目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話

朝の光が差し込む廊下を、ティーナはそっと歩いていた。


周囲の視線は、もはや「見るだけ」では終わらなくなっていた。誰かが通るたびに、ぺこりと頭を下げられたり、こっそり笑顔を向けられたり。それが昨日までの空気とまるで違うことに、ティーナ本人は、まったく気づいていなかった。彼女の歩調は相変わらず丁寧で、目指す教室へとまっすぐ向かっている。


その教室では、なにやら騒がしい風が吹いていた。どうやら今日から転校生が来るという話題でもちきりのようだった。

「転校生って男? 女?」「絶対イケメンか美人だってば!」

そんな声がポップコーンのように弾けており、生徒たちはそわそわの極み。すでに名前も出どころもわからないまま、公爵家だの侯爵家だのと大予想大会が始まっていた。


教室の扉がカチャリと音を立てた瞬間、その空気はさらにピーンと張りつめる。


担任に促されて現れたのは、ひょろりと背の高い少年だった。


その瞬間、空気がごくりと喉を鳴らしたような静止感。何人かの女子生徒が息を飲み、視線が一斉に集まる──が。


次の瞬間、教室の全員が固まった。


なぜなら、現れた少年の姿が──あまりにも場違いだったからである。

制服はくたびれてヨレヨレ、袖には土。髪は見事なまでにボサボサで、目がどこにあるのかすら見えない。まるで、どこかの農村から迷い込んできたような……いや、迷ってない。これは明らかに本人の意志で来ている。


教室のあちこちで「……ん?」という空気が漂い始め、女子数人が「ふふっ」と笑いをこらえきれなかった。


担任の先生が、そんな空気をぺしりと抑えるように一呼吸置いてから言った。


「彼は家庭の事情で、本日よりこの学園に編入します。どうか、皆さん、仲良くしてあげてくださいね」


その声には妙な慎重さがにじんでおり、「扱いを間違えたら危ない」感がうっすら漂っていた。


──だが、生徒たちはその空気をまったく読まない。


「……むり……」「なんか、きも……」

「いや、無理ゲーだろ」「俺、あの席になったら休むわ」などなど、どこからともなくサイレント悪口の雨が降り注ぎ始める。


「では、自己紹介をお願いします」


担任の声は、ついに「やけに丁寧」にまでランクアップしていた。


少年は、うつむいたまま、蚊の鳴くような声でつぶやく。


「……ぼくの名前は、ドンパッチです。みなさん……よろしく、お願いします……」


その声量、隣の席までが限界ライン。語尾は震え、前髪は動かず、視線は地面一点集中。結果──“教室の中にだけ現れた謎の局地性低気圧”のような存在と化していた。


先生がチラリとクラスを見回し、わざとらしく「ティーナさんの隣です」と指名した瞬間──


ドン! と音がしたわけでもないのに、教室の空気が明らかにざわついた。


「うそ……ティーナの隣?」

「マジであの子、引き強すぎじゃない?」

「いや、逆に引いてるって……」


名指しされた生徒は、露骨にいや〜な顔を浮かべつつ、机をガタゴトと引きずって立ち上がった。


その様子を遠巻きに見守る生徒たちは、一様に「関わりたくないけど、見たい」オーラを放ちながら、視線をそらさず様子をうかがっている。


ドンパッチは、教室のど真ん中をうつむいたまま歩いていく。


そして彼は、ティーナの隣にたどり着くと、そろりと視線を上げ──というより、前髪の隙間からうっすら光を通しながら、小さく尋ねた。


「となり、座ってもいいですか……」


その声は、まるで捨て猫が玄関前で「にゃ……」と鳴いたような儚さだった。


ティーナは、いつものように丁寧に顔を上げ──その瞬間、胸がドクンと跳ねた。


見えた。あの目。あの講堂で王子アルヴァンが、「やっと見つけた」と言いながら、自分にまっすぐ歩いてきたときの、あの“瞳”だった。


──えっ、なにこれ。王子さまと同じ瞳?


あらゆる思考が一瞬止まり、ティーナは心臓の音が飛び跳ねていた。


だがそれを気づかれないよう、なんとか声を絞り出す。


「……はい、私の隣でよければ……どうぞ」


その一言が落ちるや否や──


「うわぁ……ティーナからも距離取られてんじゃん」


「やっぱ無理でしょ、あれは……」


ささやき界隈がざわつきはじめ、教室の空気が妙にピリピリし始めた。


だがティーナの心のざわめきは、それどころではなかった。ノートを開いても、目が文字を拒否している。ペンは握っているのに、まったく書き出す気配がない。


彼女の変化は、すぐに周囲の生徒にも伝染した。


「ティーナ、なんか……顔色、悪くない?」


「横見なければ大丈夫……うん、大丈夫そう」


心配なのか、変な希望なのか、よくわからない囁きが飛び交う中、ティーナはひたすら前だけを見つめていた。


その頃──


学園の最上階、重厚な扉の向こうにある校長室では、例の“転校生”がすでに根回しを完了していた。


アルヴァン王子は、眉間にシワを寄せ、校長相手に「転校生として潜入させてほしい。席は必ず彼女の隣で」と、真顔でお願い(という名の命令)をしていたのだった。


当然、周囲は全力で止めに入った。だが、王子は、誰にも止められない。


「……お前、本当に、それをするのか?」と呆れた声が飛んだのは、もちろんシグルドである。


こうして完成したのが──完璧に名前からして浮いている「ドンパッチ」という転校生だった。


──


授業中も、ティーナはなんとか平静を保っていた。


でも、チラリとも横を見ない。何があっても横は見ない。そこに“王子のまなざし”があると思うだけで、何かが暴れ出しそうだった。


だからこそ、ティーナは背筋をこれでもかと伸ばし、前方に集中──いや、集中「するフリ」を徹底していた。


その凛とした後ろ姿は、まるで「人類代表」として隣席の謎に立ち向かっているようにも見え、生徒たちは遠巻きに尊敬の眼差しを送っていた。


──


放課後。


自宅に帰ったティーナは、鏡に映る自分の顔を見て、眉をひそめた。


熱い。なんか頬が熱い。妹には「今日ちょっと変だよ」と言われたが、「大丈夫よ」と答えるのが精一杯。


「明日、私……どうすればいいんだろう」


その疑問を胸に抱えたまま、ベッドに潜り込む。


──同じ月を見上げる、別の場所。


王宮の部屋、かつらを脱ぎ捨てたアルヴァン王子が、ぐっしゃぐしゃの金髪でぼそりと呟いた。


「一度もこっちを見てくれなかった……変装、やりすぎたか……」


その隣では、満月がただただ煌々と輝いていた。


──月の光を挟んで、ふたりの心は、すれ違ったまま、ゆるやかに重なりはじめていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?