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第17話

教室に張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。


ティーナの中でも、それと同じように何かがほぐれていった。

胸の奥で鳴っていた緊張の拍動はいつのまにか消えていた。

あの優しい声が、まるで空気を撫でるように彼女の心を整えていったのだ。


椅子に座ったまま、肩の力がゆっくりと抜けていく。

あれほどぎこちなかった空気が、いまでは穏やかな沈黙に変わっていた。


昼休みが終わる鐘の音が、そろそろ響きそうな気配をはらんでいた。


ユリウスが「しゃーない」とでも言うように小さくため息をついて立ち上がった。


「そろそろ、戻らないとな。こっちも授業始まっちゃうし」


セイルとレオンも無言でうなずき、三人は揃って静かに背を向ける。


なんの余韻も残さず、スッと立ち去る姿には、一種の清々しさがあった。

教室の空気も、それに合わせるようにゆっくりと日常の色を取り戻していく。


午後の授業が始まると、ペンの音と、先生のゆったりとした声が教室に広がった。


ほどなくして、先生が黒板の前でチョークを止め、こちらに向き直った。


「ドンパッチ君。この式が、なぜこうなるのか……説明してもらえますか?」


教室の空気が、一瞬だけピキンと張った。


後ろの席で、ある女子がにやりと笑って囁いた。


「やっば……私じゃなくてよかった~。これ、意味わかんないやつ」


教室の何人かは、ドンパッチの髪型と制服を見て、「まあ無理だろ」と内心でジャッジを下していた。


ところが。


ドンパッチは静かに立ち上がると、机を離れることなく、小さな声で語りはじめた。


「はい。まずこの式の根幹となるのは、構造的に……」


言葉はか細くとも、内容は緻密で、理路整然としていた。

途中でつっかえることもなく、声のトーンすら乱れない。


ひとり、またひとりと教室の視線が吸い寄せられていく。

まるで、教科書がそのまま喋っているかのような正確さだった。


「あれ……普通に答えたぞ?」


「ていうか、めっちゃ頭いい系じゃない?」


「マジかよ……あんな格好してるのに……」


感嘆とも敗北ともつかない呟きが、教室のあちこちで囁かれはじめた。


先生も思わずペンを止め、しばし無言のまま板書を眺めていたが、やがて一言だけ言った。


「……よくできました」


その言葉の中には、確かに褒めの響きがあった。

けれど同時に、「くっ、一本取られた……」という微かな敗北感も混じっていたようだった。



ティーナは、なんとなく教室のざわつきを感じながら、椅子に座ったままふと横を見た。


目が合った。


ばっちり合った。


ドンパッチも、まるで呼吸を合わせたかのように、ちょうどこちらを見ていた。


その瞬間、ティーナの心臓が、思い出したかのように跳ね上がる。

目の前の彼は、王子アルヴァンとは全然違う顔をしているのに、

なのに、その瞳だけは──あの講堂で自分を見つめた、あの目と同じだった。


言いたかった。


「……すごいですね」


その一言を。

でも、声は喉の奥でぷるぷる震え、結局のところ口からは出てこなかった。

ティーナはそっと視線を前に戻し、黒板の上に意識を滑らせた。


そのとき、誰かがぽつりと呟いた。


「……ダメか」


どこからともなく聞こえたその声が、妙に胸に残った。


ティーナの心臓は、またもやバタバタと忙しなく跳ね始める。

すっかり落ち着いていた鼓動が、まるで誰かがスイッチを押したかのように盛大に再起動していた。


やがて授業が終わると、クラスの雰囲気も少しずつ和らぎはじめた。

生徒たちの間で、ぽつぽつとドンパッチに話しかける声が出始める。


「お前、すげぇな。あれ、俺でも詰まったぞ」


「見た目と中身、だいぶギャップあるな……いや、なんか逆にイイわ」


ドンパッチは特に笑ったりすることもなく、でも拒絶もせず。

いつも通りの小さな声で、ひとつひとつ丁寧に返事をしていた。


そのやりとりを遠くから見つめていたティーナは、なんとも言えない感情を抱えたまま、帰り支度を始めた。


──その夜。


ティーナは、月明かりに照らされた自分の部屋で、窓辺に立っていた。


なんでもないような、でもどこか重たい一日だった。

後悔が胸の中で、ふんわり膨らんでいた。


「あの時、ひとこと言えていれば……」


視線を逸らしてしまったこと。

何も言えなかったこと。

そのどれもが、今さらじわじわと効いてくる。


月を見上げながら、ティーナは静かに目を閉じた。


一方その頃、王宮では──


王子アルヴァンが、自室の鏡の前で、今日何度目か分からないかつらを脱ぎ捨てていた。


「……やっぱ、変装やりすぎた、この顔じゃ無理か……」


ぐしゃぐしゃにした金髪をかきあげながら、彼はベランダに出て月を見上げた。


「……明日は、すこしでも見てくれるかな……」


同じ時間、同じ月。


それぞれの場所で見上げるその光は、ほんの少しだけ、形が似ていた。


心の奥のどこかが、ふわりと重なっていた──まだ言葉にはならないまま、静かに。


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