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第11話

  講堂の熱気が、まるで誰かが間違って冷房ボタンを押したかのように、一瞬でしん……となった。


 壇を降りた王子アルヴァンは、まっすぐティーナの前に立ち尽くし、まるで運命の人を見つけた映画の主人公のような顔で見つめていた。


 ティーナはぽかんと口を開けたまま、首を少し傾けて、目の前の王子を見上げていた。「あれ……これって……わたしに言ったんでしょうか?」とでも言いたげな表情で、頬に薄く赤みがさしている。


 空気はフリーズ状態。その中で、後ろに控えていた護衛シグルドが、すっと一歩だけ前に出た。そして、半分ため息混じりに進言する。


「殿下……申し訳ありませんが、それはさすがに……少々、お気持ちが先走っておられます。周囲の目もございますし……御自覚を」


 まるで舞台袖から現れたツッコミ役のようなその一言に、アルヴァンの肩がビクッと震えた。顔色が、スカーフの青に負けないくらい真っ青になっていく。


「……あ、あれは……その……ちょっと……」と、王子の口から漏れ出すのは、もはや言葉にならない言葉たち。視線はあちこちをさまよい、ついには無言のまま、くるりと背を向けた。


 そして、講堂の床をまるで逃げ足の競技かという速さで歩き去っていく。後ろ姿には、王族の威厳ではなく、「ああああああああああああああ!」という内心の絶叫が文字として見えるようだった。


 教壇の上から降りたばかりの熱狂の主役が、今や逃走劇の主演である。


 講堂では、空気が徐々に解凍されていた。


「今の……聞こえたよね?」


「“やっと会えた”って言ったよね……王子が……!」


 どこからともなく聞こえた囁きは、瞬く間に伝染した。生徒たちのあいだに“王子、まさかの恋落ち説”が一気に広がり、講堂は一種の情報カオスと化していた。


 控え室に戻ったアルヴァンは、椅子に沈み込むなり、両手で顔を覆った。


「……今の俺……王族として……いや、人としてどうなんだ……」


 背筋がどこまでも折れ曲がり、まるで椅子と融合しそうな勢いだ。


 そんな王子を、壁際に立つシグルドが腕を組んだまま見下ろしている。


「陛下がこれをご覧になったら……まず“眉間にしわ”ですね。そして“執務室で正座”です」


「……うっ……やめてくれ……それは本当に……精神的に刺さる……」


 苦悶の声を漏らしながら、王子は両手の指を絡ませ、ぐしゃっと前髪を押し込んだ。


「何が“やっと会えた”だ……! あれはアレだ、詩的表現だ。偶然の感動を……言葉に……」


「はいはい。殿下、今度から直情性格は抑えてください」


「ぐぅぅ……!」


 シグルドのあっさりとした皮肉に、アルヴァンは机に突っ伏した。高貴な額が、堅い机にめり込みそうな勢いだった。


***


 一方その頃、講堂はまるで芸能スクープの速報現場。


「王子があんなに慌てたの、初めて見た!」

「しかも“やっと会えた”って、プロポーズか何か!?」

「でも、相手って……バルティネス家の……ティーナさん?」


 口々に囁かれる声、ちらちらと交わされる視線。その中心にいたティーナは、目を瞬かせながら小さく呟いた。


「……あの、わたし……なにか、変なこと……しましたか?」


 ぽかんとした表情はいつもどおり。それを囲むクラリスとミーナ、そしてエレオノーラも一様に混乱していた。


「まさか、ティーナが王子と知り合いだったなんて……!」


「いや、それ以前に、あれはもう“王子落ちた事件”だと思う……!」


「ふふ、やっぱり天然最強伝説ね!、ティーナかわいい」


 エレオノーラがティーナに抱き着いている。


***


 男子教室。窓際の一角では、三人の男たちがそれぞれ壁にもたれ、妙な沈黙を漂わせていた。


 セイルが、眼鏡を押し上げる。


「……殿下まで現れたとはね。思っていた以上に、状況は厳しい」


 レオンが腕を組んで吠えた。


「いやいやいや! そもそもなんで王子がそこまで本気なんだよ!」


 ユリウスは、ため息をついた。


「……あの“やっと会えた”は、語彙的にはシンプルだが、情熱が極まっていた」


「なんでそんな分析してんだよ!」


「問題は……あの目だった。彼は本当に、あの瞬間しか見えていなかった。まっすぐすぎて……悔しい」


 沈黙が、また漂った。


 レオンがつぶやいた。


「ティーナって、なんであんな無自覚なんだろうな……」


「それが最大の武器なんだろうな……」


 そして三人は、無言で頷き合った。


***


 夜。


 ティーナは自室の窓辺で、あたたかいお茶をひと口含みながら、机に置いた日記帳にさらさらとペンを走らせていた。


「今日も、力を使わずに過ごせた。……それから、王子様が“やっと会えた”って……あれは、私に向けた言葉だったのかな?」


 小首をかしげながら、最後の一行を書き終え、日記を閉じる。


 小さくあくびをひとつ。


 布団に入ったティーナは、そっと目を閉じた。けれど、まぶたの裏にはあのときの王子のまなざしが、ふんわりと浮かんできて消えない。


 なぜあんなふうに笑ったのだろう――


 そんなことを考えながら、ティーナは寝返りを打った。もう目を閉じたままでも、月の光が部屋に差し込んでいるのがわかる。


 窓の外、夜空には雲ひとつない満月。白く輝く光が、静かに部屋の壁を撫でていた。


 ティーナはその月の気配に、小さく微笑んだ。


***


 その頃、王宮の寝室では、アルヴァンがシーツをぐしゃぐしゃにしたまま、ベッドの上で転がっていた。


「うわあああああああああああああ!!」


 顔を両手で覆い、枕を抱きしめ、何度もゴロンと左右に回転。絨毯の上に落ちた王家のスリッパも、ぬいぐるみのように蹴散らされている。


「なんだよ“やっと会えた”って……あれ、今思い出しても鳥肌が立つ……!」


 頭を抱えても、耳元であのセリフが何度もリフレインする。しかもティーナはぽかんとした顔のままだった。いや、正直その顔が……可愛かった。いやでも違う、それ以前に──


 ベッドの上での悶絶は、しばらく止まりそうにない。


 豪華な王子の部屋に、ただ、月の光だけが高い窓から差し込んで、床に細長い影を描いていた。


 ふたりの想いは、今はまだすれ違ったまま。でも、どこかでそっと重なり始めていた。月の夜に、ほんのわずかずつ。


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