バルティネス家の朝は、いつもと変わらず静かだった。
質素な木のテーブルには、焼き立てのパンと温野菜の香りが漂い、家族がそろって食事を囲んでいた。だが、その空気を破ったのは、父・クラウスの一言だった。
「ティーナ、お前に婚約の申し込みがあったぞ」
その言葉に、全員の手が止まった。
「……え?」
思わずティーナが声を漏らすと、父は少しだけ眉を上げて、続けた。
「驚くなよ。あのユリウス公爵家からだ」
母・マルレーネがスプーンを落としかけて口元を押さえた。
「ユリウス様って、あの……? 本当に、あのグランセリオ公爵家の?」
妹のソフィアは、目を輝かせてパンを両手で抱きしめた。
「すごい! お姉ちゃん、お姫様になるの!? ティーナ姫って響き、最高!」
兄のエドワードも椅子を引きすぎて、半分腰が浮いていた。
「まさか……グランセリオって、あの議会の中枢の? ユリウスって、学園でも有名な……あのユリウスか?」
ティーナだけがぽかんと口を開けていた。
「……なぜ、私に?」
その問いには、誰も答えられなかった。
彼女は自分の手を見つめた。力を込めれば、どんなものも壊してしまうこの手。
婚約という言葉は、あまりにも遠い世界の出来事に思えた。誰かに自分を預けること──それが、こんな自分に許されるのだろうか。
その後数日は、彼女の中に言葉が降らなかった。
けれど、ユリウスからの正式な誘いは本物だった。王都での顔合わせ。初めての、ふたりきりの外出。
その日、春の風がやわらかく街を包んでいた。
「こんにちは、ティーナ嬢。お時間、ありがとう」
ユリウスは礼儀正しく頭を下げた。長身に整った立ち姿、知的な瞳と静かな声は、学園でも一目置かれる存在だった。
「……こちらこそ。よろしくお願いします」
ティーナはかすかに頭を下げた。
初めての外出に、彼女の胸は波打っていた。髪飾りも控えめなものを選び、ドレスも飾り気のない淡い色合いにした。緊張のあまり、指先に力が入りすぎないよう、常に意識を集中させていた。
王都の大通り。並んで歩く二人の足取りは、ぎこちないながらもそろっていた。
「……街は賑やかですね」
「今日は市の日ですからね。ここでの暮らしは、よくご存じ?」
「いえ……あまり、外に出ることがなかったので……」
彼女の言葉に、ユリウスは頷いた。
「なるほど。では今日は、私が案内役ですね」
ティーナは小さく微笑んだ。それだけで、ユリウスの表情がわずかに緩んだように見えた。
通りを抜けた先、人気の菓子店の前でユリウスが立ち止まった。
「甘いものは……お好きですか?」
「はい、少し……」
店先に並ぶタルトやフィナンシェの中から、ティーナは小さく指を伸ばした。
「……これ、苺のタルト……」
「それでは、こちらをいただきましょうか」
中に入ると、温かい香りが迎えてくれた。ガラス越しに陽の光が差し込み、テーブルの影が柔らかく伸びていた。
ティーナは苺のタルトにフォークを入れる動作にも、極限まで神経を注いでいた。
ひと口、そっと口に運ぶ。
「……美味しいです」
控えめな言葉。でもその頬は、わずかに赤らんでいた。
店を出ると、ユリウスは彼女の歩調に合わせながら尋ねた。
「次は、どこか静かな場所にしましょうか」
「はい……お願いします」
選ばれたのは、小さな公園だった。子どもたちの笑い声が木立の間に響いている。
二人は噴水のそばにあるベンチに腰を下ろした。
「この前の実技試験──話題になっていました」
「……わたしが?」
「ええ。君の動き……誰もが見惚れていた」
ティーナは少しだけ視線を落とした。
「……そんなつもりじゃ、なかったんです」
静かに、ゆっくりと呟くその言葉に、ユリウスは何も返さなかった。ただ、そっとその沈黙を受け入れた。
小鳥のさえずりが、噴水の音に紛れて耳に届く。
そして──ユリウスの手が、わずかにティーナの手元へと伸びた。
その瞬間、ティーナは自然に手を膝へと引き戻した。
触れさせてはいけない。
壊してしまわないように。
彼の手は、何も触れぬまま、そっと膝の上で止まった。
次第に日が傾きはじめ、午後の光が地面に長く影を落とす。
その後、二人は本通りを少し外れた路地を抜け、小さな書物屋の裏庭へ足を運んだ。
「この場所……少し静かですけど、嫌じゃないですか?」
ユリウスが尋ねると、ティーナは小さく首を振った。
「いえ……こういうところ、落ち着きます」
木の下に並ぶ古い石のベンチ。傍らの棚には、誰かが読みかけた詩集が置かれていた。
「本は、お好きですか?」
ユリウスが問うと、ティーナは少し考えてから口を開いた。
「はい……でも、あまり難しいものは……」
「ちょうどいいですね。私も詩は、音の方が好きです。意味を考えるより、響きで感じる方が合ってる」
ティーナは少し目を見開いた。「……そうなんですか?」
「ええ。詩は言葉でできているけど、感情で読まないと伝わらない気がする」
ティーナはふと視線を落としたまま、そっと笑った。
「それ……なんだか、わかる気がします」
その笑顔に、ユリウスの胸がわずかに熱を帯びる。
やがて、時刻は夕暮れに近づいた。
夕陽が水面に溶け始める頃、二人は王都の外れにある桟橋へと向かった。
空は茜色に染まり、湖面がきらきらと揺れている。
ティーナは風に髪をなびかせながら、その景色をじっと見つめていた。
「……綺麗ですね」
「はい。今日、来られてよかったです」
ユリウスは、ためらうように言葉を選びながら、そっと肩へ手を伸ばした。
けれど、ティーナはその直前で顔を横に向け、わずかに身体をずらす。
ユリウスの手は、空中で止まり──やがて、何事もなかったように静かに戻された。
「……ごめんなさい」
ティーナが小さく呟く。だがその声は、波の音に紛れて、ユリウスには届かなかった。
帰り道。夕暮れの通りを抜けた先、路地を曲がったところで──
「あっ、ユリウス様……?」「ティーナさんと……」
学園の生徒たちとばったり出くわした。
ひそひそと交わされる声。ティーナは軽く頭を下げ、微笑んだ。
ユリウスは一歩前へ出て、生徒たちの間に自然に立つ。
まるで、彼女を守るように。
何も言わず、けれど確かに示された態度。それは、言葉よりも強い意思を帯びていた。
二人は再び歩き出す。ティーナの歩幅に、ユリウスは自然と合わせた。
「……本当に不思議な子だな、君は」
帰り際、彼がぽつりと漏らす。
ティーナは少し顔を伏せ、小さく震える声で答えた。
「……すみません……」
ユリウスは、その答えに何も返さなかった。ただ、しばらく彼女の横顔を見つめていた。
そして、胸の奥で静かにひとつの思いを抱く。
──いつか、ちゃんと見てもらえるようになりたい。
茜色に染まった並木道を、小鳥の声が遠くに残していく。
二つの影が並んで歩くその姿は、肩を並べるにはまだ遠く、けれど心が交わるにはもう遅すぎない──そんな距離を保ちながら、ゆっくりと進んでいた。
それは、始まりかけたばかりの、淡く静かな恋の時間だった。