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第12話

朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の空気をほのかに温めていた。


 ティーナは布団の中で小さく伸びをしながら、目をこすった。窓の外から聞こえる小鳥の声が、今日も変わらない一日の始まりを告げていた――本来ならば。


 けれど、布団を出たとき、ほんの少しだけ、昨日とは違う空気を感じていた。


 いつものように学園の門をくぐった瞬間だった。ティーナの心に、微かな違和感がよぎる。


 いつもならすれ違うだけの生徒たちの視線が、妙に長く、ぴたりと止まっている。そして、何かを言いかけるようなそぶりを見せながらも、目を逸らして通り過ぎていく。


 「……あれ?」


 呟いた声にすら戸惑いが混じる。言葉にできないほど小さな違和感だ。けれど、それは確かに“昨日まで”とは違っていた。


 教室に入っても、様子は同じだった。


 誰一人として「おはよう」と声をかけてこない。いつもなら手を振ってくれる子も、近くの席の生徒たちも、視線を合わせようとしない。


 空気がどこか淀んでいて、まるでティーナの存在だけが切り離されているかのようだった。


 ──まるで、自分が教室の中でだけ透明になったみたい。


 ティーナは首をすくめるようにして、自分の席に腰を下ろした。


 そのとき。


 重苦しい雰囲気を一変させるように、勢いよく教室の扉が開かれた。


 「ティーナさーん、昨日の王子様の顔、見ました!? なんかもう……すごかったですよね!」


 クラリスが、いつもの調子で話しかける。そのあとにミーナも続き、二人はまるで何事もなかったかのように笑顔でティーナの席へ向かってきた。


 「私はてっきり、劇のリハーサルかと思ったくらいです!」


 「違う違う、完全に本気だったでしょ、あの目つき! 絶対ティーナ狙いだったよ!」


 三人は自然にティーナの周囲へと集まり、昨日の続きを語るように声を弾ませた。


 ティーナはその様子を見ながら、笑うでもなく、否定するでもなく、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 「う、うん……なんだか、びっくりしちゃって……」


