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第8話

 バルティネス家の朝は、いつもと変わらず静かだった。


 質素な木のテーブルには、焼き立てのパンと温野菜の香りが漂い、家族がそろって食事を囲んでいた。だが、その空気を破ったのは、父・クラウスの一言だった。


「ティーナ、お前に婚約の申し込みがあったぞ」


 その言葉に、全員の手が止まった。


「……え?」


 思わずティーナが声を漏らすと、父は少しだけ眉を上げて、続けた。


「驚くなよ。あのユリウス公爵家からだ」


 母・マルレーネがスプーンを落としかけて口元を押さえた。


「ユリウス様って、あの……? 本当に、あのグランセリオ公爵家の?」


 妹のソフィアは、目を輝かせてパンを両手で抱きしめた。


「すごい! お姉ちゃん、お姫様になるの!? ティーナ姫って響き、最高!」


 兄のエドワードも椅子を引きすぎて、半分腰が浮いていた。


「まさか……グランセリオって、あの議会の中枢の? ユリウスって、学園でも有名な……あのユリウスか?」


 ティーナだけがぽかんと口を開けていた。


「……なぜ、私に?」


 その問いには、誰も答えられなかった。


 彼女は自分の手を見つめた。力を込めれば、どんなものも壊してしまうこの手。


 婚約という言葉は、あまりにも遠い世界の出来事に思えた。誰かに自分を預けること──それが、こんな自分に許されるのだろうか。


 その後数日は、彼女の中に言葉が降らなかった。


 けれど、ユリウスからの正式な誘いは本物だった。王都での顔合わせ。初めての、ふたりきりの外出。


 その日、春の風がやわらかく街を包んでいた。


「こんにちは、ティーナ嬢。お時間、ありがとう」


 ユリウスは礼儀正しく頭を下げた。長身に整った立ち姿、知的な瞳と静かな声は、学園でも一目置かれる存在だった。


「……こちらこそ。よろしくお願いします」


 ティーナはかすかに頭を下げた。


 初めての外出に、彼女の胸は波打っていた。髪飾りも控えめなものを選び、ドレスも飾り気のない淡い色合いにした。緊張のあまり、指先に力が入りすぎないよう、常に意識を集中させていた。


 王都の大通り。並んで歩く二人の足取りは、ぎこちないながらもそろっていた。


「……街は賑やかですね」


「今日は市の日ですからね。ここでの暮らしは、よくご存じ?」


「いえ……あまり、外に出ることがなかったので……」


 彼女の言葉に、ユリウスは頷いた。


「なるほど。では今日は、私が案内役ですね」


 ティーナは小さく微笑んだ。それだけで、ユリウスの表情がわずかに緩んだように見えた。


 通りを抜けた先、人気の菓子店の前でユリウスが立ち止まった。


「甘いものは……お好きですか?」


「はい、少し……」


 店先に並ぶタルトやフィナンシェの中から、ティーナは小さく指を伸ばした。


「……これ、苺のタルト……」


「それでは、こちらをいただきましょうか」


 中に入ると、温かい香りが迎えてくれた。ガラス越しに陽の光が差し込み、テーブルの影が柔らかく伸びていた。


 ティーナは苺のタルトにフォークを入れる動作にも、極限まで神経を注いでいた。


 ひと口、そっと口に運ぶ。


「……美味しいです」


 控えめな言葉。でもその頬は、わずかに赤らんでいた。


 店を出ると、ユリウスは彼女の歩調に合わせながら尋ねた。


「次は、どこか静かな場所にしましょうか」


「はい……お願いします」


 選ばれたのは、小さな公園だった。子どもたちの笑い声が木立の間に響いている。


 二人は噴水のそばにあるベンチに腰を下ろした。


「この前の実技試験──話題になっていました」


「……わたしが?」


「ええ。君の動き……誰もが見惚れていた」


 ティーナは少しだけ視線を落とした。


「……そんなつもりじゃ、なかったんです」


 静かに、ゆっくりと呟くその言葉に、ユリウスは何も返さなかった。ただ、そっとその沈黙を受け入れた。


 小鳥のさえずりが、噴水の音に紛れて耳に届く。


 そして──ユリウスの手が、わずかにティーナの手元へと伸びた。


 その瞬間、ティーナは自然に手を膝へと引き戻した。


 触れさせてはいけない。


 壊してしまわないように。


 彼の手は、何も触れぬまま、そっと膝の上で止まった。


 次第に日が傾きはじめ、午後の光が地面に長く影を落とす。


  その後、二人は本通りを少し外れた路地を抜け、小さな書物屋の裏庭へ足を運んだ。


「この場所……少し静かですけど、嫌じゃないですか?」


 ユリウスが尋ねると、ティーナは小さく首を振った。


「いえ……こういうところ、落ち着きます」


 木の下に並ぶ古い石のベンチ。傍らの棚には、誰かが読みかけた詩集が置かれていた。


「本は、お好きですか?」


 ユリウスが問うと、ティーナは少し考えてから口を開いた。


「はい……でも、あまり難しいものは……」


「ちょうどいいですね。私も詩は、音の方が好きです。意味を考えるより、響きで感じる方が合ってる」


 ティーナは少し目を見開いた。「……そうなんですか?」


「ええ。詩は言葉でできているけど、感情で読まないと伝わらない気がする」


 ティーナはふと視線を落としたまま、そっと笑った。


「それ……なんだか、わかる気がします」


 その笑顔に、ユリウスの胸がわずかに熱を帯びる。


 やがて、時刻は夕暮れに近づいた。


 夕陽が水面に溶け始める頃、二人は王都の外れにある桟橋へと向かった。


 空は茜色に染まり、湖面がきらきらと揺れている。


 ティーナは風に髪をなびかせながら、その景色をじっと見つめていた。


「……綺麗ですね」


「はい。今日、来られてよかったです」


 ユリウスは、ためらうように言葉を選びながら、そっと肩へ手を伸ばした。


 けれど、ティーナはその直前で顔を横に向け、わずかに身体をずらす。


 ユリウスの手は、空中で止まり──やがて、何事もなかったように静かに戻された。


「……ごめんなさい」


 ティーナが小さく呟く。だがその声は、波の音に紛れて、ユリウスには届かなかった。


 帰り道。夕暮れの通りを抜けた先、路地を曲がったところで──


「あっ、ユリウス様……?」「ティーナさんと……」


 学園の生徒たちとばったり出くわした。


 ひそひそと交わされる声。ティーナは軽く頭を下げ、微笑んだ。


 ユリウスは一歩前へ出て、生徒たちの間に自然に立つ。


 まるで、彼女を守るように。


 何も言わず、けれど確かに示された態度。それは、言葉よりも強い意思を帯びていた。


 二人は再び歩き出す。ティーナの歩幅に、ユリウスは自然と合わせた。


「……本当に不思議な子だな、君は」


 帰り際、彼がぽつりと漏らす。


 ティーナは少し顔を伏せ、小さく震える声で答えた。


「……すみません……」


 ユリウスは、その答えに何も返さなかった。ただ、しばらく彼女の横顔を見つめていた。


 そして、胸の奥で静かにひとつの思いを抱く。


 ──いつか、ちゃんと見てもらえるようになりたい。


 茜色に染まった並木道を、小鳥の声が遠くに残していく。


 二つの影が並んで歩くその姿は、肩を並べるにはまだ遠く、けれど心が交わるにはもう遅すぎない──そんな距離を保ちながら、ゆっくりと進んでいた。


 それは、始まりかけたばかりの、淡く静かな恋の時間だった。


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