早朝の教室には、まだ誰の姿もなかった。
窓から差し込む淡い朝の光が、整えられた机の列に斜めの線を描く。その中で、ティーナとドンパッチは、まるであらかじめ仕組まれたかのように、並んで座っていた。
ふたりはまったく言葉を交わさず、ぴしりと正面を向いたまま微動だにしない。それはちょっとした“静寂の彫刻展”のような光景だった。
両者とも、今朝こそは先に登校し、静かに心の準備を整えるつもりだった。だが、開けたドアの先で互いの姿を認めた瞬間、軽く思考が飛んだ。結果、挨拶もできず、そのまま席に着いた。
自分は静かに一日を始めたいだけ。相手に気を使わせたくない。ただ、それだけだった。けれど、なぜか教室は張りつめた氷の空気に包まれていく。
しばらくして、パタパタと足音が遠くから近づき、一人の生徒が扉を開けて入ってきた。
「おはようございます」と、いつもなら普通の挨拶をするはずだった。
だが、目に飛び込んできたのは、何かの儀式でも始まりそうな異様な沈黙。ティーナはまっすぐ前だけを見つめ、ぴくりとも動かず、ドンパッチはうつむいたまま、まるで影のように沈黙を守っていた。
新たに入ってきた生徒も、これは何か触れてはいけない空気だと察し、そっと自分の席へ向かった。
次の生徒も、さらにその次も、扉を開けては一瞬止まり、無言でその場に馴染んでいく。数分後、教室には満員の生徒がいたが、誰もが同じ方向を見て、同じように黙り込んでいた。
まるで全員が「ここは今、言葉を発してはいけない舞台」だと心得ているようだった。
だが、その場にじっと座っていたドンパッチ――いや、王子アルヴァンの心は、ひどく賑やかだった。
彼は確かに、誰よりも早く来るつもりだった。余裕を持って座り、余裕を持って自然に話しかける予定だった。
なのに、よりにもよって、扉を開けた瞬間、そこにはティーナがいた。しかも、ほぼ同時に。
気まずさに拍車がかかり、心の準備どころか、自分の名前すら忘れかけていた。緊張の波が何層にも押し寄せ、脳内では“どうしてこうなった”の文字がぐるぐると踊っていた。
隣に座るティーナもまた、胸の奥で盛大に嘆いていた。
自分が先に来れば平穏な朝を迎えられるはずだった。だからいつもより早く起きて、いつもより念入りに支度をして、誰より先に教室の扉を開けた――そのつもりだった。
けれど、前の扉と後ろの扉。その両方が同時に開き、視線が合った瞬間、何かがパリーンと砕けた。
誰も何も悪くない。だが、事態はどうにもこうにも気まずい。挨拶を交わすこともできず、ふたりはただ座り、動かず、固まり続けていた。
そんな異様な朝の風景を見た担任教師は、教室の異様な静けさに目を細め、ふとつぶやいた。
「ついに……私の教えが通じたか」
教師は妙に誇らしげな顔で黒板に向かい、何食わぬ顔で授業を始めた。
昼休みの鐘が鳴った瞬間、教室の扉が勢いよく開かれた。
現れたのは、誰もが一目でわかる三人組。ユリウス、セイル、レオン。いつもより輝いて見えるのは、おそらく気のせいではない。
彼らはまるで「騎士団の出陣」のごとく、迷いなくティーナの席に直行した。
「おかしいな、教室が静かだぞ……」
ユリウスが周囲を見回し、目を細める。これは嵐の前の静けさか、それとも嵐の最中か。
「ティーナ、そんなにまっすぐ正面見つめられると、僕、鏡かと思ってしまうんだが……」
セイルは腕を組んで不満げに言うが、その声も空振りに終わった。
「もしかして体調悪い? 大丈夫? 顔色……見ようとしたけど、まっすぐ前しか見てないから確認できないよ?」
レオンの心配はいつも全力だが、今回はちょっと空回り気味だった。
三人それぞれが声をかけるも、ティーナはまっすぐ前を向いたまま、完璧な石像のごとく反応がない。
「これは……空気がちょっと、いや、かなりおかしいぞ」
教室の空気がざわり、と揺れた。
数人の生徒がそっとティーナの視線の先を追うと、そこには――うつむいたまま、ただならぬ雰囲気を放つ少年。転校生・ドンパッチがいた。
その視線を察知したユリウスは、ぬっと前に出て、彼の前に立った。
「……おい、君」
重低音のようなその声に、ドンパッチはゆっくりと立ち上がった。その動きはなぜか妙に流麗で、所作ひとつに貴族的な余裕すら漂っている。
「はじめまして。ドンパッチと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
声は小さく、かすれていたが、不思議とよく通った。しかも、まるで詩の朗読のように優しく響く。明らかに「ただの転校生」ではなかった。
ユリウスは戸惑いながらも、ぎこちなく返す。
「あ、ああ……よろしく」
セイルがその様子を見て、わずかに目を細める。
「妙に礼儀正しいな……さては只者じゃないな、こいつ」
そしてレオンが、お約束のようにストレートな言葉を放った。
「というかさ、その髪型と服、もうちょっとなんとかしたほうがいいぞ」
クラス中に微妙な笑いが広がった。
だが、ドンパッチはまったく動じない。逆に、ほんの少し申し訳なさそうに言った。
「髪は、生まれつきの癖毛でして……よく皆さんからも言われます。服については……ちょっと、事情がありまして……」
その答えがあまりに真摯だったため、レオンの顔にすうっと困惑の色が浮かんだ。
「あっ、ご、ごめん。そんな深い話になると思ってなくて……なんか、ほんと、悪かった」
普段なら軽口で返すレオンも、今回ばかりは素直に謝るしかなかった。