朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の空気をほのかに温めていた。
ティーナは布団の中で小さく伸びをしながら、目をこすった。窓の外から聞こえる小鳥の声が、今日も変わらない一日の始まりを告げていた――本来ならば。
けれど、布団を出たとき、ほんの少しだけ、昨日とは違う空気を感じていた。
いつものように学園の門をくぐった瞬間だった。ティーナの心に、微かな違和感がよぎる。
いつもならすれ違うだけの生徒たちの視線が、妙に長く、ぴたりと止まっている。そして、何かを言いかけるようなそぶりを見せながらも、目を逸らして通り過ぎていく。
「……あれ?」
呟いた声にすら戸惑いが混じる。言葉にできないほど小さな違和感だ。けれど、それは確かに“昨日まで”とは違っていた。
教室に入っても、様子は同じだった。
誰一人として「おはよう」と声をかけてこない。いつもなら手を振ってくれる子も、近くの席の生徒たちも、視線を合わせようとしない。
空気がどこか淀んでいて、まるでティーナの存在だけが切り離されているかのようだった。
──まるで、自分が教室の中でだけ透明になったみたい。
ティーナは首をすくめるようにして、自分の席に腰を下ろした。
そのとき。
重苦しい雰囲気を一変させるように、勢いよく教室の扉が開かれた。
「ティーナさーん、昨日の王子様の顔、見ました!? なんかもう……すごかったですよね!」
クラリスが、いつもの調子で話しかける。そのあとにミーナも続き、二人はまるで何事もなかったかのように笑顔でティーナの席へ向かってきた。
「私はてっきり、劇のリハーサルかと思ったくらいです!」
「違う違う、完全に本気だったでしょ、あの目つき! 絶対ティーナ狙いだったよ!」
三人は自然にティーナの周囲へと集まり、昨日の続きを語るように声を弾ませた。
ティーナはその様子を見ながら、笑うでもなく、否定するでもなく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「う、うん……なんだか、びっくりしちゃって……」
それだけをぽつりと返すと、話には加わらず、静かに机の上に視線を落とした。
──王子のことも、昨日の出来事も、全部「気にしないようにすること」に分けてしまおう。
彼女の中では、そうすることで今日もまた「何事もなく」過ごせる気がしていた。
今日も力を使わずに済ませる――それだけが、ティーナにとって守るべき一番大事なことだった。
小さく息を整えるように深呼吸をしていると、最初の休み時間がやってきた。
そのたびに、ティーナのもとへ順番に男子たちが現れた。
最初に現れたのはユリウスだった。整った制服に真剣な目をした彼は、迷いのない声で言った。
「僕との婚約のこと、考えてくれた?」
ティーナは小さくうつむき、目を伏せたまま何も答えなかった。
次に姿を見せたのはセイル。彼は距離を詰め、囁くように問いかける。
「ティーナさん。今度の休みに……花が満開の場所があるんです。一緒に行けたらと」
ティーナは視線を落とし、再び沈黙を選んだ。
そして三人目に現れたのは、勢いそのままに駆け寄ってきたレオンだった。
「ティーナ、俺と付き合え! お前を幸せにできるのは、この俺しかいねぇ!」
教室中が一瞬、息をのむほどの直球。
ティーナは驚いた表情を浮かべたが、それでも言葉を返すことはなかった。
──私と一緒にいれば、きっとケガをさせてしまう。
ティーナの胸にあったのは、ただその一点だった。
男子も女子も、あまりの真剣さとテンションの高さに、思わず苦笑を浮かべていた。
まもなく昼休みのチャイムが鳴り、日直の号令が教室に響いたころだった。
ティーナのもとへ、上級生らしい女子がひとり近づいてきた。
顔を合わせることなく、小さな声で告げる。
「……少し、裏庭に来ていただけますか。お話があるんです」
その声音はやわらかだったが、どこか張り詰めた気配がにじんでいた。
「え? あの、私に……ですか?」
ティーナはきょとんとした表情のまま尋ねた。上級生は一度だけうなずき、何も言わずに踵を返した。
迷うことなく立ち上がるティーナ。その背には、教室中から注がれる視線があった。
けれどティーナだけが、それに気づいていなかった。
ティーナが姿を消すと、教室ではさっそくざわめきが広がっていた。
「え、裏庭に行ったの……? あの上級生たちに呼ばれて?」
