人、本気で家柄のことを振りかざしてくるし」


「貴族って大変ね」

 ミーナが冗談めかして肩をすくめると、皆が少し笑った。


 ティーナも小さく笑っていた。

 けれど、その胸の奥にはまだ、ぬるく残る何かがあった。


「……エレオノーラ、どうして、あんなに堂々と……」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、エレオノーラはふっと笑って、ティーナの頭を子猫んをさわるように撫でた。


「だって私は、ティーナが好きなんだもの。理由なんて、いる?」


 その言葉は、まるで春の風のように、静かにティーナの胸をくすぐった。

 力じゃなく、言葉で跳ね返すことができる人がいる──そのことが、どこか眩しく感じられた。


 ティーナたちは午後の授業に向けて歩き出していた。

 空気はもうすっかり日常に戻っていたが、ティーナの中には、何かが確かに芽生えていた。


 強さとは何か。

 言葉とは何か。

 “好き”という気持ちは、人をこんなにも真っすぐにできるのか──


 エレオノーラの笑顔を思い浮かべながら、ティーナはそっと小さく頷いた。


 それは、心の奥で静かに動き出した“変化”だった。



 ──その頃、王宮・第三書庫。


 積み重なる古文書の間にある窓辺で、アルヴァン王子は静かに視線を落としていた。


「……あと六日か」


 ぽつりと零れた言葉は、誰に向けるでもない。


 その背後から、護衛であり友人でもあるシグルドがやってきた。


「王子、何かお探しで?」


「……少女を探してる。友人から頼まれたんだ」


 少し目を泳がせながら言うと、シグルドは腕を組んだまま目を細めた。


「またその“友人”ですか」


「小柄で、目が綺麗で……凛々しくて、輝いていて……」

 言葉を繋ぐごとに、アルヴァンの声音は真剣さを帯びていく。


 しかし──


「……それじゃ誰だか分かりませんよ」


 シグルドは深いため息をついた。


「でも、あの目は一度見たら忘れられない」


「そりゃあ、本人を見れば分かるでしょうけど……」


 アルヴァンは視線を窓の向こうへ向けた。

 あの日、光にきらめく噴水の前で出会った少女。

 名前も、所属も、何も知らない。

 ただ、その目だけが記憶の底に焼きついて離れなかった。


 ──王子が学園に通うのは、形式的なものに過ぎない。

 民の教育を知るという名目のもと、週に一度のみ、国王の命で定められていた。


 けれど、アルヴァンはその日を、ただひとつの目的のために待っていた。


『次に会えたら──』


 もしもう一度、あの少女と出会えたなら。

 そのときは、名を尋ねよう。声をかけよう。

 それが、王子という立場を越えてでも叶えたい、たった一つの願いになり始めていた。


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