教室に張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。
ティーナの中でも、それと同じように何かがほぐれていった。
胸の奥で鳴っていた緊張の拍動はいつのまにか消えていた。
あの優しい声が、まるで空気を撫でるように彼女の心を整えていったのだ。
椅子に座ったまま、肩の力がゆっくりと抜けていく。
あれほどぎこちなかった空気が、いまでは穏やかな沈黙に変わっていた。
昼休みが終わる鐘の音が、そろそろ響きそうな気配をはらんでいた。
ユリウスが「しゃーない」とでも言うように小さくため息をついて立ち上がった。
「そろそろ、戻らないとな。こっちも授業始まっちゃうし」
セイルとレオンも無言でうなずき、三人は揃って静かに背を向ける。
なんの余韻も残さず、スッと立ち去る姿には、一種の清々しさがあった。
教室の空気も、それに合わせるようにゆっくりと日常の色を取り戻していく。
午後の授業が始まると、ペンの音と、先生のゆったりとした声が教室に広がった。
ほどなくして、先生が黒板の前でチョークを止め、こちらに向き直った。
「ドンパッチ君。この式が、なぜこうなるのか……説明してもらえますか?」
教室の空気が、一瞬だけピキンと張った。
後ろの席で、ある女子がにやりと笑って囁いた。
「やっば……私じゃなくてよかった~。これ、意味わかんないやつ」
教室の何人かは、ドンパッチの髪型と制服を見て、「まあ無理だろ」と内心でジャッジを下していた。
ところが。
ドンパッチは静かに立ち上がると、机を離れることなく、小さな声で語りはじめた。
「はい。まずこの式の根幹となるのは、構造的に……」
言葉はか細くとも、内容は緻密で、理路整然としていた。
途中でつっかえることもなく、声のトーンすら乱れない。
ひとり、またひとりと教室の視線が吸い寄せられていく。
まるで、教科書がそのまま喋っているかのような正確さだった。
「あれ……普通に答えたぞ?」
「ていうか、めっちゃ頭いい系じゃない?」
「マジかよ……あんな格好してるのに……」
感嘆とも敗北ともつかない呟きが、教室のあちこちで囁かれはじめた。
先生も思わずペンを止め、しばし無言のまま板書を眺めていたが、やがて一言だけ言った。
「……よくできました」
その言葉の中には、確かに褒めの響きがあった。
けれど同時に、「くっ、一本取られた……」という微かな敗北感も混じっていたようだった。
ティーナは、なんとなく教室のざわつきを感じながら、椅子に座ったままふと横を見た。
目が合った。
ばっちり合った。
ドンパッチも、まるで呼吸を合わせたかのように、ちょうどこちらを見ていた。
その瞬間、ティーナの心臓が、思い出したかのように跳ね上がる。
目の前の彼は、王子アルヴァンとは全然違う顔をしているのに、
なのに、その瞳だけは──あの講堂で自分を見つめた、あの目と同じだった。
言いたかった。
「……すごいですね」
その一言を。
でも、声は喉の奥でぷるぷる震え、結局のところ口からは出てこなかった。
ティーナはそっと視線を前に戻し、黒板の上に意識を滑らせた。
そのとき、誰かがぽつりと呟いた。
「……ダメか」
どこからともなく聞こえたその声が、妙に胸に残った。
ティーナの心臓は、またもやバタバタと忙しなく跳ね始める。
すっかり落ち着いていた鼓動が、まるで誰かがスイッチを押したかのように盛大に再起動していた。
やがて授業が終わると、クラスの雰囲気も少しずつ和らぎはじめた。
生徒たちの間で、ぽつぽつとドンパッチに話しかける声が出始める。
「お前、すげぇな。あれ、俺でも詰まったぞ」
「見た目と中身、だいぶギャップあるな……いや、なんか逆にイイわ」
ドンパッチは特に笑ったりすることもなく、でも拒絶もせず。
いつも通りの小さな声で、ひとつひとつ丁寧に返事をしていた。
そのやりとりを遠くから見つめていたティーナは、なんとも言えない感情を抱えたまま、帰り支度を始めた。
──その夜。
ティーナは、月明かりに照らされた自分の部屋で、窓辺に立っていた。
なんでもないような、でもどこか重たい一日だった。
後悔が胸の中で、ふんわり膨らんでいた。
「あの時、ひとこと言えていれば……」
視線を逸らしてしまったこと。
何も言えなかったこと。
そのどれもが、今さらじわじわと効いてくる。
月を見上げながら、ティーナは静かに目を閉じた。
一方その頃、王宮では──
王子アルヴァンが、自室の鏡の前で、今日何度目か分からないかつらを脱ぎ捨てていた。
「……やっぱ、変装やりすぎた、この顔じゃ無理か……」
ぐしゃぐしゃにした金髪をかきあげながら、彼はベランダに出て月を見上げた。
「……明日は、すこしでも見てくれるかな……」
同じ時間、同じ月。
それぞれの場所で見上げるその光は、ほんの少しだけ、形が似ていた。
心の奥のどこかが、ふわりと重なっていた──まだ言葉にはならないまま、静かに。