「やばいって……去年も一人、泣かされたって話あったよね……」
「ティーナさん、大丈夫かな……目、赤くなるくらいじゃ済まないかも……」
「下手したら怪我してるかも……男爵家なんて、口答えも許されないでしょ……」
恐る恐る交わされる会話には、恐怖と同情と好奇心が入り混じっていた。まるで“もう何か起こってしまった”かのように。
***
裏庭には、すでに三人の上級生が並んで立っていた。
どの子も整った身なりで、所作も丁寧。だが、その眼差しには冷ややかな色があった。
「随分と、注目を集めてるじゃない。王子様に、ユリウス様、セイル様……果てはレオン様まで」
一人が切り出すと、他の二人も静かに頷いた。
「……あなた、どういうつもりなの?」
「身分をわきまえなさい。男爵家の娘が、あの方々に色目を使うなんて」
言葉は丁寧だったが、声色は明らかに詰問だった。
ティーナは小さく首をかしげた。
「……ごめんなさい。私、なにか気に障ることをしていたら……謝ります」
その純粋な一言に、一瞬空気が止まる。
その場の空気を壊すように、ひとりの上級生が苛立ちを爆発させた。
「この子、私たちを馬鹿にしてるのよ。痛い目見なきゃ分からないんでしょ!」
そう叫びながら、拳を振り上げ、ティーナに向かって飛びかかろうとする。
けれど――
「きゃっ……!」
その拳は、何も捉えられないまま空を切り、勢いを失った身体はバランスを崩して前のめりに転びかける。
慌てて他の二人が支えに入るが、その光景はどこから見ても「自滅」の一撃だった。
ティーナは慌てて数歩近づき、心配そうにのぞき込んだ。
「大丈夫ですか? どこか痛くしてませんか?」
その声は、非難でも嘲りでもなく、ただただ純粋に相手を気遣っていた。
その優しさが、上級生たちの自尊心をさらに深く抉る。
次の瞬間、残る二人がティーナの腕をつかもうと同時に手を伸ばす。
しかしティーナがほんのわずかに身を引いただけで、その手はどれも空を切った。
再度、つかもうとする。だが何度伸ばしても、まるで風をつかもうとしているかのように、指先はティーナに届かない。
やがて、肩を大きく上下させながら三人は息を切らし、立ち尽くす。
「……はっ、はぁ……」
ティーナは再び尋ねた。
「皆さん……本当に、大丈夫ですか?」
その言葉には、少しの皮肉もなかった。
「……もしお話がないようでしたら、失礼いたします。教室に戻りますね」
彼女はゆっくりと両手を胸の前に揃え、美しい所作で深く一礼した。
その動きは教本から抜け出したかのように整っており、品位を感じさせるには十分すぎた。
そして、すっと背を伸ばしたまま、何事もなかったように歩いてその場を後にした。
呆然と立ち尽くす三人は、ただその背を見送ることしかできなかった。
***
──よかった。誰もケガしてなくて。
ティーナの心の中は、その思いでいっぱいだった。
他のことを考える余裕など、最初からなかった。
***
そして、教室の扉が音もなく開く。
噂話に花を咲かせていた教室が、一瞬で水を打ったように静まり返る。
まっすぐ背を伸ばし、制服の乱れ一つないティーナが戻ってきた。
足取りはゆるやかで、表情も穏やか。まるで外で何事もなかったかのような様子だった。
「……ただいま戻りました」
そう言って、席に戻る。
教室中の視線がティーナに集まっていたが、本人はそのことに一切気づくことなく、鞄から教科書を取り出して次の準備を始めた。
さっきまで飛び交っていた噂は、空気に溶けるように消えていく。
その空気の中で、クラリスがそっと机越しに声をかける。
「ティーナさん……あの、だ、大丈夫? 裏庭のこと……」
「なにか言われたり、されちゃったり……」
ティーナは少しだけ目を丸くし、首を横に振った。
「ううん。お話があるって言われたけど、結局なにもなかったの。それで、そのまま帰ってきただけだよ」
あっけらかんとしたその返答に、クラリスとミーナは顔を見合わせる。
そして、ほっとしたように微笑んだ。
***
「ティーナ嬢は、男爵家の出です」
王宮の執務室で、シグルドが報告を終えると、アルヴァンは沈黙した。
王子としての立場も、彼女の気持ちも考えずに行動した自分が、いかに無思慮だったか。今さらながら痛感していた。
「……男爵家、か」
そのひと言を漏らし、アルヴァンは椅子に深く背を預けると、長く息を吐いた。
その横で、シグルドがどこか楽しげな表情を浮かべていたのを、アルヴァンだけは見なかったふりをした。