 それだけをぽつりと返すと、話には加わらず、静かに机の上に視線を落とした。


 ──王子のことも、昨日の出来事も、全部「気にしないようにすること」に分けてしまおう。


 彼女の中では、そうすることで今日もまた「何事もなく」過ごせる気がしていた。


 今日も力を使わずに済ませる――それだけが、ティーナにとって守るべき一番大事なことだった。


 小さく息を整えるように深呼吸をしていると、最初の休み時間がやってきた。


 そのたびに、ティーナのもとへ順番に男子たちが現れた。


 最初に現れたのはユリウスだった。整った制服に真剣な目をした彼は、迷いのない声で言った。


 「僕との婚約のこと、考えてくれた?」


 ティーナは小さくうつむき、目を伏せたまま何も答えなかった。


 次に姿を見せたのはセイル。彼は距離を詰め、囁くように問いかける。


 「ティーナさん。今度の休みに……花が満開の場所があるんです。一緒に行けたらと」


 ティーナは視線を落とし、再び沈黙を選んだ。


 そして三人目に現れたのは、勢いそのままに駆け寄ってきたレオンだった。


 「ティーナ、俺と付き合え! お前を幸せにできるのは、この俺しかいねぇ!」


 教室中が一瞬、息をのむほどの直球。


 ティーナは驚いた表情を浮かべたが、それでも言葉を返すことはなかった。


 ──私と一緒にいれば、きっとケガをさせてしまう。


 ティーナの胸にあったのは、ただその一点だった。


 男子も女子も、あまりの真剣さとテンションの高さに、思わず苦笑を浮かべていた。


 まもなく昼休みのチャイムが鳴り、日直の号令が教室に響いたころだった。


 ティーナのもとへ、上級生らしい女子がひとり近づいてきた。


 顔を合わせることなく、小さな声で告げる。


 「……少し、裏庭に来ていただけますか。お話があるんです」


 その声音はやわらかだったが、どこか張り詰めた気配がにじんでいた。


 「え? あの、私に……ですか?」


 ティーナはきょとんとした表情のまま尋ねた。上級生は一度だけうなずき、何も言わずに踵を返した。


 迷うことなく立ち上がるティーナ。その背には、教室中から注がれる視線があった。


 けれどティーナだけが、それに気づいていなかった。


 ティーナが姿を消すと、教室ではさっそくざわめきが広がっていた。


「え、裏庭に行ったの……? あの上級生たちに呼ばれて?」


「やばいって……去年も一人、泣かされたって話あったよね……」


「ティーナさん、大丈夫かな……目、赤くなるくらいじゃ済まないかも……」


「下手したら怪我してるかも……男爵家なんて、口答えも許されないでしょ……」


 恐る恐る交わされる会話には、恐怖と同情と好奇心が入り混じっていた。まるで“もう何か起こってしまった”かのように。


***


 裏庭には、すでに三人の上級生が並んで立っていた。


 どの子も整った身なりで、所作も丁寧。だが、その眼差しには冷ややかな色があった。


「随分と、注目を集めてるじゃない。王子様に、ユリウス様、セイル様……果てはレオン様まで」


 一人が切り出すと、他の二人も静かに頷いた。


「……あなた、どういうつもりなの?」


「身分をわきまえなさい。男爵家の娘が、あの方々に色目を使うなんて」


 言葉は丁寧だったが、声色は明らかに詰問だった。


 ティーナは小さく首をかしげた。


「……ごめんなさい。私、なにか気に障ることをしていたら……謝ります」


 その純粋な一言に、一瞬空気が止まる。


 その場の空気を壊すように、ひとりの上級生が苛立ちを爆発させた。


「この子、私たちを馬鹿にしてるのよ。痛い目見なきゃ分からないんでしょ!」


 そう叫びながら、拳を振り上げ、ティーナに向かって飛びかかろうとする。


 けれど――


「きゃっ……!」


 その拳は、何も捉えられないまま空を切り、勢いを失った身体はバランスを崩して前のめりに転びかける。


 慌てて他の二人が支えに入るが、その光景はどこから見ても「自滅」の一撃だった。


 ティーナは慌てて数歩近づき、心配そうにのぞき込んだ。


「大丈夫ですか? どこか痛くしてませんか?」


 その声は、非難でも嘲りでもなく、ただただ純粋に相手を気遣っていた。


 その優しさが、上級生たちの自尊心をさらに深く抉る。


 次の瞬間、残る二人がティーナの腕をつかもうと同時に手を伸ばす。


 しかしティーナがほんのわずかに身を引いただけで、その手はどれも空を切った。


 再度、つかもうとする。だが何度伸ばしても、まるで風をつかもうとしているかのように、指先はティーナに届かない。


 やがて、肩を大きく上下させながら三人は息を切らし、立ち尽くす。


「……はっ、はぁ……」


 ティーナは再び尋ねた。


「皆さん……本当に、大丈夫ですか?」


 その言葉には、少しの皮肉もなかった。


「……もしお話がないようでしたら、失礼いたします。教室に戻りますね」


 彼女はゆっくりと両手を胸の前に揃え、美しい所作で深く一礼した。


 その動きは教本から抜け出したかのように整っており、品位を感じさせるには十分すぎた。


 そして、すっと背を伸ばしたまま、何事もなかったように歩いてその場を後にした。


 呆然と立ち尽くす三人は、ただその背を見送ることしかできなかった。


***


 ──よかった。誰もケガしてなくて。


 ティーナの心の中は、その思いでいっぱいだった。


 他のことを考える余裕など、最初からなかった。


***


 そして、教室の扉が音もなく開く。


 噂話に花を咲かせていた教室が、一瞬で水を打ったように静まり返る。


 まっすぐ背を伸ばし、制服の乱れ一つないティーナが戻ってきた。


 足取りはゆるやかで、表情も穏やか。まるで外で何事もなかったかのような様子だった。


「……ただいま戻りました」


 そう言って、席に戻る。


 教室中の視線がティーナに集まっていたが、本人はそのことに一切気づくことなく、鞄から教科書を取り出して次の準備を始めた。


 さっきまで飛び交っていた噂は、空気に溶けるように消えていく。


 その空気の中で、クラリスがそっと机越しに声をかける。


「ティーナさん……あの、だ、大丈夫? 裏庭のこと……」


「なにか言われたり、されちゃったり……」


 ティーナは少しだけ目を丸くし、首を横に振った。


「ううん。お話があるって言われたけど、結局なにもなかったの。それで、そのまま帰ってきただけだよ」


 あっけらかんとしたその返答に、クラリスとミーナは顔を見合わせる。


 そして、ほっとしたように微笑んだ。


***


「ティーナ嬢は、男爵家の出です」


 王宮の執務室で、シグルドが報告を終えると、アルヴァンは沈黙した。


 王子としての立場も、彼女の気持ちも考えずに行動した自分が、いかに無思慮だったか。今さらながら痛感していた。


「……男爵家、か」


 そのひと言を漏らし、アルヴァンは椅子に深く背を預けると、長く息を吐いた。


 その横で、シグルドがどこか楽しげな表情を浮かべていたのを、アルヴァンだけは見なかったふりをした。


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