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第7話

その日、高等学術院で行われるのは──

貴族としての品位と振る舞いを測るための、礼法実技試験だった。


教室には張り詰めた緊張が漂い、誰もが呼吸を抑えるようにして順番を待っている。


最初に名を呼ばれたのは、公爵家の令嬢、ベルシア・ディエラン。

背筋をまっすぐに伸ばし、歩幅・角度・手の角度までもが正確に整えられた所作で、中央へと進み出る。


その一歩ごとに衣擦れの音が旋律のように響き、見る者の目を自然と惹きつけていった。

指導教官はゆっくりと頷き、生徒たちは当然のように彼女の完成された振る舞いに納得していた。


「これぞ、公爵家の格式ね」──誰もがそう思った。

その動きには、一切の破綻がなかった。


続いて名を呼ばれたのは、クラリスとミーナ。どちらも男爵家の出身だった。


二人はやや控えめな動作で立ち上がり、慎重に一礼してから所定の位置へと進む。

動きに大きな乱れはない。けれど、どこか遠慮がちな姿勢に、生徒たちの評価は静かに割れた。


そして三番目に名が呼ばれたとき──空気が、わずかに変わった。


「エレオノーラ・フォン・エーリクス」


公爵家の令嬢であるエレオノーラは、悠然と立ち上がり、まるで舞台に立つような柔らかな足取りで前へと進んだ。

背筋は美しく、けれど押し付けがましさのない優雅さがあった。

その堂々とした佇まいは、見守る者に安心と憧れを与える。


彼女が通り過ぎたあと、微かに花の香りが残るような──そんな余韻すら、そこに漂っていた。


そして最後に名が呼ばれた。


「ティーナ・バルティネス」


その名にざわめく者はいない。ただ、静かに視線が集まった。


ティーナは言葉を発することなく立ち上がり、まっすぐに中央へと歩き出した。


その動きは、まるで空気そのものが彼女の通る道を避けているかのようだった。

風も音も感じさせず、水面に花弁が落ちるように、静謐で美しかった。


誰かが小さく息を飲む。


「……なんなのよ、この動き……」


ベルシアがごく低く呟く。

けれどその瞳には、いつもの余裕はなかった。


ティーナの所作は、ただ「教科書的に正しい」だけではない。

力を抑えようとする意識が、全ての動作を極限まで丁寧にし、自然と完成された形を生み出していた。


それは模倣ではなく、力の制御による洗練だった。


やがて、試験の結果が告げられる。


「第一位、ベルシア・ディエラン」


教室には拍手が広がる。


「おめでとうございます」

「さすがですわ」──そんな整った賞賛の言葉が次々に交わされた。


けれど、拍手の裏で多くの視線は別の場所に向けられていた。

一人、静かに席へ戻るティーナ。その背を、幾人もの目が追っていた。


ティーナの動作への憧れが、少女たちの心に芽生えていた。


視線がティーナを追い続ける中、ベルシアはひとり取り残されたような気がしていた。


そして数日後──。


午後の陽が斜めに差し込む高等学術院の訓練場では、木々の隙間からこぼれる光が、剣の煌めきと生徒たちの熱気を照らしていた。


石畳と砂地が交じる広い演習場。その中央で訓練教官が順に名を呼び、生徒たちは一人ずつ剣の型を披露していく。男女合同の授業。男子は力強さ、女子は気品を競い合い、視線が交差する中、演武は進んでいた。


「次、ティーナ」


名が呼ばれた瞬間、空気が凍りついたように静まる。


ティーナは一礼し、音もなく中央へ進む。その姿は、風すら起こさない。剣を構えた瞬間、生徒たちの視線が吸い寄せられた。


「……すごく静か……」


誰かの小さな囁きが漏れる。


ティーナの剣さばきは誇示でも技巧でもない。ひたすら丁寧に。抑えられた力の中に、静謐な威圧感を宿していた。一つひとつの型に曖昧さはなく、ただ“静けさ”が印象を深く刻んでいく。


