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第10話

 王宮の朝は、まだ静寂に包まれていた。


 その空気を破るように、控えの間で驚きの声があがる。

「殿下……もうお目覚めに?」


 執事ルドルフの言葉に、侍女たちも顔を見合わせる。王子アルヴァンはすでに椅子に腰掛け、鏡に映る自分と向き合っていた。寝癖一つない髪、整った制服。そして胸元には、鮮やかな青のスカーフがきっちりと結ばれている。


 その様子を見た護衛隊長シグルドが、ぼそりと呟いた。

「早起きに付き合わされる俺の身も考えろ……」


 アルヴァンは静かに立ち上がると、一言だけ告げる。

「行くぞ。……遅れるわけにはいかない」


 その言葉に、シグルドは深く息を吐いた。



 学園の門をくぐった瞬間、空気が変わった。

「今日の王子、ちょっと格好よすぎない!?」

「うそ、あの色、似合いすぎる……!」


 女子生徒たちの黄色い歓声があがる一方、男子たちは明らかに不機嫌な顔をしていた。

「何、色気づいてんだよ……朝から飛ばしてるな」


 そんな周囲の視線を余所に、アルヴァンはどこか落ち着かない様子で辺りを見回している。


 その挙動を見て、シグルドが小さく呟いた。

「……アルヴァン、何やってるんだ」


 チャイムが鳴ると同時に、アルヴァンは教室を飛び出した。シグルドがため息をつきつつも、無言で後に続く。


 最初の教室の扉を開けた瞬間、女子たちの声が一斉に上がった。

「王子が来た!?」「わたしの席、前の方でよかった……!」


 教室中が色めき立ち、アルヴァンの視線の先に自分がいるのではと、そわそわし始める。だが、王子の目は誰にも留まらないまま、すっと教室を後にした。


 続いて向かった教室では、ざわめきは起こらなかった。代わりに男子生徒たちの視線が突き刺さる。

「……またかよ」

「なんなんだ、今日のアイツ」


 気まずい空気が流れる中、アルヴァンは一人一人の顔を確認するように視線を走らせる。だが、求めている人物はここにもいなかった。


 さらに三つ目の教室。扉の前で立ち止まった王子は、静かに中を見渡した。女子生徒がそっと姿勢を正し、視線を送るが、アルヴァンの目はそのどれにも応えない。数秒後、彼は何も言わずに背を向け、無言で廊下を歩き去っていった。


 元の教室へと戻ると、アルヴァンは椅子に沈みこみ、前髪をかきあげる。

「……ふう」


 そのあとすぐに、彼は決意を胸に立ち上がった。

「校長室へ行く」


 シグルドがぎょっとする。

「はあ? おいおい、今度は何を──」


 だが、すでにアルヴァンは真っすぐに歩き出していた。後には深く沈んだシグルドの疲れたため息だけが残された。


 やがて、校内放送が館内をくぐもった声で満たした。


「これより、アルヴァン殿下からのお言葉があります。生徒諸君は講堂へ集合してください」


 制服姿の生徒たちがぞくぞくと講堂に集まり、あちらこちらでさざ波のような会話が交わされていた。


「王子が演説なんて珍しいわね」

「特別行事でもないのに、どういうこと?」


 壇上に立つアルヴァンは、整然と並んでいく生徒の顔を順に目で追っていた。


 ──あの少女。


 一週間前の噴水の光景。光に透ける髪、落ち着いた後ろ姿、名も知らぬ彼女の面影が、ずっと胸の奥で揺れていた。


 幻だったとは、思いたくなかった。


「見間違いだったはずがない。必ず、どこかにいる」


 その思いだけを頼りに、講堂を包むざわめきの中で視線を走らせる。


 その隣、護衛のシグルドも手を後ろで組みながら、表情ひとつ変えずに視界を動かしていた。


 しかし見当たらない。


 講堂は広く、生徒の数も多い。しかもティーナは背が低い。ちょうど前列の大柄な生徒の影に隠れ、どちらの目にも留まらなかった。


 時刻は定刻に迫る。


 壇上のアルヴァンは、深く息を吸い込む。


 見つからなかったという失望と、どこかにいるかもしれないというわずかな希望を胸に収めて、言葉を整える。


 そして、落ち着いた口調で語り始めた。


「君たちは、我が国の誇りだ。日々、学問と鍛錬に励み……」


その声はよく通り、堂内に静かに響く。

だが──


彼の視線が、ふと後列の一角で止まった。


そこに、いた。


控えめな姿勢で椅子に腰かけ、周囲に埋もれるようにして演説を聞いている少女。

その髪、その制服、その静かな気配。


──ティーナ。


彼女は気づいていない様子で、まっすぐ前を見つめていた。

そのあまりにも自然な佇まいに、アルヴァンは思わず言葉を失う。


「……え?」「王子が止まった?」


生徒たちの間に、ささやきが広がる。


ティーナも、周囲の空気の変化に気づき、小さく首をかしげた。


「……王子様、体調でも悪くなったのかしら?」


壇上のアルヴァンは、それには応えず、ただ視線を逸らさないまま静かに一歩を踏み出した。


「……本日の言葉は、ここまでとする」


その一言が、講堂の空気を一変させた。


「えっ、もう終わり?」「ちょっと、今の何だったの……?」


ざわつく声、困惑のざまざまな視線。

だがアルヴァンは動じることなく、講堂の中央通路をすたすたと下りていく。


視線の先、まっすぐに──ティーナへと向かって。


通路の両脇の生徒たちは、息を呑んだままその姿を見送っていた。


ティーナの前で足を止めたアルヴァンは、微笑を浮かべたまま、ごく自然に言った。


『やっと、会えたね』


周囲がざわつくのも忘れるほどの沈黙。


ティーナは、ぽかんとした表情で彼を見上げた。


「……え?」


その瞬間、講堂の全体が一気に息を吹き返したように騒然となる。

だがアルヴァンは気に留めず、ただその場に立ち、彼女と目を合わせていた。


その微笑みに、ティーナはどう返していいか分からず、小さく瞬きを繰り返すばかりだった。


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