陽射しのまぶしい午後、グラウンドには各クラスの生徒たちが続々と集まっていた。
ざわつく声、白線の匂い、砂埃を巻き上げる風。空にはまだ淡い青が広がっている。
「クラス対抗戦、いよいよ開幕ね!」「今日は全力でいくよ!」
意気込みが飛び交う中、ひときわ小柄なティーナの姿は、広いフィールドに少しだけ心もとなく映っていた。
周囲には、男爵家のミーナとクラリス、そして伯爵家のエレオノーラ。親しい仲間たちが、心配げな表情で彼女を囲んでいた。
「ティーナ、本当に大丈夫?」「無理はしないでね」「怪我だけは、気をつけて」
少し離れた男子の輪では、ひとりの生徒がドンパッチに声をかけていた。
「野球、できるのか? 足、引っ張るなよ?」
ドンパッチは、うつむいたまま、かすれた声で答えた。
「……はい。できる限り、がんばります」
その声がかき消されるように、先生の声がグラウンドに響いた。
「初戦の相手、政務研究科に決まりました!」
普通科のベンチから歓声が上がる。
「やった、政務研究科だって!」「これはいけるかも!」
「よし、次のバッター、ミーナ! 頼んだぞー!」
ベンチからの声に、ミーナがバットを担ぎ、軽く笑って応えた。
「まかせて! あたし、こういうの得意だから!」
そして打席に立つと、スイング一閃。打球は勢いよく外野へ抜け、先取点をもぎ取った。
小柄ながらも軽快なフットワーク。何より明るいその性格で、ミーナはムードメーカーとしてチームを盛り上げていた。
守備ではクラリスがファーストで踏ん張っていた。
「ファースト頼むぞ、クラリス!」
「うん、がんばる!」
長身で少しふくよかな体格を活かし、男子の速球も難なくキャッチ。味方からは「頼れる」と称賛の声が飛んでいた。
そして、最も意外な光を放っていたのが、セカンドのエレオノーラだった。
伯爵家のお嬢様とは思えないほど俊敏で、長い手足を活かして華麗にボールを捌く。
普通科は誰もが予想しなかった快進撃を続けていた。
力では劣るはずだった彼らが、強豪を次々と撃破し、ついに決勝の舞台へと辿り着いた。
「普通科が……決勝?」
そんな声が学園中を駆け巡った。
勝ち進むたびに、期待と注目はふくらみ、決勝当日のグラウンドには、熱気とざわめきが渦巻いていた。
そのすべての戦いにおいて、ドンパッチは黙々とチームを支えていた。
華やかさはないが、堅実なプレーで仲間たちの信頼をじわじわと集めていた。
ティーナも同様だった。
派手さはないが、打った球はすべて内野を抜け、空振りはゼロ。
静かに走っているはずなのに、気づけば一塁を抜いていた。
「……全部ヒットって、あれ反則だろ」
そう呟かれるほど、安定感は際立っていた。
ピッチャーも警戒し、ティーナへの投球はフォアボールが続いた。
そして、いよいよ決勝戦。
相手はスポーツ科。
グラウンドに立つ選手たちは、まるでプロを思わせる堂々たる体格と技術。
誰もが「これは勝てない」と思った。
試合が始まると、やはり壁は厚かった。
3回を終えて、スコアは5対0。普通科はリードを許していた。
そして──3回表。
打順8番、ティーナが打席に立った。
「……壊れないように、やさしく振らないと」
そうつぶやきながら、ティーナはゆっくりと構えた。
投手のストレートを見極め、力まずバットを振る。
打球は内野の隙間へ、ふわりと転がっていく。
野手が素早く処理して一塁へ送球──間に合わない。
ティーナは、静かに一塁ベースを踏んでいた。
「まぐれまぐれ、どんまい!」
スポーツ科の声援が飛ぶ。だが、その声に不安が混じっていた。
そして、打順9番。
ドンパッチが打席に入った。
姿勢はうつむき、髪が顔を隠していた。
「これは楽勝だろう」
そう判断したピッチャーが、ど真ん中へストレートを投げ込む。
カーン。
乾いた快音が、グラウンドに響き渡った。
打球は一直線に空を駆け、外野奥へと突き刺さる。
特大のホームランだった。
下を向いたままベースを回り、ドンパッチがぽつりと漏らした。
「……力加減、間違えた」
彼がホームへ帰ると、ベンチは歓声の渦に包まれた。
「おいおい、あれスポーツ科でも無理だぞ!」「なんであんなの打てるんだよ!」
ドンパッチの一打が、試合の空気を変えた──
そして、3回裏。
審判の声が響いた。
「ピッチャー交代、ドンパッチ!」
外野から戻ったドンパッチが、無言のままマウンドへ向かっていく。
乱れた髪に隠れた表情に、観客はまだ戸惑いの眼差しを向けていた。
だが、それまでの活躍が影響していたのか──静かに空気が変わっていく。
「……あいつ、もしかして……」
ざわり、とざわめきが広がった。
見た目は野暮ったい。体型も、スポーツマンには程遠い。
それでも、ドンパッチの立ち姿には、不思議な安定感があった。
投球が始まると、その違和感は確信に変わっていった。
球速は速くない。
だが、リリースの瞬間に見せる手首のひねり、指先の感覚、そしてフォームのしなやかさ。
ドンパッチのボールは、相手打者のタイミングを狂わせた。
スローカーブからストレートへ、ストレートから緩いチェンジアップへ。
緩急の妙で、スポーツ科の強打者たちを次々に打ち取っていく。
いつの間にか、ティーナが出塁するたびに、ドンパッチは打点を重ねていた。
外野の奥へ飛ばすこともあれば、転がすような鋭いゴロもあった。
一本一本のヒットが、確実に点となって積み重なっていった。
5対0だったスコアは、やがて5対3、5対4、そして──6対5。
普通科が逆転した。
気がつけば、最終回、9回裏を迎えていた。
スポーツ科の選手たちがベンチで肩を落としている。
最強を誇っていた彼らが、信じられないという目でスコアボードを見上げていた。
それでも、最後の打者が立ち上がる。
「……意地でも出ろ。普通科には、負けられない」
ベンチから絞り出されるような声が響いた。
ドンパッチは、静かに構えを整えた。
いつもと違う、しなやかで大きなモーション。
左足を高く上げ、体全体をしならせる。
そして、投げた。
ボールはまっすぐ、糸を引くような軌道を描いて、キャッチャーのミットへと吸い込まれた。
キャッチャーが音を立てて尻もちをついた。
バッターは、バットを握ったまま、動けなかった。
ストライク。
その瞬間、審判の右手が高く掲げられる。
試合終了。
グラウンド全体が一瞬の静寂に包まれ──やがて、どこからともなく叫びがあがった。
「ドンパッチ! ドンパッチ!」
観客席、ベンチ、そして普通科の応援団から、声が次々に重なっていく。
「ドンパッチ!!」
コールは波のように押し寄せ、球場を包み込んだ。
その中心で、うつむいたままのドンパッチが、そっと帽子を取り、顔を上げる。
太陽の光の中で、乱れた髪の隙間から、わずかに笑みがこぼれていた。
勝った。
普通科が、スポーツ科に、勝ったのだ──。