演武を終え、所定の位置へ戻ろうとしたティーナの背に、静かな声が届く。


「あなたの構え……無駄がなく、美しい」


振り返ると、黒髪の寡黙な男子──ユリウスが立っていた。知性と冷静さを兼ね備え、学術と剣術の両面で常に上位にいる彼が、言葉をかけること自体が稀だった。


ティーナは驚いたように答える。


「いえ……ただ、間違えないように注意してるだけで……」


ユリウスは一歩前に出て、さらに問う。


「君の構え、どこかで学んだ? それとも自己流? 型にとらわれず、精度が高い。珍しい」


ティーナは目を伏せ、答えなかった。


ユリウスは無理に聞こうとせず、少し微笑んだ。


「……秘密にしたいならいい。ただ、印象に残った。それだけだ」


そのやりとりを、訓練場の端から見ていたのは──伯爵令嬢ベルシア・ディエラン。


常に注目を集めてきた彼女にとって、ユリウスの視線が別の少女に向けられたことは、胸に棘のように刺さった。


ベルシアは音を立てて歩み寄り、ティーナの前に立つ。


「あなたの剣は遅すぎて、兎一匹殺せないわ」


訓練場がざわめいた。批判というより、それは明らかな嫉妬だった。


ユリウスが静かに前へ出る。


「話しかけたのは僕だ。ティーナ嬢の剣には、見るべきものがある」


言葉は淡々としていたが、重みを伴っていた。ベルシアは反論しかけたが、何も言えずに睨み返すだけだった。


クラリスとミーナが駆け寄る。


「すごかった……!」

「あの静かな剣、見惚れちゃった……!」


エレオノーラも一歩進み出て、落ち着いた声で言う。


「評価されたのは、動きそのものよ」


ティーナを称賛する空気が周囲に広がっていく。


だが、ベルシアはその場に立ち尽くしていた。耐えきれない何かが、心の奥で揺れている。


そして、再び声を発する。


「ティーナ、私と勝負しなさい」


場が凍りつく。教官すら口を挟めず、模擬戦の準備が整えられていく。


ティーナは静かに一礼し、剣を構えた。ベルシアも、剣を強く握り直す。


──試合が始まる。


鋭い踏み込みから繰り出される斬撃。速さ、重さ、角度──すべてが計算された貴族剣術の型どおり。


だが、ティーナは微動だにせず、呼吸のように自然にそれを受け止めていた。


「……また防がれた……」


ベルシアの顔に焦りが浮かぶ。


フェイントからの斬り上げも、ティーナはわずかに身を引いただけで無力化した。


力が、どこにも届かない。


ベルシアはさらに速さを上げる。斬りつけ、突き込み、回り込み……それでも、すべてが通らなかった。


ティーナの剣術は、“拒絶”ではなく“受容”。

力を否定せず、静かに呑み込むような、揺るがぬ構え。


「なぜ……避けないの……!」


ベルシアの叫びの瞬間、ティーナの剣が初めて動いた。

振り下ろされた太刀を最小限の角度で受け流し、そっと腕を押し返す。


ごく僅かな衝撃。だが、それは“届いた”という明確な応答だった。


その瞬間、ベルシアの動きが止まった。


乱れる呼吸。額に汗。ティーナはただ静かに立つ。


生徒たちは、あの場に満ちた“絶対的な均衡”に息を呑んだ。


やがて、ベルシアは剣を下ろす。


「……あなた、本気で戦う気がないの? 攻撃もしないなんて……こんな試合、つまらないわ」


そう吐き捨てて背を向け、歩き去った。誰も声をかけなかった。


ティーナは音もなく礼をして、その場を後にした。

教官は何も言わず、記録用紙を静かに閉じる。


──静寂のあと。


クラリスがぽつりと呟いた。


「あれが……本当の静かな強さなのね……」


ミーナも頷く。


「……見てるだけで、息が詰まりそうだった……」


エレオノーラはベルシアの去った方向を見つめながら言った。


「一切の攻撃を使わずに保たれた均衡。あれは──信念よ」


ティーナは黙って演習場を後にした。


残されたベルシアの心には、嵐が渦巻いていた。


あの子は……何なの。

ユリウスまで、あの子に惹かれてる。

私が皆の中心だったのに──なぜ、勝てないの?

なぜ、伯爵家の私が、男爵家の令嬢に……こんなにも追い詰められてるの……?


胸の奥で渦巻いていた感情は、怒りでも羞恥でもなかった。

“理解できない”という恐怖だった。


その恐怖が、彼女の心に火を灯す。


このままでは終われない。

けれど、それが“敵意”なのか“興味”なのか──

彼女自身にも、まだ分からなかった。


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